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◆91/11/12 第二上九
マイトレーヤ正悟師アンダーグラウンド・サマディIN
サマディの証明/六サマディと聖なる八段階の道

 今日は、君たちの先輩の修行者であるマイトレーヤが、この地において、アンダーグラウンド・サマディを行なうこととなった。もともと、このような企画の狙いは、サマディの存在の証明、そして、人間の限界を、修行によって超えるんだ、超えることができるんだということの証明、それを行なうためである。
 例えば、イエス・キリストは、三日間土中に入っている者、この者の預言の言葉のみを信じなさいと言っている。つまり、預言者の条件は、三日以上土中に入っていることのできる者である、というふうに言っているのである。そして彼は、四十日間、断食によるサマディを行なった。そして彼は自分自身で、わたしは預言者を超える者であるというふうに定義している。
 これは、インド・ヨーガの系統にも存在する。例えばラーマクリシュナ・パラマハンサの二十日以上のサマディだとか、あるいは皆さんもよく知っている、パラマナンダ・アビドゥー夕の水中サマディだとか、有名な記述が多い。そして、もちろん、わたしたちが基本的な教義としておいている、原始仏教の流れの中において、偉大なる完成者、サキャ神賢。サキャ神賢も同じように、四十九日間、七日間連続した、七座のサマディによって、最終の悟りを得たといわれている。
 わたしたちは、衆生済度の修行、そしてそれと同時に、神秘的な状態をキープするということを目的として、日々修行を行なっている。これはもともと、マイトレーヤ真理勝者の教えそのものが大乗に根づいており、そして、衆生を済度すること、まあこの衆生の済度というのは、実際には十三の道、----ま、十三の道とは君たちもよく知ってのとおり、信によって従う者。
 最高七回流転して、そののち完全煩悩破壊する者。
 それから、豊かな家から家へと転生し、そしてそののち煩悩破壊する者。一度だけ人間界へ転生し、そして、そののち煩悩破壊する者。一度だけ欲界の天に生まれ、そしてそののち煩悩破壊する者。
 形状界の世界に入って、そこで煩悩破壊の修習を行ない、楽を受け、そののち煩悩破壊する者。
 形状界の世界に入り、楽だけを受け、もともと根づいていた煩悩破壊のデータによって、煩悩破壊する者。
 修行を続け、形状界の神聖天から、超越童子天まで、順々と上がり、そして超越童子天でしばらく楽を享受し、そののち煩悩破壊する者。
 死後、その低い世界からいったん高い世界へポワし、つまり形状界へポワし、そののち煩悩破壊する者。
 死の中間状態において煩悩破壊する者。
 死後、形状界のバルドから、そして非形状界のバルドへと意識を移し変え、そののち煩悩破壊する者。
 死の瞬間に煩悩破壊する者。
 そしてもう一つは、この現実の世界において煩悩破壊し、死というものを境に大完全煩悩破壊するという、この十三のパターンにすべての魂を導き入れ、そして、苦悩から完全に解放させると。
 この流れに入れていくこと、これが救済である。そしてかく言うわたしたちも、この十三の段階のどれかの部分に属しているのである。
 今日集っている師の諸君は、それぞれクンダリニー・ヨーガにおいて、意識の連続、そして、変化身の体験、あるいは光の没入、光を超える体験等を経験したはずである。そしてサマディは、その君たちが経験した光のその奥の部分に、透明な空間、これは空サマディといわれている、透明な空間の広がり、というサマディを経験し、そののちその透明な空間から、形状界の、心が色として現われる世界、その心が色として現われる世界が完全に静止した状態、この状態を無兆候サマディというわけだが、その無兆候サマディに到達し、そして最終的な、一切そこには光の空間のみが存在し、そしてその光の空間は、限りなき広がりを持ちながら、広がることもなく、あるいは狭まることもないという、完全に欲望、願望を超えたサマディへと到達すると。そしてこれこそが、大完全煩悩破壊の世界であり、あるいは、最終的なわたしたちの智慧の世界なのである。
 もちろん、今回マイトレーヤ正悟師がどこまでのサマディへ到達するか、----ま、今彼は第二静慮から第三静慮、あるいは第四静慮へと経験し、そして過去世へ一歩一歩とさかのぼっている段階であるから、この五日間というのは、彼にとって大変有意義な五日間となるだろうが、どこまで到達するかは別にして、少なくとも偉大な経験、また偉大な一歩というものが、ここで記されることは間違いない。
