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◆91/2/13 富士山総本部
四つの超越力の基礎/愛について

 今日は、二つの命題について話したいと思います。その第一は、俗にいう神足、四神足、これは今の正しい訳、つまりパーリ語から意味合いを検討してとった訳によると、四つの超越力の基礎、これが第一の命題。第二の命題は、愛について、愛と愛情についての検討、この二つについて今日は話したいと思います。
 まず、第一番目の超越力の基礎、なぜこれが超越力の基礎なのかというと、神秘的な力だけではなくて、この現実の生活において、あるいはワークを行なう上において、この四つの超越力の基礎をもし身につけることができるならば、その人は必ずや目的を達成することができるであろうと。その目的を達成するために必要なプロセス、これが四つの基礎であるということである。ではこの四つとは何であろうかと。まず、第一番目に「決意」超越力の基礎。第二に、「精進」超越力の基礎、第三に「思念」、これは括弧して、記憶修習超越力の基礎、第四番目に、「観慧」超越力の基礎という四つのプロセスを、わたしたちは知らなければならないし、理解しなければならない。
 仏典に一般的にその言葉しか表現されていないのは、その当時の人たちがそれを理解していたのではなく、それはやはり、グルと弟子の関係において秘儀として伝授されていたからにほかならない。例えば今日これから述べるわたしが、ね、皆さんに述べる、四つの超越力の基礎というものを皆さんが身につけるならば、この世だけではなく、来世においても、そして神秘的な力においても、身につけることが可能となるであろう。
 例えば否定的なものを、ね、崩壊させるために、この四つの超越力の基礎を使うことがある。例えば例を挙げるならば性欲、ね。まず、第一の決意超越力の基礎とは何かというと、「性欲を滅するぞ、性欲を滅するぞ、性欲を滅するぞ、性欲を滅するぞ」、これであると。これを例えば十万回唱えると。ところが、サマナの状態を見ていると、まずこの決意超越力の基礎というものができてない。例えば十回二十回、あるいは三十回、あるいは百回、千回ぐらいはやるかもしれないが、それが一万回十万回とは到達しない。ね。つまり、この修行は、何のためになされるのかと。よく祈願文、あるいは発願文を、まあ壁にべたべた貼ったりさせるが、あれもこの決意進度力の基礎に当たる。そして、これによって、例えば「性欲を滅するぞ、性欲を滅するぞ、性欲を滅するぞ、性欲を滅するぞ、性欲を滅するぞ」。これが、第一番目の決意力の、ね、基礎になると。
 第二番目は、精進超越力の基礎、この精進超越力の基礎は何かというと、土台は二正勤二正断である。つまり、性欲という課題に対して、例えば「本屋に行かないぞ」、ね、「本屋に行かないぞ」、これは断である。あるいは、本屋にたとえ行ったとしても、ワーク上本屋にたとえ行ったとしても、ね、性的な刺激のあるものを読まないぞ、読まないぞと、ね。これも断であると。ね。しかしこの二つの断は、未来に対する断である。ね。例えば現実に対する断は何かというと、例えば、ラジオの入るウォークマン持ってたとして、あるいは、デザイン等、まあ、最もこれは性欲に弱いセクションだけども、等の性的刺激を受けやすいパートにあったとして、ね、そういうものを見ないぞと。目の前にあるものを見ないぞと、思念すると。これもおそらく回数としては、十万回ぐらいやるべきである。ね。これは、現在におりる断であると。
