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◆92/4/4 第二サティアン
詳解・十二の条件生起の段階----非神秘力から苦しみへの転落

 わたしたちは、「これがわたしである」、あるいは「これはわたしのものである」、といった心の状態に支配される。そして、「これが」、あるいは「これは」という意識状態は意識の範囲を限定する。そして、これを観念と呼んでいる。この観念はそれ以外のものの見方を禁止し、それ以外の考え方がくると、それに対して否定的、あるいは反撃性を生じさせる。そして、この観念こそが非神秘力、漢訳では無明と呼ばれている状態である。
 では、この観念はどのようにして経験されるのか。あるいは、この観念はどのようにして構成されるのかと考えるならば、それはわたしたちが日々行なっている経験における認識、これを土台としてるのだということができる。その典型的なものが物理や化学などである。
 例えば、物理はまず観念的世界観を形成し、そして、そこでそれが正しいか正しくないかの実験を行なうと。実験を行ない正しければ、それが正しいんだとして、経験として決定されると。しかし、それなるがゆえに、逆にそれ以上のもの、それより優れたものを見ようとしなくなると。これは化学についても同じである。そして、宗教についても同じである。例えば、このような世界が存在しますよ、これ以上の世界は存在しませんよという規定をすると。
 しかし、真理、この真理を根本としたサキャ神賢の教え、これらはそれらの限定への束縛、これをすべて破壊し、解放させようと努める。そして、最終的にわたしたちは有≠ゥら無=Aそして、無≠ゥら非有≠フ状態へと移行すると。
 この経験の構成はどのようにして形成されるのか。それは識別によって形成される。例えば、ある物理法則があるとして、あるいは、ある教えがあるとして、それを観察した人たちが、あるいは、それを実際に経験した人が、「これは正しい」、あるいは、「これは正しくない」、あるいは、「この法則は利益になる」、あるいは、「利益にならない」と、あるいは、「この法則より、より優れた法則が存在する、しない」と、このように識別を形成していくと。それによって、経験の構成はなされるのである。
 では、この識別は何によってなされるのだろうかと。それは心の働きと形状・容姿によってなされるのであると。ここでいう心の働きと形状・容姿とは、君たちが変化身で体験する状態、つまり、粗雑な五大エレメントをあまり有していないが実際に形があり、その形には心が乗っかってる状態、この状態での経験が根本となる。この状態での経験は心の働き即、心の世界の変化と。そして、心の働きが即、形状・容姿へと現われるという世界である。そして、それによって、わたしたちが求めている煩悩の中でその煩悩を満足させる世界を形成し、そこへ没入し、心はいろいろな経験をなす。そして、いろいろな経験をなし、それを識別し、経験の固定を行なうと。経験の固定を行なうことによって、観念を確実に固定化してしまうと。
 では、この心の働きと形状・容姿は、一体何によって外界と接してるのだろうかと。それは、目・耳・鼻・舌・身体の感触、そして意識である。この六つの受容器、六つの対象を認識する器官が、外的な対象あるいは内側の対象に対して接触を行なうことになる。外的対象に対しては、目で見る、耳で聞く、鼻で匂う、舌で味わう、あるいは、身体の感触で実際にその触覚を味わう、ということで理解しやすいだろう。では内側の接触とは何かというと、例えば以前経験したこと、これを記憶する。記憶して、記憶を再生すると。記憶を再生して、そこでいろいろと考えると。あるいは、他の魂のヴァイブレーションを感じると。そのヴァイブレーションを感じることによって、いろいろ感じると。これら六つの感覚器、六つの外的および内的接触によって、わたしたちは完全なる感覚の経験、あるいは、情緒の経験といったものを生じさせる。そして、これらの情緒の経験は、わたしたちにタンハー、つまり渇愛≠生じさせるのである。
 この渇愛とはどういうものかと。これは一度経験したもの、それを喜びとした場合、もう一度経験してみたいと思う心の働きである。実際、マハームドラーの原典的な考え方では、このタンハーを利用した考え方が中心となる。つまり、表層の意識では、その魂は自分自身の行動、あるいは、言葉の働き、心の働きを理解できないと。しかし、その魂の行動の傾向、行動パターンというものを理解するならば、その魂が何に対して愛着しているのか、あるいは、何に対してとらわれているのかということを一目瞭然として見ることができると。そして、とらわれている対象、あるいは、とらわれているもの、これをしっかりと理解したら、それに対して徹底的な厭逆の瞑想を行なわせる。あるいは、それを昇華させるような特殊な瞑想を行なわせることによって、その魂のタンハーを止滅させるのである。
