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◆91/2/7 和歌山支部
「死」に対する準備としての修行
人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない。どんなに権力を持っていても、あるいはどんなに大金持ちであっても、あるいはどんなに愛する者がそこにいたとしても、多くの人に称賛される人であったとしても、必ず死にます。ところがわたしたちは、その「死」について考えたこともないし、あるいはそれに対して対応するなんらかの方法を実践もしない。
北伝仏教系の「阿含経」には、よく仏陀サキャ神賢----このサキャ神賢というのは、よく仏陀釈迦牟尼、お釈迦様といわれている仏陀の正式な訳語----この正式な訳語とはどういうことかというと、そのパーリ語にあるお釈迦様の意味合い、それを正確に訳するならば、サキャ神賢、サキャ族の神の聖であるということですね。
で、この仏陀サキャ神賢の北伝系の経である「阿含経」には、この「死」についてのお経がたくさんあります。そして、現世の王であるパセーナディ王や、あるいはビンビサーラ王である大王に対して、あなた方は確かに外敵に対して、つまり、外国に対して、象軍や、あるいは馬軍、あるいは戦車といったいろいろな武器を構じ防衛しているが、死に対しての防備はなされていないと。死に対して防備をすることが、最高の智慧者の行為なんだというお話がたくさん載っています。そしてこれは、一見現代人のGNP、国民総生産第二位といわれてるこの日本人にも当てはまる言葉だと思います。
つまり、それはどういうことかというと、わたしたちは確かに、日々欲楽にふけり、テレビ・雑誌・マンガ、あるいはおいしいものといったいろいろな五感を楽しませるもので満足している。しかし、その満足している瞬間瞬間のうちに、わたしたちは死に向かっているんだということ、そしてこの死に対してきちんとした対応をしないととんでもない世界へ転生するよと。現に、聖者である、例えばマハー・ケイマ正大師や、あるいはU正悟師の地獄の体験、あるいはわたしの地獄の体験、あるいは仏典に載ってる地獄の体験、あるいは動物・餓鬼の体験、これらのことを見ても三悪趣は存在するんだと。そしてこの三悪趣に生まれ変わったら、なかなか抜け出せないということがあります。
そして、この流転について、一生懸命頑張れば信徒でもその経験をすることができると。これは、名古屋のある女性の信徒さんですが、そのおじいさんがあるお寺の僧侶で、十二月に亡くなられたと。で、亡くなられたあと、どこへ転生したのかなと思ってたら、そのおじいさんが夢に出てきて、足がなくてね、性器のところに緑の生殖器みたいなのが見えたと。で、まあ彼女は、おじいさんは動物の世界へ転生したんだなと。そして、時同じころ、S師が、そのおじいさんが犬か豚に転生してるのを見たと。この犬か豚というのはどういうことかというと、四つ足で、まあ、身体にあまり毛がない生きもので、大きさとしては犬ぐらいだったと----でも豚かもしれないというわけだけどね----この二つは、まさにタントリックの仏典に一致してると。つまり、性器から抜け出した魂、これはバルドとしては緑色ですが、動物へ転生すると。で、それを、S行者と、それから最も縁の深かった孫娘にあたる信徒の方が見たと。で、実はこのおじいちゃんは、もともと地獄へ転生するはずの魂であったと。それをわたしに対する布施によって、地獄から動物へと引き上げられたと。つまり「ポワ」が起きたわけだね。
このようにして、死というものは存在し、化生、つまり輪廻転生というものは存在するんだ、ということを認識していった者は、この現世の楽しみだけではなく、来世どのようにしたら本当に幸福になるのかという正しいものの見方ができるようになります。
まあここにいる例えばP正悟師やU正悟師などは、相手を見て、ああこの人は来世三悪趣だなとか、あるいは来世この人は人間だなとか、あるいはこの人は修行するだろうとか、しないだろうとか、そういうことがわかるということを言っています。実際に、彼らにはそれぐらいの力があって当然だとわたしは思いますがね。で、そうでない師の.レベルでも、先程のSの経験を含めて、多くのそういう実体験が生じると。これはまさに、彼らが死に対して準備をしているからであると。