 じゃあ勤とは何かというと、ね、例えば、不浄をね、いいですか、例えば老に対して、あるいは死に対しての、ま、いろいろなカラー写真等があるわけだけど、それを見るぞと。ね。これは現実に対する勤であると。これを例えば十万回ぐらい行なうと。そして、もう一つ、未来についても、例えば本屋さんに行ったとき、ね、そういう本をできるだけ漁るぞと。これは未来に対する勤であると。ね。あるいは、そういう法の説ける人のそばに行って、その不浄の法を聞くぞと。これも勤であると。これも未来に対する勤であると。そしてこの四つが精進超越力の基礎になると。
 では次は、思念超越力の基礎とは何かというと、これは正確に言うと、思念イコール記憶修習超越越力の基礎と言ってもいいかもしれないが。これについては、ねえ、性欲は苦であると、苦なるがゆえにこれは、我が本体にあらずと。よって、わたしは捨離すると。苦であると。苦なるがゆえにこれは、我が本体にあらず。よって捨離すると。これを同じように十万回繰り返すと。ね。これが思念超越力の基礎である。つまり三つ目に至って、やっと本体に入るわけだけど、その本体を分析するのではなく、ひたすらデータを入れると。
 そして、第四番目、第四番日は何かというと、観慧に入ると。これ具体的に、いろいろな例を出して、ね、例えば、Sと、ね、R君の関係、これはどうなんだろうかと。例えばSが早く年取っておばあちゃんになると。そんとき当然、R君は性欲を対象に扱ってるわけだから、捨てられるだろうと。哀れだなあと。ね。あるいは、高い世界の、ね、天界の住人と、この人間界の住人とはどうであろうかと。今わたしがここで、性欲に翻弄されて、低い世界に落ちることは、自己の利益にならないと考えると。ね。このように、分析的に検討を加えること。これが、観慧超越力の基礎である。
 しかし、いきなり観慧超越力の基礎を行なったとしても、これは役に立たない。なぜ立たないかというと、わたしたちの心は、ね、煩悩に傾き、ね、煩悩に回向する、そういう性質がある。あるいは三グナに傾き、三グナに回向する。そういう性質がある。ということは、その前の決意超越力の基礎、ね、精進超越力の萄思念、あるいは記憶修習超越力の基礎、この三つを固めたのちに思索・検討すべきであるということである。
 例えば、他心通を身につけたいと思ったと。ね。そして、いきなり難しい修行に入ったと。これで他心通が身につくはずがない。まず、例として挙げるならば、「他心通を身につけるぞ、他心通を身につけるぞ、他心通を身につけるぞ」、あるいは「六神通を身につけるぞ、六神通を身につけるぞ、六神通を身につけるぞ、六神通を身につけるぞ、六神通を身につけるぞ!」とこれを十万回唱えると。ね。
 第二段階として、そのためにはどうしたらいいかと。ね。まず、自己の戒律に対して検討を行なうと。ね。そして、現在守られてない戒律に対しては、徹底的にそれをつぶすと。ね。そして、未来において破りそうな戒律についても、徹底的に思念すると。これも十万回ずつぐらい行なうと。そして、今行なっている、例えば功徳の積み方について、ね、それがよしとするならば、それをもっともっと増大させるように思念すると。ね、繰り返し繰り返し、記憶修習すると。そして、今はまだ達成できないけども、未来においてなさなきゃなんない修行についても、ねえ、例えばカルマ落とし、マハームドラーの修行があったとしてだよ、いや、これはマハームドラーの修行は六神通に絶対必要である。よってカルマ落としを耐えよう。カルマ落としを耐えよう。カルマ落としを耐えようと。こうやってこの、十万回を思念すると。ね。これが、第二番目の精進超越力の基礎であると。ね。