 そして、今日ここには、目ある者が見たならば、非形状界の神々、形状界の神々、そして、愛欲神、あるいはアフラの神々が集まり、果たしてこのサマディは成功するのだろうか、その興味一つのもとに今この空間に集まっている。ま、それを君たちにね、見せることができないのは大変残念だけど、ただある人は、この空間の光の強さというものは理解できるはずである。それは神々の発する光である。
 ところでこのサマディは、原始仏教の大いなる祝福を受けている。それは今日ここに、君たちもよく知っている南スリランカの福祉協会会長であり、そして原始仏教の修行をなさっていらっしゃるグナロカ会長もいらっしゃっているということである。これは、オウム真理教の教えの中心が原始仏教を土台とし、そして、これらのサマディの内容というものは、パーリ仏典に、つまり『南伝大蔵経』にしっかりと記されているということの現われでもある。
 ところで、一般に北伝で言われているヒナヤーナ仏教、小乗と、そして南伝仏教のテーラヴァーダは全く別のものであるというのが、わたしとそしてオウム真理教のとっている見解である。それは、テーラヴァーダの研究をしていけば、当然その中に、大乗の教え、あるいは、秘密金剛乗の教えというものが内在してるということは一目瞭然である。そして、原始仏教を正確に再現すること、これこそが逆の言い方をするならば、そののち大乗部、そして秘密金剛部へと発展していった仏教の流れを、正確に説明することのできる唯一の手段であるとわたしは考えている。
 そしてその偉大な修行を行なっている君たちが、君たちの誉れ、これを何よりも大切にし、煩悩捨断し、そして近い未来において、今日これからなす、君たちの先輩であるマイトレーヤ以上の大いなる奇跡を見せ、衆生に聖の世界、聖の世界を指し示すことができるならば、それは、わたしが君たちを、わたしの息子や娘のように育てたもともとの目的というものが達成できたこととなるだろう。

 サマディにはいろんな分類の仕方がある。そして先程述べた空サマディ、無兆候サマディ、ま、これは無願望サマディとか、あるいは無精神集中サマディ、つまり、心を一点に集中しないサマディという最終段階ね、この分類は正確に言うと、六サマディといわれている分類法である。
 その第一サマディは第一静慮と同じで、有熟考にして有吟味サマディと。これは、対象と、そしてこちら側の思索のデータと、両方ともしっかりと熟考し、検討し、吟味するということがこのサマディの特徴となる。俗にいうわたしたちが使っている思索である。
 第二サマディは無熟考有吟味サマディである。これは、表層の熟考を捨断し、そして、内側のある程度深い意識状態に没入し、没入した中で出てくる潜在意識のデータに対して吟味すると。で、このときの吟味は、取る、取らないの二つの選択しか存在しない。つまり、それを、データを入れることによって分解するという方法をとらない。つまり、これは捨断の瞑想といってもおかしくない。つまり同義語であると考えなさい。
 そして第三段階は無熟考無吟味サマディ。これは俗にいうところの、究竟のサマディと同じである。しかし、この無熟考無吟味のサマディのときには、短い期間、五分とか十分とか、思考の出ない状態が存在するが、しかし必ずこれは、短い期間でまだ思考が存在する。その思考が存在したときに、次のステップとしては、無熟考にして有吟味のサマディを行なう。そしてそれよりもっと粗雑な意識状態になったときには、有熟考にして有吟味のサマディを行なうというかたちで戻ってくるというプロセスをとるのである。
 そして、この無熟考にして無吟味サマディが熟達すると、次の段階で空サマディへと没入する。空サマディといったのは、先程言った空間のサマディであると。だいたいこのときに、化身の体験やあるいは天耳通の体験、他心通の体験を行なうようである。そしてこの化身、天耳、他心の次に起きるもの、これは無兆候サマディである。この無兆候サマディというのは、この現世的なデータによって、バルドに変化が生じないということである。しかしこのサマディを深く行なうと、例えば宿命やあるいは死生智が生じたとき、つまり過去世の記憶を思い起こしたり、あるいは未来世の自分の状態、あるいは自分と緑の深い人たちの状態が見えるとき、この無兆候サマディは内側の変化なく、外側の世界の変化が生じる。
 そして、最後の精神集中をしないサマディと。この、精神集中をしないサマディというのは、言い方を換えれば、普段が完全な精神集中であると。そしてこのときには、例えば「苦しみ」「苦しみの生起」「苦しみの滅尽」「苦しみの滅尽に至る方法」について、しっかりと意識することなく理解できるし、あるいは「煩悩」「煩悩の生起」「煩悩の滅尽」「煩悩の滅尽に至る方法」についてしっかりと理解できるのである。
