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◆91/l/29 富士山総本部
不放逸、慚愧、そしてサイの角のように一人行け
近ごろ、極厳修行者を見ていて感じることは、教学ができてないということである。それはどういうことかというと、まず離解脱という意味を理解できず、また神秘力という意味合いを理解できないということである。この離解脱に到達するためには、独存位、一人にならなければならない。しかし、一人になることを恐れ、他の対象を求め、あるいは二人三人と徒党を組んで行動すると。このようなことが極厳修行中にありながら、平気で行なわれていると。
これはなんともまあ情けない話である。
例えば、A、お前のなしたカルマは大変重たい。それはなぜかというと、一人で抜け出すならばともかく、後輩を引き連れてフラフラと出ていってしまった、そうだな? どうだ、それは。
これはまさに独存位の境地、それから解脱というものを理解できない、つまり教学不足なるがゆえになされている行為である。
あるいは、S、お前はサマナ生活をドロップアウトしたいという申し出をしたそうだな。これも同じであると。つまり、Gと一緒に破戒をしたんだから、在家へ落ちなさいというときは「いや頑張ります」と、「とにかく全力で頑張ります」と、「一生懸命やらせてください」と言っていながら、修行が辛くなると、ドロップアウトしたいと言い出すと。そうだな? まさに、単に心に浮いてきたままを表現する、これは動物と同じである。
他の者たちも、まあ、揺れてる者たちの内容を聞くと、同じパターンで揺れている。しかしここでよく考えなきゃなんない。それは、サットヴァの性質は何かということである。そしてサットヴァの性質を強め、それによって苦諦・集諦・滅諦・道諦、苦しみ・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽を、滅する実践方法という、四つの真理、絶対的真理というものを体得し、そしてそれを自分の内側に完全に確立することが、全君たちの修行のはずである。そうだな? どうだそれは。
だとするならば例えばA、お前の弱さが修行中に出てきてるということは、それはどうだA、それはなにゆえに出てきてるんだ? A、どうだ。あるいはお前が徒党を組んで動こうとする性質、これはなにゆえに出てきてるんだと思うか?----いや、弱さとか強さではない、わたしが聞いてるのは。もっと教義の本質的な部分だ。どうだ、Sは。
(弟子答える)
(尊師)そうではない。行動の結果として現われてるのは現われているわけだけど、例えばワーク中だったら、それが理解できず、修行に入ったら理解できるとはどういうことだということだ、別の質問の形態をとるならば。つまりそれはお前たちが、少しずつ少しずつサットヴァになり、自分の内側にある要素に気づき出してるということじゃないのか? どうだ。
今までだったら苦しみに耐えられるはずなのに、例えば、一日一食、食を取ってると。この一日一食、食を取っている状態、ね、例えば、次の日も一日一食食を取ると。この状態で果たして肉体が滅びていくだろうかと、死ぬだろうかといった場合当然死なないはずである。それはどうだ?
今日話している内容というのは、AとSをサンプリングし、それを土台として、カルマを落としてあげることによって、修行を進めさせ、その他の揺れている、俗にいう揺れている----実際はサットヴァ性の光が強くなって、自分の本性を知り出している者たちに、真理を説き明かそうと思って、特別な講話を、ここに企画したわけである。
今までは、光、光というものは三つの現象を照らす。それは何かというと、身の行ない、口の行ない、そして心の行ないである。次に、この光は、六つの処を照らす。これは、眼処・耳処・真処・舌処、そして身処・意処という六つである。で、特にこの肉体についての照らし出しについては、敏感である。例えば、どこどこが痛くなったとか、どこどこがかゆくなったとか、あるいは視力がどうこうとか、あるいは、アストラルで触覚体験をしたとかしないとか。ところが、意処についての検討をあまりにもなさなすぎるので、ここに、その法を説かなければならないと思って、わたしは今日は特別な講話を用意したわけだ。
例えば、煩悩に没入してるとき、自己の弱さというものを、これはSにしろAにしろ、そんなに認識しないはずである。どうだそれは? 極厳修行に入ってからの自分に対する認識と、ワーク中の認識とでは全然違う認識をするはずである。どうだA、それは。
ところが修行に入り、少しずつ少しずつ心が静まり、サットヴァの光が強くなると、自己を見つめる力というものが強くなってくる。ね。ここで問題なのは、その見つめる力を現わしているもの、例えば心の状態をはっきり現わすもの、痛みをはっきり現わすもの、これが明である。別の言い方をすれば神秘力の源なんだね。
それからもう一つは、離解脱させるための、ね、修行のこつがあるということになる。この離解脱させるためには、完全に思索をしなければならない。
