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◆91/5/9 富士山総本部
戒律の遵守および欲界・形状界へ至る道

 はい、サマナの持戒第一は何だ? 君たちが今実践しでいるサマナの戒律というものは、もともと二千五首年前にサキャ神賢が在家信徒にお説きになった戒律しかまだ適用させてない。そうだな、どうだこれは。それより重たい戒律があるか何か? どうだ。どうだ。ん?
 はいまず第一は、不殺生の戒だな。第二は、不偸盗の戒だな。第三は、サマナにおける不邪淫とは何だ?----このサマナにおける戒には二つある。その一つは、相手を巻き込むような性的交わりをしないということ。だな、一つは。もう一つは、自分のエネルギーをロスしないということ、だな? 特に、前者は問題があると。後者については、ザンゲしながらできるだけ落としていかなきゃなんないと。そうだな。なぜかというと巻き込むことによって、他の魂を三悪趣、流転の道を歩かせることになるからである。そうだな、どうだ。
 次の戒は? 不妄語。次は----この綺語の戒はどうだ、守られてるか? 至るところで無駄口を叩いてるような気がするがどうだそれは。次は?----この悪口はどうだ。ここの道場が右の気道に傾いてるということは、わたしは悪口の空間だと思うけど、どうだそれは。例えば師は、サマナに対して真愛の心を持って接しなければならない。注意は厳しくしてもいいけど、そのとき慈愛がなければならない。あるいは、修行のできない者に対しては、哀れみの心を持たなければならない、どうだそれは。そういう心を持って指導してるかどうかだ。どうだ?
 次は?----これはどうだ。そして、次は?----これ貪りというのは今の現代的な、ていうか、最も新しい訳では、愛著、そして邪悪心、そして迷妄、の三つだな。これを捨断すると。そして、サマナとしての自覚を持ち、布施の実践を行なうことと。この戒によって君たちは、どこへ生まれ変わることができるんだ? どうだ。どうだ! 答えらんないのかっ!! どこへ生まれ変わるんだと聞いてるんだわたしは! どうだっ! だれが梵天界に生まれ変わるんだ、それで。どこにそういう法があるか。

 ♪布施と持戒は天の道
  一つはずしても、門閉ざす
  真理修習だけじゃないが、邪道の道は異なる
  布施実践 戒実践
  邪道でも天へ行く
  真理と違い、また悪趣
  真理は天からジャンプする

 この詩でもわかるとおり、戯忘天の世界だ。では、いいか、布施をなし、戒を守らない者がいたとしようじゃないか。この者はどの天界へ行くんだ?----そうだ。U、憤怒天の出だしは?

 ♪戦い疲れ、功徳を漏らし、
  天への道を一人閉ざす
  策略は、鏡のよう

 ね、憤怒天だ。では、徳を積み、異性に愛着し、そして真理記憶修習した魂はどこへ転生するんだ? 人間界の、どこだ? ん? ジャンプ州だな。

 ♪あなたと一緒に苦労をしながら、楽しい家庭を築きた
   い
  この愛は、喜びは、無常と知っていながら、求める

 この歌は君たち知ってるか? 今回、バルド・イニシエーション用にわたしが作った、天界、それから憤怒天、人間界の歌だ。じゃあ、功徳を積み、そして家畜に執着したらどこの天界へ生まれ変わると思うか。----そうだ、ゴーヤーナ州だな。あそこは。

 ♪家畜養い、ステーキを食べ、
  焼き鳥、焼き肉
  ゴーヤーナ州の

だよね。だよな?
 では、天界に行きたかったけど、天界ほど徳のない魂はどこだ? ん? 功徳を積んで、天界に行きたかったけど、天界に行くほど徳のない魂はどこへ行くんだ? どこだ? そうだな、クル州だな。
 では、北のクル州、ヴィデーハ州だな。じゃ、もう一つの大陸であるヴィデーハ州には、何をなしたら行くんだ? ん? V、ヴィデーハの意味は?----だったら、答えられるんじゃないか、お前は。徳を積んで、肉体的美しさに執着してる者が行く世界と。どうだ?----このように、仏教的な理論は、科学である。
 では質問しょう。ここに、サマナとして出家し、ね、そして、ひたすら真理を学ぶことなく、ね、あちらの異性こちらの異性に手を出すと。これは、どの世界へ転生するんだ?----そうだな。これについては素晴らしい動物の歌を君たち「死と転生」受けたよね。見たよね。特に、この部分が象徴的な詩だ。----どこだっけあれ、悲しみなめてって歌うやつあったよね。あの曲の中で、わかる? 「わたしの悲しみなめる」っていうのあったでしょ? あ、

 ♪あなたそばにいてほしい
  この寂しさ、なめてよ
  わたしと一緒にいてくれればそれでいい
  子供はどこへ行くのだろう

 これは動物界の心情だな。ではだ、一生懸命業財を蓄えて、ね、「下向しよう、下向しよう、下向しよう」と言って、

 ♪これは、オイラのものだ
  これは、わたしのものだ
  すべてはわたしのものだっ!!