 ところで、この苦しみと煩悩というのはどのような関係があるのだろうかと。このまず「煩悩」「煩悩の生起」「煩悩の滅尽」「煩悩の滅尽に至る方法」をしっかりと理解するならば、その煩悩が、逆に煩悩を生起させることにより、それは苦しみの生起であるということが理解できるようになり、そして煩悩の滅尽と同時に、それは苦しみの滅尽であるということが理解できるようになると。そして煩悩の滅尽に至る方法を実践することにより、それは苦しみの滅尽に至る方法の実践であるということが理解できるようになるのである。
 ではそのためには、どのような実践を行なえばいいのだろうか。
 まず今回、マイトレーヤがこのようなかたちでアンダーグラウンド・サマディにのぞむことができるのは、これはひとえに、彼が不放逸を根本としていたからである。つまり、放逸の者は、いくらグルに「死」という経験を与えられたとしても、それは真のサマディに入ることができないのである。それはなぜだろうか。
 不放逸というものは、君たちも知ってのとおり、怠惰でない、つまりひたすら集中し続け、目的に向かって前進することを表わしている。もともと、例えば禅宗でいわれているような、ある日突然急に悟るということは、原始仏教や原始ヨーガの理念においては存在しない。それは、しっかりと自分たちが今まで構築してきた、例えば形状・容姿に対するとらわれ、感覚に対するとらわれ、イメージに対するとらわれ、そして経験に対するとらわれ、そして識別に対するとらわれといったようなものに対して、しっかりと絶えず見つめ、それを捨断する修習を培ってこそ、初めて「解脱」は達成できると。そして解脱だけではしょうがないと。これを完全な「離解脱」というかたちにしなければならない。
 解脱と離解脱の違いは何かというと、解脱とは、その、現象から解き放きれた状態と。離解脱というのは、その現象から解き放され、そしてその現象から一歩引いた状態ということになる。ところが君たちがクンダリニー・ヨーガの成就で与えられるもの、それは解脱であると。つまり、その解脱から一歩引いて離解脱するかどうかは、君たちが怠惰でなく、ひたすら、例えば聖なる八段階の実践を行なうことによって達成されるのである。
 よって、第一の法とは不放逸であると。では、不放逸の次に大切になるのは何であろうかと。これは慚愧の念である。ではなぜ慚愧の念が必要なのかと。これは、聖なる八段階の道の六番目にある、奮闘努力すると。これあの漢訳では、精進というふうに誤っているが、実際は精進という単語と、この八正道の六番目の奮闘努力という単語、パーリ語の単語は全く違うと。
 ここで理解しなければならないことは、奮闘努力すると。では何に対して奮闘努力するのかと。それは慚愧の念に対して奮闘努力するんだと。ではこの慚愧の念とは何かと。それは、真理の教えがあり、その真理の教えにのっとり、そして、しっかりと自分自身を普段から見つめ、例えばプライドの生起については、これはプライドの生起であると認め、それを一生懸命ザンゲすることにより捨断する。あるいは内側で、それを否定すると。例えば、食欲が生起したならば、これは貪りのカルマであると、しっかりと内側で否定し、そして外側に対してザンゲすると。このような意識状態があれば、当然これは奮闘努力の二正勤二正断へとつながってこよう。
 では、三番目に必要なものは何かと。これは「真知」である。真知というのは、真実の知識である。この真実の知識とは何かというと、これは前生の縁がかなり大きく絡んでくるわけだが、要するに、これは苦しみを生起させるのか、喜びを生起させるのか、それを例えばしっかり理解することである。そしてそのような真知を蓄えて、初めて正見解、多くの教義を学び、それを理解することへと発展していく。
 例えば、原始仏典であるパーリ三蔵、そしてその注釈書、この二つとっても、約四百ページぐらいの本が百二十巻あると。この百二十巻の内容は、それぞれ表面を追うならば、そんなに難しくないが、その深い部分を理解しようとするならばかなり大変であると。そしてオウム真理教は、この教えだけではなく、この教えを土台とし、世界に伝わるいろいろな教えを、その真理によって分析しているわけであるから、君たちが正見解として具足しなければならないその量というものは大変なものである。
