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◆92/4/7 第二サティアン
一般常識と真理の世界観
「わたしは普通よ」「これがわたしなの」「これが常識なのよ」「あなた間違ってるわ」「おまえはこの考え方もわからないのか」----。よく人はこのような言葉を使う。そして、その言葉の本質的な意味をだれも理解していない。「これが一般的常識である」という言葉を定義する場合、それはこの人間世界において、例えば、少なくとも五十パーセント以上の人がその考え方に立脚し、行動をしているということを意味しているにすぎない。
ここで問題になってくるのは、わたし自身が一般の常識というものを否定する立場にあるというわけではないということである。
わたしたちは修行者である。そして、修行者というものは、地獄・動物・餓鬼・人間、そして阿修羅・愛欲の天界・神聖天界、正確な言い方をするならば、激苦地獄・動物の発生・低級霊域、そして人間としての出生・意識堕落天への転生・愛欲神への転生・神聖世界への移行・光の世界への移行、そして絶妙の美しい世界への移行・生命の変化のない世界への移行、それから空間のみが存在する世界への移行・識別のみが存在する世界への移行----ここで、識別のみが存在する世界への移行というのはどういう世界かというと、そこにはただ単に思念しか存在していない----そして全く何も存在していないかのような世界への移行と。そして、その世界はあまりにも非感覚的なるがゆえに、認知して、認知できる、あるいは、その認知を超えている世界への移行と。そして、最終的にわたしたちは光を超越し、闇を超越し、完全な二元の世界から自立し、真我の独存位へと至ると。
これだけの世界観をわたしたちは知るチャンスに恵まれている。その知るチャンスに恵まれているわたしたちが、「これは常識なのよ」「これが普通なのよ」という会話を耳にしたとき、どのように考えなければならないかについて、これから君たちに話をしたいと思う。一般的に、「これは普通なのよ」「これは常識なのよ」という話をする人の意識、これは明らかに一つのことにとらわれている意識状態であるといえる。例えば「人間の幸福とはこうである」、あるいは「人間の不幸とはこうである」、あるいは「人間世界の喜びとはこうである」、あるいは「人間世界の生き方とはこうである」という考え方である。
しかし、その人を観察すると、その人は幸福ではない。その人は明らかに不幸である。もし、その人が幸福であるとするならば、その人はこのように話をするであろう。「今あなたの悩みはこうこうである」と。「しかし、それはこれをこのように実践することによって、このように解決できる」と。「そして、未来においてこのようにそれは発展され、死に際してこのような結果を招き、そして流転においてはこのようになるんだ」という話である。
これならば納得できる。なぜかというと、少なくとも今生存している瞬間から死までの瞬間をとらえ、この二つの区間だけを説明するのではなく、そのあとの死後の世界にも、一応は言及してるからである。しかし、納得はできるが完成された答えではないといえよう。それはなぜか。それは、「このように流転するのよ、あなたは」と。「それはわかりました」と。「では流転したその次の生はどうなんでしょうか」と。----それについて答えることはできないからである。
そして、これについて答えることのできる教え、それは絶対的な真理のみである。しかし、その部分について、あまり力点をおいて法則を説いている例えば仏教においても、サキャ神賢の時代はその点に力点をおいて法をお説きになっていたわけだが、大乗仏教の登場とともにその教えは衰退へと向かったと。それはなぜかというと、人間の意識が近視眼的な意識に変わったからである。近視眼的な意識とは何かと。それは今この瞬間から死ぬまでが楽しければいい。あるいは、今この瞬間から死ぬまで豊かでありたいと。
例えばである。テーラヴァーダの根本的な教えにはこういう教えがある。布施を徹底的に行なうと。そして、働かないで法の実践を行なうと。これが在家の最高の状態であると。しかし、大乗に入るとそうではない。布施は偉大であると。それは現世に還元できると。そして、現世においてより豊かな、より大きな事業を成功させ、あるいは、より大きな発展を達成させると。
