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◆92/4/8 第二サティアン
善悪の考え方、だれに近づけば上流となるか
わたしたちの善悪についての考え方は何によって立脚しているものだろうか。それは小さいときからの教育や、あるいは、自分自身で学んだいろんな考え方、あるいは、経験に基づいて立脚しているといえよう。
例えば、ここに極厳修行者がいたと。そして、この極厳修行者がお腹をすかしていたと。そして極厳修行者でない者がいたと。その人が、「ああ、この極厳修行者はお腹をすかしているんだ。哀れだなあ」と、近くのスーパーマーケットに走り、パンや他の食べ物を買って渡すと。この、パンや食べ物を買って渡す行為そのもの、これは、「善である」、あるいは「悪である」、あるいは「善でも悪でもない」、この三つの点から考えた場合、君たちはどのように考えるだろうかと。
もちろん、ステージの高い者は悪だと断定するだろう。あるいは、上流の意識はないが、まあ一応教義がなんとなく入ってる者は「善かもしれないし、悪かもしれないな」と考えるだろう。そして、ステージの低い者、つまり、真理の法則が根づいてない者は善だと考えるだろう。
ではなぜ、真理の法則の根づいてない者は善だと考え、まあ法則は若干は根づいてるけど現世的修習をしている者は善でも悪でもないと考え、あるいは完全なる上流は、威厳をもって「悪だ」と言い切れるのだろうかと。
これは煩悩に対する見解の違いであると言い換えることができる。例えば、ここに煩悩捨断の修行を行なっている者がいて、空腹にさいなまれたとき、「ああ、この人は煩悩捨断の瞑想を行なっている。そして、空腹にさいなまれてると。わたしも以前空腹だったことがあると。よって、この人の空腹を満たしてあげよう」と考えると。つまり、この人の意識の中では「以前わたしも苦しんだことがあると。よって、この人も苦しんでるわけだから、わたしはその人の苦しみを取ってあげよう」と。よって、「いいことをしたんだ」という意識がそこで生じると。ここで、この、文章上ではカギ括弧つきで「いいことをした」人は、極厳修行を行なってる人と親しくなると。そして、次に自分が困ってるとき、戒律違反を手伝ってもらえるという関係が成立すると。
では、ここで考えなければならないこと。それは、この人はなぜ空腹に陥り、その空腹をどのように対処しなければならなかったのかということである。
もともと真理の実践というものは苦しみから逃れ、苦しみの出ない条件のもとに身を置き、そして平安な境地を楽しむものではない。これが他のヨーガ的技法と真理の実践の違いである。わざわざ苦しいところに身を置き、その中で苦しみの出ない意識状態を形成する----これが真理なのである。だとするならば、極厳修行、そして、対象は自己の煩悩というこの状況を作り出した状態で、その煩悩が生起したとき、その煩悩を満たす行為、あるいは、満たす行為を手伝うこと、これが果たして善といえるかどうかということになるね。
次の意識状態の者は、まあそれはわかっていると。そして教義上も悪だというのはわかっていると。しかし、自己の煩悩から考えると、なんとなく相手の立場はわかるから、それは認めてしまうと。この第二の立場の意識状態というものは、まだ真理の流れに入った者とはいえない。なぜ真理の流れに入った者といえないんだろうかと。この魂の意識状態は半分凡夫の意識状態を形成しているからである。つまり、「お腹をすかしている。かわいそうに」という意識である。しかし、カルマの法則をしっかり見極められる第三の立場に立つと、はっきりとこうなる。「あの人は極厳修行者であると。そして、極厳修行の状態で、今空腹を経験してると。そして、その空腹の経験は証智の段階であると。つまり、空腹というものは存在すると。つまり、わたしたちは普段飽食でいるわけだが、条件が変わればわたしたちは空腹になり得るんだと。つまり、わたしたちは空腹という苦しみを経験し得るんだと。あの人はなんて幸せな人なんだろうと。それを生きてるうちに、修行期間中に経験できると。次の段階で、あの人がもしその空腹を捨断することができるならば、あの人は空腹を超えた境地を現証することができるであろうと。さあ、やっとあの人は第一歩が始まった」という見方をすることができるはずである。
そして、この第三のパターンのみが上流となり、高い世界へと至るパスポートを得たことになる。第二のパターンは、これからどの方向に意識が向かうかによって、つまり現世的修習を強く行なうのか、あるいは修行者的教義を自己の中に吸収する方向に強く向かうのかによって、上へ向かうか下へ向かうかが決定されると。一番初めのパターンの人は強いザンゲを行ない、そして、本当に真理のデータを入れないと、いくら修行しようと思っても修行はできないものである。
