TOPorLINKFS4トップ>FS4内容

◆91/2/9 仙台支部
救済という言葉の意味

 救済という言葉の中には、大きく分けて二つの意味がある。その第一は教団の拡大、あるいは教勢の拡大であり、第二は救済する中身の充実である。そして、一九九〇年の十月の終わりから、わたしが、いろいろな説法会場において法を説き出した。これは当然教勢の拡大、そして中身の充実へとプラスされ、またオウム真理教は今年の一月から、教勢拡大の方向へと歩を進め出した。
 しかし、まだまだ救済の中身については、努力する余地がたくさん残っていると思われる。それは、わたしをはじめとする、サマナ一同の努力もそうだし、あるいは信徒の皆さんの努力もそうである。
 では一体、わたしとサマナの努力とは何であろうかと。これはもっともっと積極的に信徒の皆さんと交わり、二人三脚によって救済の歩を進めるということである。
 例えば二月から、おそらく仙台支部ではもう少ししたら始まると思うが、信徒さんの自宅に訪れ、そこで、例えば今月の説法ビデオ、あるいは先月の説法ビデオを一緒に勉強し、その後、師が法を説いて、皆さんに真理の実践をしていただくということ。これは実際、今から二千五百年前、仏陀釈迦牟尼の弟子たちが同じ方法によって救済をしていたという事実がある。つまり、彼らサマナは一日三回瞑想し、そしてその神聖なヴァイブレーションを、次は信徒の皆さんのところに行き、法を説き、それを広めていくと。
 現代では、ビデオや、あるいはカセットデッキがあるから、それを利用し、それに加えてサマナが法を説く、師が法を説くという形で、この実践を広めていきたいと考えています。
 では、信徒の立場としてはどのようにしたらいいんだろうかと。これは、当然自分自身がひたすら教学をなし、そして功徳を積み、自分自身の内的体験を確立させていくということである。もちろん、この内的体験というものは、神秘的体験だけではなく、心の安定、あるいは現世的な希望の達成、あるいは病の平癒といったものも含まれる。こういったいろいろなものが、自分の内側に体験し出して、本当の意味での真理に対する確信がわいてくる。
 ここで一つ気をつけなければならないことは、中途半端な真理のデータによって法を実践していると、よく頓挫をするということである。頓挫をするとは、どういうことかというと、要するに自分の考え方と真理が混ざって現象化するから、その自分の考え方が混ざってる部分について疑問を生じると。しかも、それは真理のためであるという幻影によって、真理に対して疑念を持つことである。
 これをなさないためには、しつかりと教学をし、そして疑問が生じたら、それは師に対して質問をするいあるいは正悟師・正大師に対して質問する、あるいはこういう説法会のときにわたしに対して質問をすべきである。そして疑問を一つ一つ解決してこそ、心の中の平安が得られ、そして内的体験が充実するわけである。これが第二番目の救済である。
 もちろん法を広大にし、そして多くの人を救済しなければならないという義務が、真理の法を実践してる者には存在している。しかしそれだけではなく、先程述べたとおり、それを深く根づかせることも大切なのである。その両方が合わさってこそ、初めて本当の意味で真理の法、その法の土台がこの日本に、そしてこの仙台にでき上がったということになる。
 わたしは、この東北の地に支部を置き、そして支部活動をし、それを眺めて感じることは、まだまだ東北には真理の法が根づいていないなと、まだまだ信徒の皆さんが教学不足だなと、まだまだ法の実践が弱いなと感じます。そして、その法の実践をどんどんどんどん加速し、そして確実なものにしていくことによってのみ、この東北地方は救われるのである。つまり、信徒の皆さんは、自分自身一人の苦しみを先程述べた方法により止滅するだけではなく、あなた方の周りの人たちの苦しみを取り除く義務があると、そう考えています。
 実は十二月まで----要するにわたしが本格的に支部活動するまで、オウム真理教には不思議なシステムがありました。というよりもこれは日本宗教の特徴だけども、本人は信徒として知らないけども、それは信徒として名前が記されてるという、特徴的な状態です。これは例えば、創価学会や立正佼成会、霊友会といった大きな教団では、その四分の三がそういう形で入信してるとわたしは聞いています。しかしオウム真理教において、そういうものは一切救済にならないし、そして、それをなしたとしても本人のメリット、つまり功徳にならないから、それは極力やめようと。それよりも、やはりしっかりと本人と話し合い、本人とぶつかり、そして救済しようじゃないかと。あるいは一緒に救済に参加していただこうと。そう考え、一月から方向を転換し、わたしが以前支部活動を担当したときと同じように、相手をしっかり納得させ、救済の歩を進めることにしました。