では一体、準備とは何かといったら、この五感のとらわれを離れ、内側の自己の内側に何が存在しているかをしっかりと見きわめると。これは信徒のレベルでも、一生懸命在家で修行すればできるんだということ。
では、どうしたらできるんだと。これは、六つの極限があるじゃないかと。あるいはもう少し高度な十の極限があるじゃないかと。この十の極限、あるいは十の徹底を行なうことによってできるはずであると。ではその六つの極限とは何かというと、これは布施の徹底、布施の極限、持戒の極限、そしてカルマを落とされるときにじっと耐える心の訓練の極限。そして今なしている善業を増大させ、今まだ徳がなくてできないけど、自分もあの人のように大きな徳が積みたいなと思う、そういうことを思念し実践する極限。あるいは今なしている悪業をやめる、あるいは今こういう悪業をやめることはできないけど、未来においてこの悪業をやめたいなと思念する極限。そして、自宅で一日一時間でも二時間でも、しっかりとマントラ瞑想し、あるいは思索をし、あるいは教学をし、しっかり心を静める極限。それによって、先程のようなね、叡智へと到達する極限と。この六つの実践を在家の者がなすならば、しかもそれが四つの預流支によって、しっかりと支えられるならば、必ずや死に対する準備はなされます。
わたしたちがどんなに否定しようとも、わたしたちが見ないようにしようとも、やってくる「死」。このやってくる「死」に対して、だれも答えを出すことはできない。できるのは三宝だけです。そして、あなた方の三宝とは、グル、そして真理、そして教団です。このグル・真理・教団に、あなた方が帰依をし、そして実践をするならば、あなた方は、あなた方がこの肉体を捨て化生の身体となり、次の生へ転生するプロセスにおいて、大きな大きな恩恵を得ることができるはずです。
よく、凡夫・外道の方がオウム真理教を否定します。しかし、これは調べてほしいことだが、オウム真理教の教義に対して、立ち入って攻撃を仕掛けた人は一人もいません。というのはどういうことかというと、それだけ完璧な教義があり、修行システムがあり、そして、成就者の体験は非の打ちどころがないということです。ところが、現世的な立場に立ち批判すると。これは、まさに悪魔が聖なるものを攻撃するのと同じです。そしてそれは、その悪魔というのは、あなた方の周りにも存在するはず。例えばそれは夫かもしれないし、妻かもしれないし、あるいは、おじいさんやおばあさんかもしれないし、あるいは友人かもしれない。そして、まさに今、降伏のときがやってきたとわたしは言えると思います。この降伏のときとは、そういう無智なる衆生を心を込めて済度すると。そして、真理の実践を行なわせ、できるだけ高い世界へ、来世幸福になってほしいなと、あるいは今生心のけがれを作ってほしくないなと思い、その魔とぶつかり、魔を粉砕し、救済すると。
現に、先月、つまり九一年の一月ね、入信者数は二六五名と。そして、信徒数の伸びは約四百名伸びたと。この約四百名伸びて、入信二六五名とは何かというと、つまり会費切れその他の人が、きちんとフォローされ加算されたと。つまり約四百名の人が、またオウム真理教へ戻って来、あるいは新しく修行を始めたということです。これは皆さんもよく知っている例えば霊友会などは、年間の伸びが三千人ということだから、それを十二で割ったとしても、二百数十名----ま、三千人ていうのは、伸びではなくて入信者数だから、脱会した人を引くとおそらくマイナスだと思いますがね。
これだけ叩かれていて、これだけの人がオウム真理教を求めていると。もちろん叩かれなかったら、今ごろ二千人、三千人、あるいは五千人といった人たちが入信してたでしょう。
ではなぜ、それが達成されたかというと、それは、信徒の皆さんが、そして弟子たちが、今こそまさに魔を降伏するときであると、救済をするときであるとそう考えたからです。
人間はある期間、そのカルマの許容量によって許される部分があります。これはどういうことかというと、例えば気球があってね、その気球は、十キロの物を十キロまでは載せて浮き上がることができると。しかし十一キロになったら絶対浮き上がれないと考えましょう。そしてこの載せる重り、これは正業であり、それから気球、これは功徳です。