しかしである。ここには大きな落とし穴が存在している。では、その落とし穴とは何かと。テーラヴァーダの教えを考えてみよう。テーラヴァーダの教えは、この愛欲の世界から離脱し、形状界の世界へ入り、そして形状界の世界から離脱し、非形状界の世界へ入り、そして最終の解脱へと至ると。ということは、今積んでいる功徳、この今積んでる功徳がより大きな形でこの現象界での功徳になるとするならば、それは、その人の心の成熟、あるいは霊的変化というものを、霊的成熟というものを止める形につながる。つまり、ここにメリットがあると。そのメリットがどこへ使われるかという問題につながってくるのである。
しかし、一般社会においては大きな事業、大金持ち、あるいは大いなる地位、大いなる権威、権力、あるいは大いなる名誉といったようなものに称賛が集中するがあまり、仏教もとうとうそこまで堕落してしまったのである。
では、堕落した結果どうなったのか。これはもうすでに、仏陀の教え、お釈迦様の教えではなくなってしまったということになる。つまり、在家信徒の基本、在家信徒の鏡の教えがそこに存在しないわけだから、ましていわんや、出家修行者が出家し、解脱できようはずがないと。
では、どのように考えるべきなのかと。「わたしの求めているものは解脱です。まず、わたしは解脱を求めます」と。では、その解脱とは何かと。「それは、まず第一に、尊師のお説きになっている法が、あるいは真理勝者方がお説きになられた法が、あるいはシヴァ大神のお説きになられた法が真実であるかどうかを知り得るために、まず、わたしは三界を経験しとうございますと。
その三界とは横割りと縦割りがございますと。まず、横割りとは、この愛欲の世界、低位形状界、そして低位非形状界であると。縦割りの構図とは、この愛欲の世界から、上へ向かい、上位の形状界、あるいは中位の非形状界、そして上位の非形状界をぶち抜いて、マハー・ボーディ・ニルヴァーナへ到達する世界のことでございますと。
そのためには経典に説かれてるとおり、あるいは、教えに説かれてるとおり、徹底的に功徳を積みとうございますと。徹底的に善をなしとうございますと。そして、その功徳、善をもとに、法則の修行に入り、寂静の修行に入り、そして形状界を経験しとうございますと。その形状界は、低位形状界にしろ上位形状界にしろ、徹底的に経験し、そして、それをまず知りとうございますと。次に非形状界、これを経験しとうございますと。
そして、その段階でその愛欲の世界、それから低位形状の世界、上位形状の世界、低位非形状の世界、中位非形状の世界、上位非形状の世界、マハー・ボーディニールヴァーナの、このすべてが本当に無常なのかどうか、あるいは、そこへ存在してる生命体の寿命はどうなのだろうか、それをすべて知りとうございますと。なぜならば、もし、楽のみが存在し、その楽が不変であるならば、わたしはその世界が最高だと考えるからです。というのは、今までの仏教の教えにおいては、マハー・ボーディ・ニルヴァーナとは涅槃寂静、完全な止滅の状態、止まった状態。こういう止まった状態に存在しても意味がないではないですか」と。
このような高度な謬見解に次の段階でわたしたち修行者は向かうべきであると。なぜわたしがここで謬見解と言ってるかというと、マハー・ボーディ・ニルヴァーナについての検討、これがこの修行者にとっては甘いからである。
つまり、この現世の「これが常識なのよ」というラインから比べるとこの修行者は、はるかに高い智慧、あるいは、はるかに高い知性、はるかに高い修行者としての土台を有してることは間違いない。しかし、この修行者は三界が何たるか、あるいは、マハー・ボーディ・ニルヴァーナは何たるかを理解できないと。
「では、麻原彰晃、君はそれを理解してるのか」と。当然、わたしは君たちに法則を説いてるわけだから、それについては理解してるといえよう。では、マハー・ボーディ・ニルヴァーナとは何だと。それは絶対自由の境地であるといえると。絶対自由とは何だと。それはいかなる世界へも自在に意のままに自己を現わすことのできる力であるといえると。つまり、三界からの解放とは、三界へ転生しない----これは正しいわけだが----だけではなく、三界へ現われることはできる状態、これは第一番目であると。