 ではなぜその原始仏典だけで、終わりにしないのかと。これはサキャ神賢が、『真理相応』の中でこのように言ってらっしゃる。「わたしが多学の弟子に説く教えは、ほんの一部である」と。多くの真理の中で、多学の弟子が、離解脱に必要な教えのみを説くのだと。これは確かに、最も短い距離を、つまりニルヴァーナまでの短い距離を歩く場合、最も素晴らしい答えと言わざるを得ない。しかしわたしたちは、その自己の離解脱だけではなく、すべての人に対してその真理を説き明かし、真理の流れに入れ、本当に、自由・幸福・歓喜を与えるということを、修行の第一目標とおいてるわけだから、世界に伝わる多くの真理については、完壁な理解をする必要があると。そうなるとそれは、一生涯で理解できないほど、大変な膨大な量の知識を蓄えなければならない。しかもその知識は、完全な形で、整理された形で蓄えなければならないと。この正見解を行ないながら、正思惟の実践へと入っていくと。
 正思惟については、原則として三つあると。一つは、自分の修行の目的が、解脱・悟りに向かうものであるということの思索である。そしてこれは、結果的にはすべての魂の済度につながるんだという思索である。
 第二は、肉体的残酷さを捨断するための思索である。この肉体的残酷さは、必ずカルマとして自分自身に返ってくるわけだから、それを捨断しようと思索をすると。
 第三段階は、心に生起する邪悪心に対する捨断であると。心に生じる、いろいろなよくない感情というものを、結局言葉や行為として現われ、そして、三悪業を積んでしまう。よって心に生起するそのような要素を、初めから思索することによって捨断すると。このようなしっかりした正思惟は、正見解を土台としてでなければ達成することはできない。
 そして次に、つまり心という非形状界の修行から、言葉、つまり形状界の修行へと入っていく。これが正語である。
 正語の特徴は、いかにこのリアリティの世界である形状界を清澄にするかという修行である。では、リアリティの世界である形状界を、どのようにしたら清澄にできるのかと。それは、妄語、この妄語を離れることにより、アストラルの現象が、この現象界の現象と一致するというその法則を体得すると。
 綺語、この綺語を離れることによる、つまり遊び言葉を離れることにより、アストラルで経験したものが、アストラルだけの楽しみではなく、必ずアストラルで経験したものが、現象界へしっかりと同じ形で現われるということを体現する。
 悪口、これは、形状界で恐怖の世界へ落ちない、あるいは、皆さんが休んでいるときの夢見の世界で、恐怖の世界を体験しないために、欠くことのできない、この悪口を離れることは、修行となる。
 中傷および両舌、これも悪口と同じである。そして、四つの偉大なる心を培い、その心にのっとり話すことは、形状界において、神聖世界、光音天の世界、総美天の世界、そして、超越童子天への世界へとわたしたちを導いてくれるのである。
 これらの形状界の修行が終わったら、次はこの粗雑次元の世界へと入っていく。これが正行為である。この正行為は、殺生を離れ、偸盗を離れ、邪淫を離れると。もともとあなた方は出家修行者で、偉大な徳を持っているわけだから、この三つの身における悪業を捨断することにより、皆さんのけがれは完全に捨断され、そして、戯れ堕落天や意識堕落天をぶち抜いて、神聖世界へと至る道筋を作ることになるのである。そしてそれだけではなく、身において、四つの偉大な心を土台とした、優しい態度で接することにより、すべての人から尊敬を集め、そして、托鉢の食によって生きることができるのである。
 もともと、出家をし、布施も受けられないような修行者は、まさに出家の価値がないと。なぜならば、出家し、布施が受けられるかどうかということイコール、この正行為が実際に徹底されてるかどうかということの、まさに裏返しの意味、これを表わしているからである。
 そして正生活。この正しい生活は、出家修行者の場合、特に死に到達した場合、七つの覚醒部分、これを日々実践しているかどうかということになる。この七つの覚醒部分を皆さんが実践し、いかなる現象に対しても、無頓着の心をもって生活することができるならば、そして、無願望によって、ただ真理を淡々と実践することができるならば、皆さんのカルマは浄化され、善法は増大し、完全に悪業は捨断されていくであろう。これらの七つの覚醍部分、これを中間的覚醒の段階ということができる。
 そして、ここからもう一歩深く突っ込んで、奮闘努力するのである。その奮闘努力は、わたしたちの五つの愛欲の構成要素、これをよりよく浄化するために、今なしている善法を、よりいっそう増大させると。今まだ達成することのできない善法に対して、それをひたすら念じ、記憶し、修習し、そしてそれを達成できるように努力すると。今まだ捨断することのできない悪業については厭逆し、その悪癖が捨断できるように努めると。もう、すでに捨断してしまった悪癖については、それが二度と生じないようにデータを徹底的に入れ、捨断してしまうと。このような形で、君たちの五つの愛欲の構成要素が、神々へと至る状態を形成してきた段階で、いよいよ正記憶修習を行なうのである。
