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◆91/9/6 富士山総本部
帰依における良い実例
実は、今日、君たちに、ここに集まってもらったのは、わたしからの一つのお願い、これをしたいと思って、集まってもらったわけです。では一体、それは何のお願いなのかと。それは、貪りを離れて欲しいと。では、何の貪りを離れて欲しいんだと。それは、権力や地位や名誉に対する貪りを離れてほしいと。
おやおや、麻原は、またちょっと変わったことを言い出したなと、君たちは考えているかもしれない。実はこれからオウム真理教は、よりいっそう飛躍するために、組織の大幅な編成をしたいと考えています。そのためには、今、君たちのなしている仕事、あるいは、そのパートにおいて最小限の人数、それでこなしていただきたいと。そして、その余力を、新しく動かそうとしているパートに振り向けたいと。
あるいは、今、君たちの中で、師に対して不満を持っている人がかなりいると思うが、わたしはどうしてもこのセクションはいやであると。今、自分自身は実際、ワークできていないと。別のパートに変わりたいという人の申し出、それも受けたいと考えている。
なぜ、わたしがこういう話をし出したかというと、実は、優秀なサマナが二人落ちたと。一人はKさんであり、もう一人はk君であると。で、これは、当然、Kさんが落ちるにあたってはそれなりの原因があっただろうし、あるいは、k君が落ちるについては、それなりの原因があっただろう。しかし、その原因に対して全くケアをしない、つまり四無量心のかけらもないような者たちが上にいて、そして、下のヘッドであると、つまり、権力を有するというだけでそこに君臨するのは、教団にとって利益にならない。
コーザルライン、あるいは、いろいろなわたしの情報収集の結果、相当に多くのサマナがそれに対して不満を持ち、そして実際、その不満が現象化し出していると。で、この現象化し出しているものをわたしが放っておくと、確かに師に対しては気を遣ったかたちになるから問題ではないが、それによって多くのサマナが影響を受けると。よって、なんとしてでも食い止めなければならない。
逆の言い方をすれば、わたしの心がサマナから信徒に向かい出し、そして信徒に対して力を注ぎ出しているから、君たちに対するケアがおろそかになり出してると、そういう見方をすることもできるわけだが、それは実際、本質的に正しくないと。なぜならば、サマナというものは、多くの教学の体系、あるいは修行の体系をもともと持っている。それをしっかりとこなすことによって、自己の苦しみというものを完全に破壊する。これがサマナの意味合いだからである。
まとまりのない話になるが、次に、同じように、この師の制度というものが、かなり弊害を招いているのは事実だから。その理由は、教学をしないで、煩悩の修習を楽しんでいる師もかなりいるとわたしは聞く。だから、それを解決するために、比丘説法士制度を導入したいと考えている。これは、師の法の理解における段階分けであり、そして、それと同時に、サマナにおいても、まだステージはそこに到達していないが、しかし実際に法則の理解をしている、その人をもっと重く用いたいと考えているからである。そして、実際、そのために、八月から特別教学システムを導入したわけである。
これら二つの流れは、いずれも一つのことを意味している。それは、君たち一人一人の霊性および心の状態を発達させること。そして、よりいっそうオウム真理教が飛躍するためのジャンプ力をつける。そして実際にジャンプする。それが目的である。
よってこれから、君たちの意見、あるいは批判をまず少し聞きたいと考えている。そして、そののち、まず今のセクションではいやである。あるいは、わたし自体、今あんまりワークをしていない、もっとワークをしたいと考える人は、どしどし申し出てほしい。以上だ。質問を受けよう。
----質問は全くないわけだな。では、次は批判を受けよう。今、グルが批判をしていいと言っているわけだから、批判をどしどししなさい。
わたしの目から見ると、例えば、こういうときに批判をしないで、k君のようにポッと落ちてしまう。これが最もサマナとしては情けないサマナであるとわたしは考える。なぜならば、彼の利益というものは、修行生活を続けてこそ初めてあるのであって、もし彼が少しの批判と、その批判をすることによって修行生活が続けられるとするならば、それは彼にとって利益である。しかし、そうではなくて、例えば師に対して失望し、そして下向するようなことがあったとしたら、それは大変な不利益である。
例えば、帰依という点で、一つ大変参考になる例がある。実は、大阪の「創世期」のとき、わたしは効果音が入っている方がいいと。つまり、そのときマンジュシュリーたちが効果音と音楽と、そして詞章と一緒に行なったわけだけど、効果音が入っている方がわたしはいい、とわたしは話をした。それで今回東京の「創世期」においては、効果音入りの、要するに録音されたテープができ、そしてそれを東京の創世期で使ったわけである。
ところが、前回大阪に入ってない効果音が入って、その効果音が大変きたないと、結論からいうと。で、わたしは、「何で効果音入れたんだ」と。「効果音入れたら、音楽の妙味が消えてしまうじゃないか」と。「音楽の美しさが消えてしまうじゃないか」と。「詞章と音楽で十分である」という話をしたと。
ところが、それに対してマンジュシュリーは何て答えたかと言うと、「いやあの、八月の大阪の『創世期』のときにこうおっしゃられましたので、効果音をいっしょにミックスしましたと。しかし、確かにそのときに加わってないような効果音を入れたことは事実ですし、結局それはわたしのミスでございます」と。「申し訳ございません」と。
まさにこれが帰依だとわたしは考える。つまり、例えば八月の前半にわたしの言ったことと、今とじゃ違うじゃないかと。もちろんわたしがそういう発言をするときというのは、その八月の「創世期」と今回の東京の「創世期」では、効果音の大きさ等の問題があったわけだけども、まあ確かにわたしが、その「創世期」のときに、効果音を入れてもいいよと言ったのは事実だから、本来それをたてに取って、いや、しかしそれは尊師が言ったことですから、わたしはそれを実践したんです、と言えば済むことであると。
しかしそうではなくて、しっかりと、わたしの言ってる内容の中に、自分のもし非があるとすれば、例えば全体のそれが一割あったとしても、それをちゃんと反省し、それに基づいてグルに対して言葉を返すというか。で、これがグルと弟子の関係である。
で、なぜわたしがこの言葉を出したかというと、もしそのようなかたちで君たちが日々の奉仕修行について反省し、進めることができるならば、それは瞑想と同じ効果を得ることができるだろう。しかしもしそういうポジションに立たなければ、単に周りのあら探しをするような目で現象を見るならば、それは君たちの心はどんどんすさんでくるに違いない、ということだ。