例えば、思索には、下向の思索と上向の思索と二種類あると。例えば食い物が浮いてきたと。「あー食べたい食べたい食べたい、あれはおいしそうだ、これもおいしそうだ」と思索すると。これは下向の思索であると。ところが、例えば食べたい対象が出てきたと。それに対して、「わたしは今、一日一食取っていると。昨日も一日一食であったと。おとといも一日一食であったと。一カ月前もそうであったと。そしてわたしの身体は、別に死ぬということもなく、あるいは、病んだわけでもない」と、このように思索をするならば、ということは浮いてきているもの、ここから離脱すること、それは可能であり、それが食からの解脱であるということが理解できるはずである。
あるいはストレスが高じてくると。「わたしは昨日もストレスが高じたからといって、修行をボイコットしなかったと。おとといもボイコットしなかったと。その前もボイコットしなかったと。よって、ボイコットしないこと、今日ボイコットしないことは、それほど難しいことではないし、逆にこのストレスというものを、思索することによって上昇させることは、解脱の条件をまた一つ整えることになると」と、考えるのか、あるいはストレスが高じてきた、「あー今日出たい」。また次の日、「あーまた出てきた、また今日も出たい」、また出てきた、「わたしはおとといも昨日も今日も出たがってたと。エーイもう出てやるぞ」と。で、ボイコットすると。この、前者上向の瞑想と、後者下向の瞑想とでは、全く逆の結果を招くこととなる。
そして、その、意識状態をはっきりさせるエネルギー、それが、サットヴァのプラーナである。別にサットヴァのプラーナに善悪はない。しかし、サットヴァのプラーナは、わたしたちを絶対的幸福の境地に導いてくれることは事実である。それはなぜかというと、わたしたちの持っているいろいろな煩悩を、はっきりと、ありありと見せてくれるからである。
君たちは、思索という幻影の中に今没入している。その思索という幻影とは何かというと、先程言った下向の思索という意味である。ここでもう一度、仏典の第一章を考えなければならない。それは、ザンキの念を持ち、不放逸あれと。そして、サイの角のように一人行け、ということである。
ザンキの念を持つとはどういうことかというと、外側に対しても、内側に対しても、自分はまだまだと。自分は未熟であるという心を持つということである。不放逸とはどういうことかというと、たゆまず休まず、集中し続けるということである。そしてこの、集中し続けるということは、とりもなおさず、だれに結果を招くかというと、修行者その人に結果が返ってくるわけである。つまり、修行の期間が短く結果が出せるということなのである。
そして、サイの角のように一人行けというのはどういうことかというと、まず、一切の現象から離れなさいと。そして一人で修行しなさいと。次に、その「一人で修行しなさい」からもう一歩進めて、自己の内側にある真我に到達しなさいよという、この二つの意味が含まれているのである。
そこを理解せず、心を、例えばsのように、Aという男性、Bという男性、Cという男性という、対象から対象へと心を動かすと。これはまさに、自分の心の中に穴があいていて、そこはもう異性の入るべき空間であるという認識をしてるというのと同じである。例えばAのように、即徒党を組むというのも同じである、これは。ところがその穴を埋めきって、完全に独存位の境地で、そして平安な状態でいられてこそ、初めて解脱の境地というものが体得できるんだということを、ここに認識しなければならない。
なぜならば、わたしたちは必ず死ぬ。そのときに、わたしたちは一人になる、必ず。もちろん、三宝に対する帰依のしっかりしてる者は、必ずやそこにグル、あるいは法友が現われ、救済をするであろう。しかし、肉体を持っていて、独存位へなれず、三宝の帰依が揺らいでいる者が、果たして死という恐怖を前に、到達できるであろうかと。わかるかな。
人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けらんない。死を前に、死を克服しなさい。死を前に、独存位の境地を経験しなさい。死を前に、真我に到達しなさい。そして、いろいろ現われてくる、はっきりと現われてくる心の現われは、君たちの修行の成果であると。そして自分の五蘊にどのようなけがれが存在し、そのけがれと心とがくっつき、どのような身・口・意の行をなすのかと。これは無明・行・識のプロセスです。いいね。そこをしっかりと理解しなければならない。そして理解することは、君たちにとって最高の恩恵を与えることになるだろう。
もう一度最後に、わたしの言いたいことは、上向の瞑想と下向の瞑想がある。そして上向の瞑想は、大いにやんなさい。それは過去において耐えられる、あるいは耐えられた経験についての瞑想、過去においてザンキの念をなした、そのときの瞑想、過去において不放逸であったときの瞑想、これをなしなさい。そしてなしてはいけないのは、過去において耐えられなかったときの瞑想、過去において傲慢であったときの瞑想、そして過去において、怠惰であったときの瞑想をなしてはならない。成就の決め手は、不放逸、ザンキの念、そしてサイの角のように一人黙々と修行するということである。この三つの条件を早く備えなさい。
今日わたしが、名前を挙げたAにしろ、Sにしろ、あるいはSにしろ、今日のこの苦、この講話に対して、謙虚な気持ちを持ち、感謝をするならば、解脱の機会というものはもっともっと早く訪れるはずである。しっかりと自己を見つめなさい。不放逸で修行しなさい。そして、ザンキの念を持ちなさい。一人になりなさい。これが、わたしが、弟子に対する最高のプレゼントである。そしてそれをなすことは、必ずや死を克服することになるだろう。いいね。