 じゃあ第三番目の、ね、記憶修習超越力の基礎、あるいは、思念超越力の基礎といわれるものは何かというと、これは、「わたしはこれこれこれこれの修行をなした。よって六神通が身につく、わたしはこれこれこれこれの修行をなした。よって、ね、六神通が身につく。わたしはこれこれこれこれの修行をなした。よって超越力が身につくと。ごめん、神通力が身につく」と。このように思念する。これも十万回で納得できなきや百万回納得すると。
 そして最後の段階で、ね、例えば、六神通の一つ一つについて、ね、智慧によって観察を加えると。例えば他心通というのは心を合わせるものであると。そしてコーザルの光とコーザルの光が合ったら当然、データの交換が起きて他心通が生じて当たり前であると。よってわたしはその他心通が身につくと。ね。この四つを順番に行なうならば、ね、繰り返し繰り返しという言葉は、一つ一つを土台として、繰り返し繰り返し行なうべきであって、その四つを順番に行なうならば、必ずや六神通が身につくはずである。
 じゃあ、今のオウム真理教の修行体系はどうなんだと。例えば、第一番目の帰依マントラ、ね、これは、シヴァ大神に対する帰依、グルに対する帰依、真理に対する帰依、そして、十戒に対する帰依であると。これをまず決意として行なっていると。ね。
 第二番目の大乗の発願はどうなんだと。これは、わたしたちの修行の目的をやはり決意として行なってると。
 じゃ、第三番目の苦の詞章はどうなんだと。これはどちらかというと思念に近いよね。つまり、“苦”に対してどう対応しなきゃなんないかを、正確に記憶修習してるわけだから、思念超越力の基礎ということになるだろう。つまり、「自己の苦しみを喜びとし他の苦しみを自己の苦しみとする。自己の苦しみを喜びとし他の苦しみを自己の苦しみとする」、これほんとに心を乗っけながらやってると、ねえ、苦しみがあったとしてもそれ耐える力がついてくると。ね。
 じゃ、第四番日のヒンドゥー・ツァンダリーはどうだろうかと。ね。これは、やはり同じように、思念如意足に近いだろうね。じゃあ第五番目のツァンダリーのプラーナーヤーマはどうかと。ね、これについては、やっぱ観慧如意足に近いんじゃないかと。ということは、ツァンダリーのプラーナーヤーマあたりから、神秘的な力が宿るはずである。ただその前に、先程言ったとおり決意超越神力の基礎、精進超越神力の基礎、思念超越神力の基礎、そして、観慧超越神力の基礎ができていないと、結果は得らんないのである。
 おやおや、だとするならば今成就しないで、苦しんでる人たちの状態を分析すれば、成就するはずないじゃないかということがわかるであろう。ね。例えば、G、なあ、「苦しい、苦しい、苦しい」、だろ。A、A、な、「食べたい、食べたい、楽したい、オレは師の言うことなんか聞かないぞ、オレは師の言うことなんか聞かないぞ、オレは師の言うことなんか聞かないぞ」、じゃないか。な、例えばP、なあ、例えば、「帰依したくない。帰依したくない。帰依したくない。オレはオレなんだ。オレはオレなんだ。オレはオレなんだ」、じゃないか? な。例えばMKは、「寂しい。寂しい。寂しい」、だろ? 「心を埋めたい。心を埋めたい」、じゃないか? 一人ずつ、十六名について、検討を加えるとするならば、あとは、だれがいたっけ。Kさんについては、焦りがあるから、できる修行をとにかく繰り返し行なえばいい。できないときは、休んでればいい。それは問題ない。次は? TBについては、ね、「わたしは食いたいんだ。わたしは食いたいんだ。わたしは食いたいんだ」の修習してるな、TB。あとは? K君については、わかるね、K君ね、「オレはオレだ。オレはオレだ。だれの制約も受けないぞ。オレはオレだ!」じゃないか、K?