これは、極厳修行に入っているときの条件だけではない。先程のDとKさんとの関係、これもまさに同じである。つまり、向煩悩滅尽多学男や向煩悩滅尽多学女は対象に対する励まし方というものがある。その励まし方というのは法則にのっとり励ますべきである。法則にのっとり激励すべきである。法則にのっとり鼓舞すべきであると。もし、法則にのっとり鼓舞せず、現世的な励ましや、あるいは現世的な鼓舞をした場合、そこには現世的な関係が成立することになる。
ということは、まず第一番目に何を意識させなきゃならないのか。それは、わたしは修行者である。あなたも修行者である。修行の目的は、わたしたちの要素、----ま、昨日0君から、単細胞から変化して人間に至る過程の話が出たが----そのような意識の存在、魚や動物や、あるいは鳥や、他の低級霊域のいろいろな生命体の要素を捨断すると。そして、人間以上の光輝く生存、光輝く生命体として存在し、最終的にはその光を超越し、死を超越し、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地へと到達する同朋であると。それ以外の存在ではないと。それ以上の存在でもないと。よって、励まし方は教義にのっとり励ますべきである。教義にのっとり鼓舞すべきである。そして、これらの関係が成立するならば、そのエリアからの成就者はどんどん出るはずである。
一つ面白い例がある。以前編集というものは、要するに編集局長がい、組織的・固定的なパートであったと。しかし、それを一昨年の七月、解体し、個々の小グループに分け、一人一人に自覚を持たしたと。そして、そこから一気に出版攻勢が始まったと。確かに若干の問題もあったことは事実だが、その人たちは自覚し、「自分たちは救済の一役を担っているんだと。そして、これはより大きな利益を衆生に与えることができるんだ」という自覚のもと、奮闘したと。そして、そこで奮闘した人たちはほとんどが成就し、間もなく全員が成就するであろうと。
では、なぜ全員が成就するのかと。それは個人個人、一人一人が「自分自身は向煩悩滅尽多学男である」と。あるいは、「向煩悩滅尽多学女である」と。「そして、麻原彰晃の弟子であり、自分たちのしょっている使命というものは、より多くの人に真理の法を流布することである」という自覚、これが生じ、全力でワークを行なったからである。つまり、個々における甘えというものは、以前の上下関係その他が吹っ飛んだがために成立しなくなり、そして個々が自己の限界でワークをし、救済を意識したからであるといえる。
そして、このような改善されたセクションについては成就者が多く出、改善されない点については、逆にどんどんそのパートが活動できなくなっていくと。今のMATの問題、Tさんの提起した問題、これはまさにそこに起因するといえると。
わたしたちが法友に対してどのような目で見るのか。わたしたちが同じステージの者、上位のステージの者、下位のステージの者に対してどのような目で見るのか、どのような耳で聞くのか、あるいは、君たちにはわからないだろうが、どのようなにおいを嗅ぐのか、これは大変重要である。そして、本質的に縁が近ければ近いほど、厳しく接し、その縁探き魂が高い世界へ、安定した世界へ、絶対的な世界へ誘われるということを祈る。そして、自分自身もそのように奮闘し、瞑想し、功徳を積み、善をなし、そして法則の実践を行なうと。このような関係が成立するならば、それは真の友と呼ぶことができる。
ここにAさんとBさんがいたと。このAさんとBさんは、以前は妥協した関係で、破戒をお互いに手伝う関係であったと。しかし、あるとき一方が目を覚め、「これではいけない」と。「わたしは四つの静慮を達成するために出家したんだ」と。「そして、六神通を得るために出家したんだ」と。そこから意識が変わり、そして解脱した例、こういう例もある。この場合いったん関係は破綻する。しかし、この関係の破綻は少なくとも一方にとっては有益である。その一方とは、四つの静慮を目的とし、六つの神通に向かって修行を進めようと考えた魂のことである。そして、本当に、この二つの魂が縁が深ければ、もう一方の魂も必ず引きずられ、修行は進むはずである。
今日わたしがこのような善悪の話を君たちにした背景には、次のことが挙げられる。つまり、今日の例は一部であると。このような例によって、すべての現象を見なさいと。そして、この下向イコール悪魔のささやきに、君たちは絶えず対面しているんだと。なぜならば、君たちはもともと大乗のまねごとの修行をしているわけだから、絶えず下向に向かう、そういう現象の中で存在しているんだと。よって、心を強く持ち、何が上流で何が下向なのかと。だれと近づけば上流になり、だれと近づけば下向に向かうのかということである。