どういうことかっていうと、この人間界は下から第四位の世界にあたります。ということは、わたしたちが三悪趣に生まれ変わるだけの悪業を積むためには、少しゆとりがあるということです。そして、大悪業という重りを少しずつ少しずつ載せてると。ところが、九キロ九九九グラムまでは浮き上がってると。「何だ、真理なんか存在しないよ」って。「身において悪業をなし、口において悪業をなし、心において悪業なしたっていいじゃないか」と。「わたしは、何ともなってない」と。ところがその人も、十キロ超えると、例えば死、例えば社会的な変化等によって、苦しみという、つまりカルマが返ってきます。しかしそのときにはもう遅い。つまりその人はそこから動けなくされて----つまり固定が起きてるからね。
このように、聖なる智慧を持った者は正しく現象を見ます。ところが無智な者は、先程述べたとおり、百グラム、二百グラム、三百グラムと悪業を積んでいっても気づかないと。なぜならば、まだ人間として存在してるからです。あるいは、楽しみを味わうことのできる功徳がまだ存在しているからです。
ではどのようにしたら、そういう相対的な価値観から離れ、絶対的な価値観に立つことができるんだと。それは「死」です。死というものは、わたしたちがいくら避けようとしても必ずやってきます。あるいは「病」です。これは、わたしたちが気をつければ、なかなか病にかかりませんが、絶対に病から逃れることはできません。あるいは「老い」です。ここでいう「老い」とは、何かというと「衰退」ということができます。だからそれは肉体的な衰退でもあるし、あるいは社会的には、先程述べたように、悪業が返り苦しまなければならないということ、これも含めて「老い」と考えるべきです。
この「老い」、「病」、そして「死」という三つ、これがわたしたちの真理を知るための、一つのバロメーターということになります。
では、「それはもう気づいたよ」と。「何を実践すればいいんだ」といった人は、まず、四預流支を実践する必要がある。この四預流支というのは何かというと、この実践さえ行なっていれば、未来において必ず、この欲界から離脱し、色界へ入り、色界から離脱し、無色界に入り、そしてマハー・ニルヴァーナへと到達できる絶対的な教えのことです。
ではこの四つの預流支とは何だと。それはまず、第一番目は三宝に対する帰依。この三宝に対する帰依とは、オウム真理教ではグル、真理、そして教団に対する帰依ということになります。では信と帰依とはどう違うんだと。信とは「わたしは、何々教を信じてます」と。例えば「わたしはオウム真理教を信じてます」と。これが信です。では帰依とは何だと。それはその教えを実践すること。今自分の理解している範囲で、奉仕活動を行なったり、あるいは布教活動を行なったり、あるいは布施の実践を行なうこと、これが四預流支の第一番目に来ます。
では第二番目の四預流支は何だと。第二番目の四預流支は記憶修習です。この記憶修習とは、皆さんに毎月送られている『マハーヤーナ』、あるいは『真理の芽』(両方とも当時の教団機関誌)、あるいは説法テープ等を何度も何度も聞き、記憶すると。これは忘れても構いません。何度も何度も聞き、あるいは見、記憶すると。これが二番目の四預流支です。
では三番目の四預流支とは何かと。これはその記憶修習したものを背景に、自己の身の行ない、口の行ない、心の行ないについて考えるということです。この身の行ない、口の行ない、心の行ない----この行ないをサンスカーラと言いますが----この行によって、自分はどのような悪業を積み、あるいは善業をなしてるのかをチェックすると。そしてそのチェックシートみたいなものが、『マハーヤーナ』であり、あるいは説法テープです。これにのっとり、身・口・意を統御するように考えると。
そして、第四番目の四預流支は、それにのっとり、身・口・意の三つの実践を行なうと。
大変これは科学的な実践方法だと思います。つまり、まず何に対して自分を帰依するのか、預けるのか、それをはっきりさせると。これが、グル、真理、そして教団であると。
第二の段階で、その教えについて、まず自分の今までけがれたデータを考えないでひたすら入れると。ね。これはよく自分の考えと、教えとで悩む人がいます。しかしそれは記憶修習、つまりデータがまだ入ってないから悩むんであって、しっかりデータを入れれば、どちらの方が正しいかがわかるはずです。これが第二番目の預流支であると。
