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◆91/10/28 世田谷道場
理想的な修行者とは何か

 今日は、理想的な修行者の話をしよう。理想的な修行者とは何であろうかと。それは、多学見解を具足した修行者、これこそが、理想的な修行者であると。では、その多学見解とは一体何であろうかと。これは、まず煩悩に対して遠離する方向に向かう。あるいは、愛著に対して捨断する方向に向かう。あるいは、そこからもう一歩派生して、邪悪心に対して捨断する方向に向かう。そして、迷妄の除去に対して効果のある、そのような教え、それをどんどん蓄積していくこと。これを土台として修行する者は、必ずや、最終的に最終の悟り、最終の解脱を得ることができる。
 ではだ、その最終の悟り、最終の解脱という二つの課題に対して、その多学というものが、実際に実践されていったならば、次は何をなせばいいのかという問題が出てくる。それは、多学に基づいた思索であると。この思索においては、三乗が提起される。三乗とは、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナであると。そしてそれらの教え全体を包含するものが、テーラヴァーダであると、ね。このヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナの全体を包含するものがなぜテーラヴァーダなのかと。
 それは例えば、パーリ三蔵を見てみればよくわかることだが、サキャ神賢は、前生においてマントリカであったとうたわれている。マントリカというのは、マントラ修行者であると。ということは、最終的に十力者に至るためには、そのマントリカの部分を通過しなければならないわけである。わかるかな、言ってることは。
 ということは、君たちが三乗に基づいて、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナの三つをしっかりと自分の中に根付かせ、そしてテーラヴァーダの教えをしっかりと記憶修習し、言葉、行為、心の三つの働きを調御するならば、君たちが最終の解脱に到達することは間違いないだろう。
 ではだ、サキャ神賢の時代、例えば、マハー・モッガッラーナのように一週間で悟りを得た者、あるいはケイマのように九カ月で悟った者、遅くとも一年で悟りを開いていたわけだけども、この方法とは何だったのかと。この方法とは、特殊な修行であったと。では、それは何かと。
 まず、第一段階で、教えを徹底的に記憶すると。第二の段階で、正しい思索に入ると。この正しい思索は、何を目的とするのかというと、邪悪心の除去であると。つまり、他の生き物に対して、残酷なことをなすイメージその他を捨断する。あるいは、他の生き物に対して阻害したい心の捨断をする。あるいは、解脱、悟りとは何かをしっかりと考える。あるいは、正しい言葉とは何であるかをしっかりと考える。正しい行為とは何であるかしっかりと考える。正しい生活とは何であるかをしっかりと考える。
 いいかな、ここポイントだよ。ここまでだったら、君たちも今まで聴いたことがあるだろうけど、このときに、沈黙の行をするんだね。なぜ、沈黙の行をするのかというと、発する言葉が否定的であるならば、その否定的な言葉は、身体と心に影響を与えるからである。よって、この段階で完全に沈黙し、そして教義をひたすら入れ、そして自分の内側を検討すると。
 ではなぜね、沈黙の行をするとそれだけメリットがあるのかと。いいかな、これはよく考えてごらん、理解できることだ。
 わたしたちの要素というものは、三つに分類することができる。その三つとは何かというと、第一番目は言葉、第二番目は行為、第三番目は心であると。もちろん、この順番は、深い順からいくならば、当然、心、言葉、行為の順であると。
 ではだ、わたしたちが意図的に心を止めることができるんだろうかと考えた場合、どうかな。できないよね、それは。もう、できたら、それは悟りの状態じゃないかということになる。では、行為はどうだと。これも、できないよね。もう、止まったら、それはサマディの状態、あるいは死であると。だよね、どうだ。ところが、言葉は止めることができるよね。どうかな。これはそんなに弊害がないと。よって、まず多学見解を具足した弟子は、そこで疑問内容に、しっかりとグルに対して質問する、サキャ神賢に対して質問する、そして、疑問を除去したのちに、独りで座る、生活する。その座ったり、生活したりする間は、沈黙の行をなすんだね。