 この正記憶修習は、正観とそして寂止を根本としてる。ま、この正観、正観、これはどのようなことかというと、例えば肉体を愛欲の構成部分と見るのではなく、本質的に五大エレメントと見るのである。
 例えばわたしたちの中心には、骨格が存在してると。頭蓋骨から始まり、足の骨で終わるこの一つ一つをしっかりと観想し、そこに腱が付着し、そして筋肉が付き、血管が流れ、内臓が骨格の中に固定され、そして真皮、表皮といったような形で、形成されていると。このように肉体を見ると。
 あるいは感覚については、結果的には苦・楽・不苦不楽という三つは、同じ強さで存在していると。楽の感覚が強い場合、必ず苦しみの感覚も強く、苦しみでもあるいは喜びでもない感覚も同じように強いと。逆に感覚が捨断されると、その三つとも消えてしまうと。これは三つはセットであると。これはまさに現代の知覚機能と同じことを言っている。例えばわたしたちの表皮には、痛覚や、あるいは触覚や、あるいは温熱を感じるような感覚細胞というものが存在している。これらは同時に強められたり、同時に弱められたりするのである。
 心の働きについてはどうかというと、この心の働きは一定のものではなく、必ず変化するものであると。よってそれに対してしっかりと捨断すると。ではこの宇宙の法則とはどうかと。例えばわたしたちが生まれ、死んでいくと。これは、生まれ死んでいくこの間、喜びが強ければ強いほど、死というものは苦しいものとなると。
 このような形で、結局わたしたちを構成しているもの、このすべてが苦しみであり、喜びと考えるのは幻影であるというふうにとらえると。
 ではなぜ、この段階に来て初めてその記憶修習をするのかと。それは、聖なる八段階の実践、いやその以前から始まる不放逸、慚愧、真知、このような段階から、聖なる八段階の実践の奮闘努力まで達成できないと、この真の四つの記憶修習述の意味合いが理解できないのである。つまりその前の段階で、神々と同じ知性を獲得して、智慧を獲得して、初めてこの記憶修習述が理解できるのである。
 ではこの記憶修習述の狙いはなんだと。これはまず身において観察することにより、この愛欲界から離脱すると。離解脱するのである。次に、感覚において超越することにより、形状界から離解脱するのである。そして、心、そして法則から離解脱することにより、非形状界から離解脱するのである。ということは、三界から完全な形で離解脱すると。しかも、聖なる八段階の実践を日々行なうことにより、徳はどんどん高まるわけだから、その離解脱は、よりニルヴァーナから、マハーニールヴァーナ、マハーボーディ・ニルヴァーナへと至るのである。そしてその記憶修習の結果、わたしたちの入るサマディは、より高いニルヴァーナということになる。
 そして、より高いニルヴァーナから何が生じるのかと。それは当然、神通、高い神通が生じることになる。そしてこの高い神通の最終段階である漏尽詳解智、これは離解脱を意味しているのである。つまり、この段階ですべての現象に対して、「これは苦しみである」「これは苦しみの生起である」「これは苦しみの滅尽である」「これは苦しみの滅尽に至る方法である」ということが理解できるのである。「これは煩悩である」「これは煩悩の生起である」「これは煩悩の滅尽である」「これは煩悩の滅尽に至る方法である」ということが理解できるのである。
 そしてこれらの今日わたしの説く法則は、これは原始仏典の最初の教えであり、最後の教えであり、これ以上の教えはなく、またこれ以外の最高の教えは存在しない。なぜならば、先程述べた百二十巻の教えは、すべてこの最終の離解脱に向かって、その各段階においての教えを説いてるにすぎないからである。
 よって例えば君たちが、今日このわたしの教えを真に歓喜し、実践するならは、それは百二十巻の教えのすべてを理解し、実践することと同じということを意味している。そして今日のこのマイトレーヤ正悟師、君たちの先輩であるマイトレーヤ正悟師の、このアンダーグラウンド・サマディも、そのサマディの段階の実験にすぎない。
 わたしが実験にすぎないと言い放っているのは、それは、先程述べた不放逸から始まり、しっかりと日々の生活において真理の法則を根づかしていくならば、必ずや君たちも達成することができる。しかし逆の言い方をすれば、その一つ一つは大変難しい修行ということもいえるだろう。