 あとは? VUは、「ああつらい、ああつらい、でも、成就はしたい。でもつらい。痛いなあ、痛いなあ、つらいなあ、ああ、どこで手を抜こうか」って考えてるんじゃないか、VU。どうだ。次は?----VDは、「オレは、修行半分、ワーク半分だ。オレは修行半分ワーク半分だ。少しぐらい、戒を破ったっていい。オレは少しぐらい戒を破ったっていい、オレは修行半分、ねえ、ワーク半分だ。ちょっとここで手を抜こう。ちょっとここで手を抜こう」じゃないかVD? ね。Rは、「グルは、ほんとは何も知らないから、ね、自分はまだザンゲもしてないことたくさんあるけど、それ隠しちゃえ。それ隠しちゃえ。隠しちゃえ」、そのうち、「あーやる気がない。あーやる気がない。あーやる気がない」だよなあ、R。TFさんは、ねえ、「グルは成就させるつもりでいるんだろうか。わたしはこれだけ修行してるのに。グルは成就させるつもりでいるんだろうか、わたしはこれだけ修行してるのに。グルはわたしを思念してくれてるんだろうか。いやあ、思念してないきっと」(一同笑)じゃないかTさん。
 Mは、「オレはどうせ破戒したんだ、成就なんかない。(一同爆笑)オレはどうせ破戒したんだ、成就なんかない。エェイ、ふてくされろ、エェイ、ふてくされろ」(笑)ハッ事実だよ、これは。な、M。な、M。M? そうじゃないか? うん。Cは、「いかに楽して成就しょうか。いかに楽して成就しようか、さぼりたいしワークはしたくないし修行もしたくないし、でも成就はしたい。いかに楽して成就しようか。グルとの縁を持ちたいし、グルは好きだし、でもなあ、修行はしたくないしなあ」、な、C。Kさんは、ノーコメント。あとが、ひどい目に合うからな、これは。今一生懸命教学している、しようとしてるから、その姿勢を買って沈黙しよう。----も、KSについてはね、電話でもしっかりとしたアドバイスをしてあるから、ね、KS、もう、それやるしかないもんな。
 MKも入ってるの? それはもう、甘えだよ。それはもういい。VDは、え、今日言った? その名前? でしょ、いやそうやって、あとから挙げられても、他心通を使うヒマがないじゃない?
(一同)笑
MKとだからVDについてはノーコメントだよ、それは。
 ということになると。ね、これだけ修習してて君たち成就すると思うか、どうだ? どうだ。しかしそういう心の働きが出てきてるということは、成就してしまってるんだよね、それを。だから例えばPみたいに、ねえ、ルン・トラブルが起きて、本来だったらもう成就してなきゃなんないのに下向してしまうと。ね。つまりこの、四超越力の基礎というのは、君たちを悪趣にも、悪趣の方向に向けることもあるし、あるいは、君たちを解脱させる方向に向けることにもなるんだよ。
 だからまず、この、今言われた人たちは、マントラを唱えるべきだね。何のマントラかというと、「クンダリニー・ヨーガの解脱するぞ。クンダリニー・ヨーガを解脱するぞ。クンダリニー・ヨーガを解脱するぞ」。これをまず、やっぱ十万回は唱えるべきだよ、第一段階として。これがわたしの、君たちに対するアドバイスです。そして第二段階としては、ザンゲするところはしっかりと、十万回ザンゲし、ね、そして、逆に自分たちのメリットについては、しっかりと認識を加えると。
 例えば、よく出てくるAについては、ね、「オレは破戒の魔王である。オレは破戒の魔王である」と、こういう、そのザンゲの瞑想をすべきである。ね。「だから成就しなかったんだ。オレは破戒の、ねえ、魔王である。だから成就しなかったんだ」。しかし、「オレは功徳を積んでる、天使であると。オレは功徳を積んでる天使であると」、ね。「もっともっと功徳を積むぞ、もっともっと功徳を積むぞ、もっともっと功徳を積むぞ」と。ね。つまり人間には両方の要素があるわけだよね。そしてその両方の要素をしっかりと検討することが、二番目の超越力の基礎になるわけだよ。Aわかるな?