 ところが、周りの者たちの不安と裏腹に、先月は二百六十名の新しい信徒の方が入信なさったと。これはひとえに、今オウム真理教は、この日本に求められている宗教なんだなということをわたしは確信した次第です。なぜならば、あるマスコミの人がわたしに語った内容によるとね、「オウム真理教叩きのためにどれくらいのコマーシャルが使われたと思うか」と。「さあ、わかりません」と。「そうだねえ、もしオウム真理教がそのお金を出したとするならば、数千億円に値するよ」と。それだけの逆風の中、この二百六十名の新規入信というのは、大きな意味合いのある数字です。そして二月も、その勢いを衰えず、おそらく一月よりもう少し数字が伸びるんじゃないかと思っています。
 では、なぜそのような結果が出たのかと。これは、少しずつ少しずつ四預流支の実践が、サマナにおいて、つまり弟子たちにおいて、そして信徒の皆さんにおいて、でき出してきてるんだなと。それからもう一つは、マントラ修行が少しずつ少しずつでき出してきてるんだなというのがわたしの印象です。この四預流支の実践と、それからマントラ修行は大きな意味合いがあります。まず四預流支の実践は、皆さんのカルマを浄化し、皆さんの持っている五蘊、つまり肉体・感覚・意志・イメージ、そして意識といったこの五つを、この粗雑な肉体次元のものから微細な神々なものへと作り変えてくれる。
 そして、マントラ修行はその功徳を一つの方向に集中させると。例えば、観音様のマントラはこの欲六界のカルマを切ると。例えばホワイトターラのマントラは現世において成功するためのきっかけを得ると。例えばマハーカーラのマントラは魔を払うと。例えば帰依マントラは、しっかりとしたこの四預流支の実践をよりいっそう根づかせると。あるいは、タントラ・ヴァジラヤーナの帰依マントラは、それに加えてこの現世において成就する因を作っていくと。このような土台によって信徒の皆さんが、一人一人修行を始め、そして真理との縁を強く強く結びつけ、それによって救済が始まったんだなと、そういう印象をわたしは持ちました。
 では、この仙台支部の皆さんは、何を実践したら本当の意味で幸福になるのかと。実は皆さんもご存じのとおり、前回の説法会のあと、三人の人が亡くなりました。そして、その中で人間界へ転生したのは一人と。この人間界へ転生した方は、日々説法を聞き、それを記憶修習していた人です。それによりしっかりとカルマを浄化し、そして人間界へと転生しました。この三人については、功徳というものをね、ほとんど積んでいなかったから、まあ人間界、あるいは人間界以下だったわけだけど、四預流支の実践、例えば経済的に苦しい人でも、教学を一生懸命何度も何度もなさり、その法を周りにお説きになるだけで大きな功徳があるんだなということを、わたしはこの死によって確信した次第です。
 これと同じように、もしあなた方が、まず第一にグル、真理、そして教団に対してしっかりとした信を持ち、帰依をするならば、第一番目の預琉支というものを達成したことになるでしょう。
 そして第二番目に、『マハーヤーナ』や説法テープを何度も何度も聴き、記憶修習する。この記憶修習することによって、第二番目の預流支を達成したことになるでしょう。
 そして、その記憶修習したものをもとに、自分自身の身の行ない、口の行ない、心の働きについて考える。それを分析し、そしてザンゲするものはザンゲし、あるいは、もっとこれを発展させようと思うのは発展させると。これが第三番目の預流支の達成です。
 そして第四番目は、その考えた事柄について実践すると。例えば身においては、殺生を離れ、偸盗を離れ、邪淫を離れ、生きものを慈しみ、そして多くのものを施し、愛のないセックスをやめ、人と心から親和した態度で接すると。あるいは口については、妄語・綺語・悪口・両舌を離れ、例えば嘘をつかず真実を語り、そして心のこもった会話をなすと。そして心においては、貪り・嫌悪・無智といったようなものを離れ、四無量心の心によって接すると。
 結局、この四預流支というものは、その身・口・意の三つのカルマの浄化に尽きるわけです。では、他の教団の言ってることと同じじゃないかとおっしゃるかもしれない。しかしここが遠いますと。それは何だと。例えば愛といった場合、愛情と愛とはどう違うのかと。あるいは愛着と愛とはどう違うのかと。これについての経典がしっかりあり、それを記憶修習することにより、愛着や愛情ではなく、本当の意味での深い愛、高い愛というものを実践できるはずです。あるいは、哀れみというものと単なる同情というものはどう違うんだと。これも同じです。そこにしっかりした経典があり、その実践ができるはずです。
 このようなかたちで、オウム真理教のバックボーンは、先程述べた一番目の三宝帰依、二番目の真理の記憶修習、三番目のそれに基づく思索、これにのっとり四番目の身・口・意の統御、そして神々に至る五蘊形成と続くわけです。もし皆さんが三宝を信じ、真理を実践なさるならば、必ずやすべてのカルマが落ち、そして来世天へと生まれ変わることでしょう。
 人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けらんない。この日本仏教において、生だけを見つめさせ、生において、つまり生きるということにおいての幸福だけを説きます。しかし、この生きる期間はあまりにも短すぎる。そしてあまりにもはかなさすぎる。わたしたちのターゲットは、この世だけではなく、死、死を境とした来世をしっかりと見つめ、それを超え、確信を持って輪廻転生したいものです。