 そして、わたしたちがこの渇愛に負けた場合、次はどうなるのかと。それに対して、とらわれるようになる。ここで言うとらわれ≠ニは、「いや、わたしは何々にとらわれているんですよ」というようなものではない。例えば、例を挙げよう。わたしたちは無意識のうちに箸を使うと。あるいは車の修習をすると、あまり意識しないで手でハンドルを使ったり、あるいは、足でペダルを踏んだりすると。これがとらわれなのである。記憶修習の結果、考えることなく一つの行動パターンをなす状態、これをとらわれとするべきなのである。
 そして、このとらわれ、この記憶修習の成就の結果、わたしたちはこの三界へと転生すると。そして、特に愛欲の世界、カーマローカに転生するパターンは、その記憶修習の結果、粗雑な五大エレメントに対して大きな影響を与える意識の状態で転生することになる。それによって、わたしたちは粗雑な五大エレメントの肉体を得るのである。
 そして、当然、この生存から出生、出生をなしたならば、わたしたちを待ち臨んでるものは真に苦しみ、ただそこには苦しみしかない状態である。では、なぜ苦しみしかない状態といえるのだろうか。
 例えば、ここに愛する人がいたと。この人と仲良くなり、結婚し、子供を生み、そして、死んでいくと。このとき、愛してれば愛してるほど、死のときの苦しみは断末魔の苦しみであろう。あるいは、ここに嫌な相手がいたと。この嫌な相手と一緒にいなければならないとするならば、それもまた苦しみであろうと。あるいは、殴られたと。痛いと。これもまた苦しみであろうと。あるいは、健康状態でハツラツとして生きていたと。しかし病んでしまったと。そして自由が利かなくなると。これもまた苦しみであろうと。あるいは、生まれて成長し、そして青年期を迎え、元気ハツラツにスポーツをなし、あるいは徹夜をし、好きな勉強をし、あるいは、恋愛をし、本当に楽しい一時期を経験すると。しかし、徐々に年を取ってくると、そのような体力がなくなると。そして、死ぬ前になると、本当に老いぼれてしまい、記憶は弱まり、一切の感覚器官の働きは鈍くなり、この世は楽しいものとは思えなくなってくると。これもまた苦しみであると。
 このようなかたちで、わたしたちはどのような角度でこのカーマローカを見たとしても、このカーマローカは苦しみなのである。この愛欲の世界は苦しみなのである。苦しみをいくら楽である、いくら楽しみである、いくら幸福である、いくら有意義な世界なんだと認識しようとしても、それを変えることはできない。それを変えることができるのはただ一つ、ボーディサットヴァの生き方である。
 よって、この世の存在価値は二つしかないということができる。一つは、この世の構成を理解し、苦しみであるということを認識し、ここから出離し、そして、解脱するという道である。もう一つは、ボーディサットヴァとして、心の成熟のための道場としてこの世界を使うという方法である。
 君たちは一のパターンはよく理解できてるから、二のパターンについて少し説明をしよう。
 例えば、ここで慈愛の実践を行なっている者がいたとしょう。その慈愛とは与えるための愛である。自分自身にその見返りを求めないという実践を行なっていたとしよう。この魂はどのような傾向を身につけるだろうか。「あ、あの人も幸福になってほしい、この人も幸福になってほしい」。そして、その人が死んでいくと。死んでいくとき、その人は無常を知っているから、「わたしは生きていてよかった」と、「そして今わたしは死の途についている」と、「わたしの存在した期間が、わたしと関係のあった人たちにとって、大きな利益でありますように」と、思念しながら死んでいくと。この人は対象に対する愛着を持たないから、死のときの恐怖はないと。そして、功徳によって、当然、高い世界へと転生するであろう。これがボーディサットヴァの生き方である。決してとらわれない。そして周りの魂の利益、周りの魂の幸福だけを考えると。
 ここでいう周りの魂の利益、幸福とは何であろうかと。それは四つの絶対的真理を認識させること。あるいは、四つの修行法を実践させることである。四つの絶対的真理とは何か。これは煩悩は存在する。そして、煩悩の存在は苦しみの存在と表裏であると。煩悩の生起は苦しみの生起を引き起こすと。煩悩の滅尽は苦しみの滅尽と等価であると。そして、煩悩の滅尽に至る道の実践は、苦しみの滅尽に至る道の実践と等価であると。これらの四つの絶対的真理を説き明かすこと、そして、説き明かすだけではなくて経験させ、それを超えさせるように努めること、これが到達真智運命魂の第一の役割である。
 では、第二の役割は何かと。第二の役割は、縁あるすべての魂に徳の修行、善の修行、寂静の修行、そして法則の修行を行なわせることである。そして、すべての衆生を正確に観察し、この四つの絶対的真理の存在、そして四つの修行の価値、これをしっかりと理解すると。これをなすならば、このカーマローカはわたしたちにとって、最高の道場となることができるであろう。----しかし、それ以外は無益なのである。
 そして、わたしたちが非神秘力、つまり、観念、経験の構成、そして、識別、心の構成と形状・容姿、六つの受容器、接触、六つの受容器の働き、褐愛、そして渇愛からくる記憶修習、つまり、とらわれ、生存、出生、このどこかの一部を完全にシャットアウトすれば、つまり、捨離すれば、わたしたちは解脱へと向かうのである。しっかり頑張んなさい。