 ところがそれをやらないで、その今ある現象に対してのみ、心を動かしてしまう。わかるか。ただつらい、苦しいと。それだけ思念する、わかるか。それでは解脱がないだろ。なぜかというと自分自身に対する正しいアプローチがないからだ。ね。そうすると、第三番目何をやればいいかというと、「オレはこれだけしたんだからタングリニー・ヨーガの成就ができると。オレはこれだけ修行したんだからクンダリニー・ヨーガの成就ができる」と、これを十万回次は唱えなさいと。ね。
 そして最後の段階で、クンダリニー・ヨーガの、ね、瞑想にしっかりともうー回戻れば、簡単に成就してしまうよ。ただ、この教えについては、以前からあるはずである。どうだそれは。例えば、礼拝。この礼拝は決意如意足で、決意超越力の基礎だよな。どうだ? 「オウムグルとシヴァ大神に帰依いたします、わたくし、ね、Aを速やかにクングリニー・ヨーガの成就へとお導きください」と。どうだこれは。これはまさに、決意超越力の基礎だよな。わかるな、言ってることは。ただここの部分で、さぼってると、なかなかそれは固まんないと。で、第二の部分についてのザンゲをひたすらやれっていうのも、ちゃんと言われてるはずだよね。ヴァジラヤーナのザンゲなんかもそれの典型だよね、でしょ。どうだ?
 それから欲如意足で、「修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ、功徳を積むぞ、功徳を積むぞ、功徳を積むぞ」、これは、ね、その第二番目の精進超越力の基礎だよな。どうだ? で、第三番目の確信の部分がちょっと弱いよね、オウムの場合は。「オレはこれだけ修行したんだからクンダリニー・ヨーガの成就ができる。オレはこれだけ修行したんだからクンダリニー・ヨーガの成就ができる」と。ね。これを加えたら、次はいいよ。つまり肯定のデータを入れてしまうと。ただその前の先程言ったとおり、まだ決意、それから精進の部分が弱い人間は、それをもう一回やり直せ。いいか。
 なぜわたしが、今日、一番初めにこの四つの超越力の基礎の者をしたかというと、第二番目の愛についての命題、これと大きくかかわってくるからである。
 愛と愛情とは違う。これは、よく言われることである。では例えば、愛と愛情とはどう違うのかと検討すると、例えば今、ヤソーダラー正悟師、それからM正悟師、K正悟師の三人が、修行に入っている。もちろんこの中で、M正悟師は阿蘇の管理を一応やってるから、そうでないかもしれないけど、いえないかもしれないけど、実際は中心は修行である。では、この三人が、もし、今オウム真理教に復活するならば、プラスに働くのかマイナスに働くのかというと、当然それは大いなるプラスに働くはずである。ということは、麻原はオウム真理教に対して、愛情を持っていないということになる。なぜならば、オウム真理教に対して愛情があるとするならば、これら三人をフルに活動させ、もっと発展させようとするからである。
 同じように、例えばA、あるいは、ね、VU、あるいはP、あるいは、えーと、だれだっけな、この、Cもそうだね、あるいはVDとか、ま、こういう人たち、あるいは、MKなんかもそうなんだけど、こういう人たちを今修行に入れてると。ね。これは、即戦力である。ワークにおいては。しかし即戦力であるにかかわらず、修行させてるということ、当然、オウム真理教の教団の活動についてはマイナスとなる。しかも、ね、下同しようとする人たちだってよしと考えていると。
 なぜよしと考えてるのかというと、教団というものそのものは、もともと幻影である。じゃ、一体、何の幻影なのかというと、それは、個々の単なる集合である、その集合の幻影である。つまりもともと、教団というものは存在しないと。個の集合が教団であると。これがわたしの基本的なスタンスである。という個とは、例えば、Aが、ね、完全に成就してくれて、破戒をしなくなったならば、そして、もともと持っている力を十二分に発揮してくれたならば、教勢に当然大きなプラスの働きがあるであろう。それだけではなくて、Aも、一つのヨーガを成就したかたちになるから、当然それは大きな利益を、ね、受けることになるであろう。