 そうすると、チェック項目はわずか二つになってしまうと。今日の行動はどうだったのかなと。今日の心の状態は。そして、その行動については、無視するんだね。無視するというのは、それは実践課題の第三番目だから、無視する。
 なぜか、考えてごらん。まず、コーザルは心でしょ。どうだ。そして、アストラルは言葉だよね。どうかな。そして、行為は、この現象界だよね。だとするならば、まず多学見解によってデータが入ってきた、これはまず、ね、チェンジしなきゃならない課題が、心だとするならば、この行為は、言葉ですらコントロールできないから沈黙してるのに、わかるよね、行為まで及ぶはずがない、でしょ。だから、行為については、一応戒律があるから、それを守るように努力しつつ、ある程度重視すると。そして、心を統御すると。そして、このような方法を取って解脱していくんだね。
 ということはだ、いいかな、正思惟さえできていれば、言葉より、言葉をね、沈黙するより、正しい言葉を語った方が利益になるんだということ。これはちょうど、お金を借りる、使う、貯める、ね、あるいは動かさない、三つあるとしようじゃないか。もっと正確に言った方がいいね。わかりやすく話すならば、ここにお金があって、多くの収入が入ってくる、多くの支出がある、その収入も、支出もない状態をつくるの三つがあったとしよう。当然、多くの収入が入ってきた方がいいわけだよね。もちろん、多くの支出があるよりは、そのお金の出し入れを止めた方がいいわけでしょ、どうかな。つまり、言葉も同上で、肯定的な言葉、真理にかなった言葉を話した方が、話さないよりはずっとメリットが大きいわけだよ。しかし、これは、真理を話さないより、真理に基づいて、つまり沈黙するより、真理に基づいて話すことは、最も難しい作業ということになる、修行ということになるわけだよ。
 よって、正思惟という段階が通過するまでは、沈黙の行をなし、正思惟ができた段階で、正語に入っていったわけだね。そして、発する言葉が要するに、妄語、綺語、悪口、両舌を離れ四無量心にかなった言葉であり、あるとするならば、その段階を通過した後に、行為の統御へと入っていったわけだ。というのは、この聖なる八段階の実践は、真剣に行なおうとすればするほど難しい。
 そして、行為の統御ができた段階で、煩悩的なものを捨断し、一日中法にかなった、真理にかなった生き方をするという段階に入ってくる。例えば、君たちわたしの弟子は、まず教学をしなければならない。瞑想をしなければならない。そして、奉仕活動を行なわなきゃならない。この奉仕活動も、四無量心のこもった奉仕活動をなすのか、あるいはそうではなくて、単に奉仕活動をなすのかは別にして、奉仕活動をなさなきゃなんないと。
 これらの段階の次に来るものは奮闘努力であると。つまり、ここはすごく大きな問題だけど、より積極的に生きる人。例えば、時間があれば法を学び、時間があれば法を説き、ね、時間があれば瞑想し、こういう生き方に次は展開していく。
 これらの段階が通過したのち、記憶修習に入ると。つまり、完全なる身・受・心・法、五蘊における証智、そしていいですか、渇愛と、これは現実という、現実だということに対する捨断、そして神秘力と、それから離解脱の現証、ね。そして、この現実生活はどういうものかということを正確に観察する正観、およびエネルギーのロスを完全に止めてしまう寂止と。そして、これを繰り返しているうちに、おのずとサマディに入ると。
 サマディに入ったならば、次は如実精通見解へと達すると。これは、俗にいうところの真の意味での六神通である。そして、最終的に完全な解脱をすると。
 ということは、君たち向煩悩滅尽多学男や向煩悩滅尽多学女が目指さなければならない出家修行者のサマナの像というものが浮いてくる。つまり、どういう成就者は、あるいはどういう説法士は尊敬に値し、どういう成就者、成就者は、あるいはどういう説法士は尊敬に値しないと。どういう成就者や、あるいはどういう説法士は目標に値し、どういう成就者やどういう説法士は目標に値しないと。そして、わたしの見る限りにおいては、この東京本部においては、現にそのような選択がなされている、自然とそういう方向に向かっているんではないかと思います。