では、第二番目。その状態はどういう状態だと。これは絶対歓喜の状態であると。なぜならば、このときにこの身体は法則の身体を有している。法則の身体とは何かというと、カルマの法則において決して悪業にならず、すべての行為、言葉、心の働きが善、徳、寂静の実践、そして法則の実践へとつながるような身体を有しているからである。
そして、この魂はカルマの理法のすべてを理解しているから、絶対幸福の状態でいられると。つまり、すべての制約を解き放った不死、これこそがマハー・ボーディ・ニルヴァーナになるんだと。つまり、いくら三界の素晴らしい境地が存在していたとしても、その三界の素晴らしい境地はすべて無常を根本としてると。しかし、この真我の独存位に至っては、マハー・ボーディ・ニルヴァーナに至っては、それらの条件をすべて超越しているんだということである。
こう考え、これを記憶修習し、これを実践している魂と、それから、「あんた方、もっと楽しみがあるわよ」。例えば、ここにクッキーがあると。チョコレートがあると。ラーメンがあると。あるいは、なまめかしい女体の写真があると。このような、わたしたちを高々下位四番目の人間の世界に結びつけるような、世界へと意識を結びつけるものに心をとらわれて、それを常識と見、それを豊かと見、それを幸福と見るような人たちに対して、あなた方はしっかりと正見解によって対応しなければならない。
そして、仏教ではこのような人を漢訳で凡夫と訳してるね。しかし、この漢訳で凡夫といってるのは、なにも特別な軽蔑語ではないんだよ。凡夫とは「平凡社」にあるとおり、平凡な人、普通の人、普通の考えの人、つまり、人間界のカルマにまみれた普通の考えの人ということを意味してる。
そして、これは出家したサマナにおいても同じことがいえる。このような思考をなしてる者は普通の人、つまり凡夫なのである。サマナは出家し、サマナ服を着てるからサマナではない。サマナは先程述べたように、最高の正見解を有する努力をし続けてる者、そして、その経験を時間がかかろうが一つずつ確実に自分の中で体験していってる者、これがサマナなのである。
そして、いろいろな煩悩に対して、いろんなトライの仕方によって、例えばヒナヤーナ的トライの仕方、あるいはマハーヤーナ的な試み、あるいはタントラヤーナ的な試み、あるいはヴァジラヤーナ的な試み、あるいはテーラヴァーダ的な試みのいかなる試みでも構わないから、その試みによって自己の煩悩を超越しようと努力してる魂、これを向煩悩滅尽多学男、あるいは、これを向煩悩減尽多学女というのである。
そして、この向煩悩滅尽多学男、あるいは向煩悩滅尽多学女がいかに偉大であるか、これをよく考えてごらん。この魂は智慧を磨いていると。例えばだよ、ここに肉体的に発達した人がいて、----ま、プロレスラーでもいいけど、あるいは相撲取りでもいいけど----その人が最高の自分を発揮できる世界へと没入したとしよう。この人は一体、どれくらいの費用を稼ぐだろうか。どうだ。ま、せいぜいが一億とか、五億とか、十億とか、そんなもんだろう。しかし、もし、ここにインスピレーションによって最高に売れる商品を発見した人がいたら、その人はどの程度稼ぐだろうかと。それは何百億かもしれないし、何千億かもしれない。これは何を意味してるかというと、単純な力と智慧の違いね、本質的な違いを意味してると。
そして、智慧ある者はこの現象界における苦しみについても正確に見つめ、分析し、検討し、精通し、それによって苦しみを乗り越えることができるわけだから、より多くの果報があるといえる。
そして、君たちは今まさに、その道を一歩一歩、歩こうとしてるのである。では、何を達成しなきゃならないんだと。まずはエネルギーを上方に上げ、そして、光の世界に自己の意識を移し、その光の世界でいろいろな経験のできる身体を作り出し、この肉体的意識とその動いている身体とのつながりをしっかり持ち、三界を経験すると。これが供養値魂、最上正覚者の段階だよね。
目指せ、供養値魂を。そして最上正覚者を。それは君たちが一瞬一瞬、全力でサマナとしての自覚を持ち、そして、向煩悩滅尽多学男、あるいは向煩悩滅尽多学女としての、つまりビック、ビックニーとしての意識を持つことによって、記憶修習することによって、念ずることによって、結果は得られるんです。いいね。