 ということは、今この時期に、耐えて、ね、有能な人たちをここで修行さしてるということは、それはそれで意義のあることであると。ね。それは今ここに修行者として集ってる人たち、特に修行に専門に入ってる人たちについてもわたしは、すべての人について、同じように考えている。この人たちがもし、ワークに戻ってくれたら、ま、いろいろ今ワークに支障が出てるから、その部分は大きく、ね、解決される、ね、糸口が見つかるということになるであろうと。
 しかし、それをなすことは、個人のまず利益にならないと。個人の利益とは、解脱・悟りへと到達し、本当の意味での幸福感を得ることである。そして、それだけではなくて、教団の利益にもならないと。なぜかというと、教団というのは、個人個人の要するにキャパシティーの総量でその活動の広がりと、そして力強さというものは決まるわけだから、その活動の広がりと力強さを決める個人個人の能力アップ、そして煩悩を超越していく状態、これを形成させていくことは、教団にとって決してマイナスにならない。そして今教団が苦しんでるのは、過去のカルマと、そしてわたしの指導不足なるがゆえに教団がいろんな苦しみをしょってるわけだから、それは無視すればよろしいと。そして今を個人個人が全力で修行すること、全力で生きることが、最も大切なことなのであると。
 よってわたしは、教団に対しても、個人に対しても、愛情を有してはいない。愛を有してると。ところがよく例えば、この二階の修行者の管理をしている師を見ると、全くもって愛のかけらもないと。大乗のはしりがないと。ま、妥協、愛情的な、ね、愛情的な妥協はあるかもしれないけど、本当に愛のかけらもないと。これがわたしの印象である。で、それはなぜそれを言ってるのかというと、つまり、きちんと指導することができないと。きちんと批判することができないと。じゃ、なぜできないんだと。ね。それは自分自身ができてないからであると。
 そして、例えばここで、例えばPを下向させたり、Aを下向させたり、あるいは、MKを下向させたり、ね、あるいは、ま、VUを下向させたり、ね、そうすることが彼らの輪廻転生にとって、マイナスであると。絶対にくい止めて修行させ、成就させなきゃなんないんだという、ね、本当の意味での体験と意気込みがないからである。そして、それなるがゆえに、マハームドラーの成就を彼らもなしていないということになる。
 わたしはオウム真理教の中で、一番お節介な人間はだれだといったら、それはわたしであると考えている。あちらこちらと顔を出し、余計なことを言うと。しかし、わたしのその余計なことを言う、あるいは、厳しく対処をする、その背景には、君たちは、所詮三悪趣であると。もし修行実践していても三悪趣へ落ちるんだと、ね、ここで縁のある魂がいて、その魂が悪趣へ落ちるとして、ね、黙って見ていられるかと。ね。君たちを救済することがわたしの役割であり、そして君たちに本当の意味で人間以上の世界へ来世絶対転生していただき、ね、徳のない魂はニルヴァーナに入っていただくと。これがわたしの本懐である。
 よってこのスタンスは、絶対崩せないと。ね。もしわたしがこのスタンスを崩していたら、オウム・バッシングは当然存在しなかったであろう。それは妥協ができたからである。わたしが妥協できないのはそこにあるんだと。ね。
 今君たちが苦しんでるのは、だれのカルマでもない、自分たちのカルマだと。それだけ苦しみを持っていて来世転生するとして、身が壊れたらどうなるかと。当然悪趣へ落ちると。ところが、今指導をしている愛のないバカ者どもは、自分もぬくぬくとした環境で修行をし、そして修行者に対しても、厳しいアドバイスとアプローチをしないと。これだけの揺れの原因があるのは、これは修行者に原因があるんではない。揺れの原因があるのは、指導者に原因があるんだこれは。なぜならば、データの修習としては、真理のデータがどんどん入ってきてなきゃなんないはずである。ところが、そうじゃない状態を平気で形成させてるとするならば、それは管理してる者、指導に当たってる者がそれだけの徳がないからである。あるいは、それだけの愛がないからである。