 それは、自然の理である。例えば、川は、まず山の頂上に降った雨が、小さな割れ目に溜まり、大きな割れ目に至り、どんどん下り、そして小さな川、大きな川となって海へ流れ込むように、やはり、積極的に救済活動を行なっている徳のある魂に対しては、その指示に従うだろうし、やはり積極的に救済をしない、そして法を学ばない、法を実践しない魂に対しては、当然その言葉にも力がないし、従わないだろう。
 わたしは、これが、今の東京本部の現状だと思うんだよ。だから、例えば、まあ、Aの例があるわけだけど、彼は破戒は若干するわけだけど、積極的に生きようとしてると。積極的に自分のワークについては努力をしてると。やはり、これは見習うべきものがあって、そのエネルギーによって、サマナは、ね、いい意味でも悪い意味でも、影響を受けてると。
 しかし、これはやはり、例えば、わたしも以前は、Aと同じ、あるいはそれ以上に活動してたわけだけど、まだ完全に体が回復し切っていないから、活動時間はAより短いんじゃないかと自分では思っている。その点から考えると、称賛に値すると思う。
 そして、消極的に生きてもしょうがないと。やはり、積極的に生きるべきであると。消極的に修行してもしょうがないじゃないかと。例えば、一年で達成できるものを、五年間時間をかけて達成したって何の価値があろうかと。早く達成できるものは、早く達成してしまおうと。そういう心が持てるかどうかだね。
 実は、今日君たちにわたしが説法しようと考えた理由は、説法士と師との間に、ちょっと軋轢があるという話を聞いた。で、わたしは、それは当然であると考えた。なぜならば、どんどん法を学んで、さあこれからやろうとする者と、それからね、心が愚鈍の状態になっているものとでは、当然、やはり法を求めている人にとっては、愚鈍の者を称賛できないだろうと。だから、師の中でも、その師の言葉に力があって、説法士との間に軋轢がない場合もあるし、あるいは逆に、軋轢が生じる場合もあると。それは結局は、実践によって表現するしかないわけであるから、当然のことであると。
 例えばだよ、ここに一匹のライオンがいたとしようじゃないか。このライオンが成獣、つまり大人のライオンで、大変強いライオンであったと。このライオン一匹対、例えば狼一匹が対決した場合、どちらが勝つだろうかと。それは、当然ライオンの方が勝つだろうと、そうだね。ところが、ここに病んでいるライオンがいて、もうあしたにでも死にそうなライオンがいたと。それは食事もとってなかったと。弱ったライオン対狼は、どちらが勝つだろうかと。それは、狼が勝つよね、どうだ。つまり、ライオンは、ある意味でのステージを表わしているけども、その人が結局百獣の王であるかどうかは、条件によって決まるわけでしょ。これは例えば、師という大変なステージの経験をした人たちでも、その人の心が完全に病んでいたら、あるいはその人の言葉や行為が病んでいたら、それは簡単に狼に負けてしまうよね。どうかな。
 じゃあ、弱肉強食である動物の世界ですらそのような逆転現象が起きるのに、法の世界においてはどうであろうかと。グルの意思は救済活動をしなさいと、大いに今苦しんでいる無明の凡夫を、あるいは迷妄によって正しくない世界へ転生するであろう外道を救済しなさいという法を説いているわけでしょ。ところが、その先輩がその実践をしていなければ、当然後輩は、そこを目標には、その人たちの言うことを目標には生きていけないよね、どうだ、それは。
 なぜならば、根本とするものはグルであるから、でしょ。だとしたら、そういう人たちは当然無視されてしかるべきであると。わかるよね。なぜならば、例えばそのように弱った人、腐ってきてる人たちを対象として、その人たちに帰依でもしようもんなら、とんでもない方向に向かうわけでしょ。だ、君たちが実際に向かわなきゃなんないものは、多学の向煩悩滅尽多学男、向煩悩滅尽多学男に対する帰依、あるいは、ね、それを土台として、より発展的に大乗の修行を行なっている者に対する帰依。
 例えば、S正悟師なんかその典型だと思うけど、まだ、ね、かなり受けて言葉の問題とかは、乱れがかなりあるみたいだけど、積極的に生きよう、積極的に救済活動しようとしている姿勢は、これはやっぱ東京本部でナンバーワンだとわたしは思うね。だから、当然、やっぱその人の言葉というのは力があるし。で、逆にバリバリの説法士は、記憶修習ができて多学の状態で来ているから、当然、そういう目で、自分たちは気づかないけど、そういう目で上を見てしまうと。そうすると、そういう目で上を見てしまうことによって、どうなるのかというと、ああやっぱり、ちょっと尊敬できないとこがあるなと考えてしまうと。