 これどうだ。ん?----でしょ。つまり、心の一つの現われに対して一つの世界が形成されるわけだよね。じゃあ、これはどうだ。
 「ふーんだ、あの人キライ。この人キライ」
と。
 「わたし、一人でいいの。ね。あの人なんか死んじゃえばいい。この人なんか死んじゃえばいい。ね、あの人なんかどうなっても構わない」----こういう心の働きはどうだ?----だよな。そしてこれが、欲六界といわれてると。
 じゃあ神聖天はどうしたら行けるんだ?

 ♪布施をなし、持戒を守り、
  第一サマディに至るとき、
  わたしは神聖衆になる

 わかるか、君たちは。つまり少なくとも、遠離、離貪からくる、ね、喜び、これが君たちの心の中に生起したとき、君たちは神聖天へ至ることができる。ところが、遠離、あるいは離貪というものが、君たちに生起しなかったならば、それは神聖天へ至ることができないんだよ。----つまり君たちの修行というのは、このように科学的に計画されて、修行進めてくわけだよね、わたしとしては。ところが君たちの心は、自分たちの煩悩にどんどん翻弄され、少しずつ少しずつ下向きの風に振り回され、苦しんでる。そうじゃないか、どうだ。
 じゃ、第二はどうだ。第二、つまり、光音天へ入るためにはどのような修行があるんだ? ん? 四無量心の実践・光音天、ん、まあ、光音天に定義はあるけども、

 ♪心の本質が、すべての魂の苦悩を悲しみ、それに感応
   する
 それは思考を超えている
 それは思索を超えている
 それが悲しみ
 それが悲哀
 それが……

 わかるか君たちは。つまり、四無量心の悲の実践である。よってここで悲しまなければならない。ここで、ね、哀れみの情を持たなきゃならないではない。それがもう、本性から湧き出てくる悲しみ、これをマスターしたときに、光音天へと至ることになる。
 では次の、遍浄天、美散天はどうだ。つまり、美しさがまさに、四方八方に散り乱れてる状態、この天界へ至るためには、どうなるか? どうだ。この天界へ至るためにはどうだ。----そうだ。つまり、相手に対して、ね、相手のよさをひたすら称賛すると。特に、自分と利益の反する者に対しても、称賛のできる境地に到達したときに、第三ステージに入る。そしてこのときには、心は一切の敵を放棄したかたちになるから、楽の状態が登場するんだよ。つまりこの第三サマディに入るためには、放棄が必要なんだね。放棄ってのは無頓着という意味ではなくて、一切の敵に対して放棄し、称賛すると。すべてを肯定すると。この、カルマの諸現象すべてを肯定すると。それをなすことができたとき、第三サマディへと至ります。
 では第四サマディはどうだ?
 無頓着のしゅぎょ……ちょっと、音が違うなあ。あそこは∪師が歌ったよね、確かね。マンジュシュリーだったか? 歌ってみろ?

 ♪無頓着の修行
  最高の実践が無頓着

 そして? つまり、形状界の最終段階は、外的グナに対して、諸現象に対して、すべては自己のカルマの幻影であると、投影であると考え、それを一切放棄すると。これを乗り越えたならば、心は本性である、まず空無辺の境地へと到達していきます。ところが引っかかりがあると、その一つ一つに対して壁ができ、それが光を捨断するかたちになる。わかるか君たちは? そしてその四つのサマディを小さく十七に分類したのが、十七形状界の天であると。いいか。
 ということは君たちは、まず布施をなし持戒を守り、出離をなし、ね、そして四無量心の実践を行なう。サマディの修習をするということはどうだ? 君たち。君たちにとって大きな利益があるかないか。
 では、第一の神聖天はどれくらい生きられると思うか、君たちは。どうだ。百億年生きられると。今日わたしが説いているのは、経典どおりの数字を出している、今。いいね。じゃ、光音天はどれくらい生きられるんだ? 二百億年、そのとおりだ。じゃあ、美散天はどれくらい生きられるんだ? 四百億年、そのとおりだ。では、広果天はどれくらい生きられるんだ? いくつだ? 五兆年だな。ということになる。これが仏典に示されてる数字だ。そしてもちろん、色究竟天は、これよりもはるかに長い。そして、空無辺境の、無色界の世界の寿命はもっと長くなる。ましていわんや、非認知非非認知の世界はもっと長いということになる。
 どうだ君たちは。君たちはこの短い生の間に、自己を自制すると。利するということは、大きな利益を与えると思うか、それとも不利益を被ると思うか。
 いいな。これが仏典に示されてる世界の一部だ。今日これから、少しずつ君たちには、法を説いていきたいと考えている。本来わたしは、まだ癌が消えただけで、他にいろいろと病が残っているから、修行をなさなきゃならないと思っていたが、あまりにも君たちの精神的レベル、修行に対する意欲、ね、これ自分で鼓舞すること全くできないような、ほんと操縦不能のオウム真理教になりつつあるから、仕方なく、また君たちに法を説くことにした。
 もう一度もとに戻るけども、もし現世へ帰って、布施の実践からやり直したいという人はそうしなさい。これからマンジュシュリー正悟師に申し出るように。それは認めましょう。
 では、しっかり修行しなさい。いいね。今日のは、なぜオウムから始まらなかったのかというと、それは法というよりも、君たちに少しね、同じ法の友として、アドバイスをしたいと考えたからだ。しっかり頑張んなさい。いいね。