 わたしは、よくそういう状態で、マハームドラー直前の修行に入ってるなと思います。そしてこれが、わたしが、君たちに与えることのできる、わたしの見解です。もちろん、同じことが、この富士総本部道場の、例えば編集のKRのチームについてもそうだし、Xのチームについてもそうだし、UKのチームについてもそうだし、言えます。全く愛がないと。全く、愛情はあるかもしれないと。しかし、狭い心の状態で、下の人たちを指導してると。あるいは指導もしてないと。自分自身が厳しくやってないわけだから当然それは、できないだろうと。そして、この富士山のエネルギー状態がどんどんどんどんどんよりしてきてると。
 じゃ、なぜそういう現象が起きたのかと。それはわたしが、今入信拡大の方に意識を向けてるからであると。でもわたしが、そういう方向に意識を向けてるときは、例えば長男、次男、三男と、上の者たちが当然父親の役割を演じるべきである。長男、次男、三男とは何かといったら、それは古い成就者である。人数だけ膨大になり、ワークの量も少ないと。ね。同じように、担当してる師だけが多くなっていって、成就者が出せないと。特にこれだけ揺らしてると。もともと、マハームドラーを成就して、それからワンステップあったのちに大乗の修行が始まる。だから無理であるといえば無理である。しかし、それを今のうちから培っていなければ、その自分のエゴと闘いながら、今のうちから培っていなければ、本当の大乗の修行者にはなれないんだということを認識しなさい。
 そしてそのためには、先程述べた、ね、なぜオウム真理教の修行管理表の中に、二番目に大乗の発願があり、第三番目に苦の詞章があるのかを、もう一度認識するべきである。
 カルマの法則を検討してみよう。もし、多くの者に真理を伝播したら、その者は多くの者から、あるいは、多くの者に真理を伝播したその総量だけ、自分に、その真理のデータが入ってくることになる。これはどうだ。ということは君たちが、心から四無量心を持って法施をするということは、君たちにマイナスになるだろうか、どうだ。そして、その四無量心の総量がマハームドラーを決定するんじゃないのか? 真理の総量がマハームドラーの成就を決定するんじゃないのか、どうだそれは。なぜならば真理のデータこそが、心を崩壊させる要因になるんじゃないのか、どうだそれは。
 嫌われなさい。言いなさい。しかし、嫌われようが、対象に対して、語りかけるときの、ね、語りかけようが、その背景にはしっかりとした愛、四無量心を持ちなさい。嫌悪されるのは、嫌悪されるカルマが自分の内側にあるからです。そうだね。嫌悪され続けてもこちらは四無量心の心を持って接しなさい。そして、同じ修行者仲間同士、例えば、マイナスの方向に決意超越力の基礎を使うんではなく、精進超越力の基礎を使うんではなく、思念超越力の基礎を使うんではなく、観慧超越力の基礎を使うんではなく、ね、解脱するために、決意超越力の基礎を使いなさい。精進超越力の基礎を使いなさい。思念超越力の基礎を使いなさい。観慧超越力の基礎を使いなさい。いいね。
(一同)はい。
 最後に。タントラ密教というものは、この、思念、この思念に重きを置いた宗教であるということを、ね、そして最後の観慧、思念・観慧というこの二つに重きを置いた、仏教であるということをね、ここに述べ、今日の講話の、終わりとしたいと思う。
〈大乗の発願十三唱〉
〈タントラ・ヴァジラヤーナの発願〉
〈苦の詞章〉
〈帰依マントラ〉
〈タントラ・ヴァジラヤーナの帰依マントラ〉
〈ヴァジラヤーナのザンゲ(途中、詞章を忘れる)一回〉
 なぜ今わたしが無智になったかというと、今日は、真面目にやってる弟子も含めて批判したからである。しかしわたしは、瞬間的に無智になっても大いに結構だと思っている。なぜならば、エネルギー移入その他でもっと無智になった経験があるし、それからわたしが無智になることによって、君たちがサットヴァになるならば、それはわたしにとっての最高の喜びである。