 と、まあここまでは、いいかな、普通のパターンだ。これからより一歩進んで、高度な修行を望む者は、次のことを実践しなければならない。それは何かというと、人は人、自分は自分と。これは、エゴイスティックという意味ではなくてだよ。自分の目標としなければならない者はグルであるから、グルの教えとはどこにあるのか、そしてグルの意思とはどこにあるのかを考える。そして、批判するところは見ず、その人の称賛すべきとこだけを称賛し、淡々と積極的に自分のワークを行なうと。そして、説法をより深く理解する時間を持ち、より深く理解すると。そして、その法の精髄を、ね、理解した法の精髄をしっかりと説き明かす訓練をしてくと。
 というのは、わたしたちはね、一日二十四時間しかないわけだよ。そうだね。二十四時間しかないのに、そのない時間を、例えば嫉妬とか、闘争とか、ね、あるいは批判とかいうような下劣な時間に当てていたのでは、時間がなくなってしまうと。ステージの問題で、血税することはかまわないと思うけど、しかし、それが心に影響を与えるようなことはやってはいけない。それよりも、淡々と、黙々と、なさなければならないことをなすと。そして、早く上級までいき、ね、一週間でクンダリニー・ヨーガの解脱をすると。教えが入ってれば、どんなにかかっても一カ月あれば、解脱はするはずなんだよ。なぜならば、最終的に必要なものは、その教えに対する集中だからね。だから、今のワークを続けながら、早く初級、中級、上級を終わろうと。そして、より高度な法を説こうと。
 例えば中級においては、その説法の要約等が問題に出るわけだけど、聞かれたことに対して、スパッと要点を説いてあげると。これができれば、当然相手が納得する度合いというのは高まるよね。でしょ。例えば上級においては、グルと同じような話し方、同じような法の展開ができるわけだから、当然、グルと同じ結果が、まあヴァイブレーションの問題は別にしても、得られるはずであると。そして、それは、上級まで早く到達することによって、本当の意味でのクンダリニー・ヨーガの成就者、そして、それからマハームドラーに王手をかけるんだというつもりで頑張れば、周りは気にならなくなるはずだよね。どうかな。
 よって、そういう形で法の展開をしていくならば、真理の実践をしていくならば、君たちが得るものは大きい。そして、今は例えば、一粒の雪玉かもしれないけど、それがちょうど、どんどんどんどん転がっていけば、大きな大きな雪だるまになるのと同じように、君たちの中での真理の法というものも、雪だるまと同じように、どんどん大きくなるはずである。わかるね。だから、法友が揺れてたとしても、それは無視と。あなた、この説法テープ一生懸命聴きなさいよと。なぜならば、煩悩で苦しい、苦しいと言ってる人の話を聴いてもしょうがないと。そういう人たちには、もうしっかり教材が与えられてるわけだから、それを努力すればすむことじゃないかと。でしょ。それより、グルの意思はどこにあるのかというと、真理の法を広めなさいと。まだ、徳のない真理と縁のない、無明の凡夫に対して、法を広めなさいと。邪悪見解に基づいて生きている外道に対して法を広めなさいということだよね。
 例えば、先ほどTさんの例にあるように、邪悪見解の外道一人も法が説けないようじゃ、戦え戦士という名前に傷がつくよね、どうだ。何と戦うのかというと、それは戦え真理の戦士たちは、真理に基づいて外道を調御する、あるいは凡夫を調御するというためにあるわけでしょ、どうかな。ところが、例えば、真理部全体が、たかだかそのような問題一つも解決できないと。
 例えば、Cはラージャ・ヨーガの成就者だけど、で、本来法が相当根づいてるわけだけど、それをやはり、今まで生きてきた経験から、否定的修習をすることによって、その否定的修習なるがゆえに、それを喜んでしまうと。これは、C、意識堕落天のカルマだよ。ね。それは、Tの場合も同じだと。布施をすればいいじゃないかと。いや、二極があって云々と。そういうくだらない話をしてると。だから、そういうのは、もう無視だよ。わかるよね、言ってることは。
 だから、ひたすらとにかく、法を求め、法を体現すると。法の体現とは何かというと、現象におけるすべての正確な理解と、そして、神秘的な力であると。その神秘的な力の延長上に、離解脱があるんだということを認識しなければならない。いいね。