そして第三番目の預流支は、それにのっとり自己の身・口・意について考えると。ここで「考える」とは何かというと、例えば、悪口をひたすら言うと。ね。「わたしは今までこれだけの悪口を言ってきた」と。これは、カルマとしてどのようなカルマであろうかと。ちゃんと「マハーヤーナ」読めばそれは載ってると。ね。「あ、そうか」と。「じゃあ、今から悪口をやめよう」と。あるいは、両舌をこれだけなしてきたと。どれだけのカルマになるだろうかと。ちゃんと『マハーヤーナ』読めば載ってると。「じゃあやめようか」と。あるいは、今まで子供の教育において、意味もなく怒鳴ったり、叩いたりしてきたと。これはどういうカルマになるだろうかと。ちゃんと「マハーヤーナ」読めば載ってると。ね。「やめよう」と。このような形で、自己の身・口・意についてチェックすると。
そして、それを実際にやめ、正しい行為、正しい言葉、そして正しい心の働きを実践すると。これは、八正道であり、あるいは五根であり、五力であり、七覚支であるということか.智慧ある弟子たちにとってはよくわかるはずです。つまりこの四預流支というのは、七科三十七道品のコンパクト版、最もそれを小さな、少ない言葉で話すとするならば、四預流支になるんだなということがよくわかるはずです。
例えば八正道に当てはめ、考えてみましょうと。まず第一番目の正見解、この正見解というのは、四預流支の二番目の記憶修習にあたります。第二番目の正思惟、これは三番日の身・口・意の三つの業について考えると。しかもそれは正見解にのっとり考えるということに当てはまります。第三番目の正語、これは第四番日の正しい実践、その三つを土台とした実践、これを背景として行なうわけですから一致します。第四番目の正行為、これも同じように第四番目のカテゴリーに入ります。第五番目の正生活、これも同じように第四番目のカテゴリーに入ります。そして、第六番目の正記憶修習、これは第二番目と合致すると。第七番目の二正勤二正断、精進だね、これは三番目と四番目のカテゴリーに入りますと。そして第八番目の正サマディは、これは第四番目の実践にあてはまると。
ということは、この四預流支は、八正道を内在してると。七覚支を内在してると。五根を内在してると。五力を内在してると。二正勤二正断を内在してると。そして四如意足を内在してると。これが仏教です。
じゃ、なぜ七科三十七道品が存在したのかというと、それはケースバイケースで法を説いていたからです。つまりある人には五根を説き、ある人には五力を説き、ある人には七覚支を説き、ある人には八正道を説いたと。そして後世の仏弟子たちがその全体を理解できなかったがために、それを別のものと考え、七科三十七遺品という体系を作ったと。しかし実際はそうではなく、四預流支の発展版が八正道であり、八正道の発展版の中に二正勤二正断、あるいは七覚支が存在してると。そしてこれらのものは、クモの巣のように関連されて修行体系が組まれていると。
人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けらんない。どんなにお金があろうとも、どんなに夫婦関係が楽しかろうとも、どんなに子供が優秀であろうとも、どんなに権力を有していようとも、人は必ず死にます。そして、それに対して答えの出せる宗教が、今やっと日本に登場したと。それがオウム真理教です。そして、多くの実体験を持った者が、そこで実際に真理の実践を行なっています。そしてオウム真理教の師のアドバイス、正悟師のアドバイス、正大師のアドバイス、そしてわたしのアドバイスは、その真理に根づいてのアドバイスです。よって厳しいこともあります。
例えば、以前和歌山にいらっしゃつたある信徒さん。この信徒さんの修行のやり方に対して、わたしはこういうアドバイスをしました。あなたは今のままだと三悪趣へ落ちますと。なぜ三悪趣へ落ちるかと言ったかというと、それは先程述べた仏典の内容で検討すると、その人が明らかに三悪趣へ落ちるというデータが存在してたからです。しかし、その人は無智なるがために真理を放棄してしまった。
皆さんもそうならないようにしっかりと四預流支の実践をなし、等覚、そしてニルヴァーナへと至ってください。在家でも真剣に頑張れば、特にオウム真理教の中にあるヴァジラヤーナ、あるいはタントラヤーナの教えを実践することにより、必ず在家でも解脱することができます。しっかり実践しましょう。