では、だれと近づけば上流になり、だれと近づけば下向なのかと。一般的にそれはこう考えることができる。「自己のステージより上の人と近づけば上流である」と。しかし、それは過ちである。なぜならば、真に上流の道を指し示すことができるのはグル以外存在しない。他の者たちは、そのデータの中の何パーセント、何十パーセントかが上流であって、残りは下向であると。そう考える強い意志が存在するかどうかだ。つまり、本質的にグル一本に絞り込むことができるならば、真の友をグルと見ることができるならば、それは、君たちが間違いなく早く最終の地点へ到達する考え方を獲得したことになる。
別の言い方をしよう。このグルとは、グル、そしてグルの説く法則のことであると考えたらよろしい。だから、周りと無駄な会話をするより、法則の記憶修習を一分たりとも怠らず努力する者、この者はより早く解脱へと向かうはずである。
では、どのような者と接してはいけないのか。それは煩悩を増大させる対象を有する者と接してはいけないということになる。まず第一は、例えば、自分自身の好む形状・容姿を有している者と。第二は、自分に甘い言葉をかけてくる異性と接する、これは決してやってはいけない。第三は、着物の話、食い物の話等の外的煩悩を満たすような話をする人と接してはいけないと。第四は、その他の現世的情報を好んで話す人と接してはいけないということになる。これらの者と接すると、わたしたちは知らず知らずのうちにデータがけがれ、そして、気づいたときには、その煩悩の修習を無意識のうちに行なっている。
では、これに対してどのように打ち消すことができるのかと。それは、まず、修行のできない人は修行の歌、これを聴くことから努めると。そして、できるだけ多くの修行のデータの入っている歌を記憶修習すると。そして、それができたら、次は基本的なマントラ、これを唱えると。そして、自分のわかるレベルの本、あるいはテープから学習に入ると。これを繰り返し繰り返し自分のレベルに合わせて行なっていけば、必ず君たちはこの悪魔の誘惑から解放され、光を超越する存在へと移行していくはずである。
では、なぜ君たちの真の友はわたししか存在しないと言い切れるのかと。これは、わたしの高弟たちが君たちの修行をいくら見ても君たちが成就しないことからもわかる。例えば、君たちはわたしの法則を聞くことのみによって解脱をすることができる。これは、おそらく間もなく始まるスリランカでも成就者が出だすだろう。それは、解脱の全プロセスを理解した、おそらく日本で、----いや世界でもそうかもしれない----ただ一つの魂と、スリランカの僧がまみえることができるからである。
そして、君たちは同じ言語体系を持つ存在の中にグルを見いだすことができる。君たちはそれだけの誉れを持っているわけだ。その誉れを君たちが最高の喜びとせず、一体何を最高の喜びとするのか。それだけの最高の友がここに存在するのに、君たちは何に対して目を向けているのか。君たちの目的が解脱であるにかかわらず、解脱を指し示す者以外の何を見つめるのか、ということになる。
南伝大蔵経、パーリ三蔵は大変優れた経典である。しかし、その優れた経典を実践している人たちの中で何人解脱しているかと。わたしの対談したアーナンダ・マイトリー僧、彼がまあ、どこまでいってるかというぐらいのものである。それは、それほど経典の内容を理解すること、これは難しいからである。なぜ難しいのか。それは経験した者のみが読み切ることのできる、読み取ることのできる内容だからである。
そして、君たちはその道を指し示されている。その多くの教えを君たちの中に内在している。君たちは自己のサハスラーラとして、自己の神聖天として、自己の大神聖天として、自己の仏陀として、自己のグルとして、グルを仰ぎ見ることができるならば、君たちは間違いなく最終地点へ到達することができるだろう。しかし、君たちがグルを人間として、単なる一つの魂として認識するならば、君たちの修行は間違いなく失敗するだろう。それは君たちがどのような法則の目を持って現象を見ているかで決まるのである。
(尊師)修行の原則、第一。
(修行者)喜覚支。
(尊師)第二。
(修行者)現世捨断。
(尊師)第三。
(修行者)不放逸。
(尊師)そして? 沈黙の行。そして? 煩悩が出てきたときは奮闘する、いいね。奪闘努力する、いいね。今日の話にあったとおり対決する、いいね。
(修行者)はい。
(尊師)対決できない魂は解脱がない、いいね。
(修行者)はい。
(尊師)しっかり頑張ろう。