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◆88/3/20 東京
直弟子の意義と目的

 今日の話はねえ、すごく大切な話だからよく心に留めるようにしなさい。それは新しくスタッフになった人、あるいは今までいる人、ね、両方について言えることだけども、なぜあなた方が今スタッフなのか、ね、まあそれは、スタッフ・オブ・ボーディチッタとか命名を換えようと今してるけども、なぜあなた方が、スタッフなのかということを考えなければならない。実際は正しくないね、スタッフというのはね。スタッフというのは、もっと言い方を換えるならば、わたしの弟子だということになるね。で、その弟子というのは何かというと、あなた方の生命をわたしに預けたと、あなた方の魂をわたしに預けたということになる。いいか。
 そして、いいか、あなた方はなぜここにいるかと。ね、その目的をもう一度考えなければならない。ね。その目的は解脱のはずであると。その目的は悟りのはずであると。いいか。そして、ね、Emancipation(イマンシベーション)、解脱だね。それから、Enlightenment(エンライトメント)、悟りだね。この二つに到達するためには、どのプロセスを歩いたらよろしいかと。
 ね、今オウムでは、正確に言うと二つの道を提示してるよね。一つは出家行者しかできない、出家行者ならではの八つの聖なる道、八正道だ。ね。それからもう一つは、六つの極限だね。この二つを提示している。そして、どちらに重きを置いているかというと、ね、六つの極限の方に重きを置いているわけだ。いいかな、極限というのは限界という意味だ。だからわたしは、あなた方に限界のワークを要求してるし、限界の時間の使い方を要求してるし、限界のグルに対するね、Faith≠セね、つまり誠実さ。今アメリカではね、Belive≠ニいう言葉を使わないそうだ。
 Belive≠ニいうのは要するに、わたしはキリスト教を信じてますよと、しかし実践はしてないと。これはBelive≠セね。Faith≠ニいうのは、これは何かというと、要するに誠実、忠実という意味だね。つまり、信を持って、そのあと実践すると。帰依を意味してるんだね、これは。要するに。帰依ができてるかどうか、いいかな。
 そして、その帰依ができたならば、何がまずできるかというと限界の布施ができますよと。限界の布施というのは、わたしもあなた方と同じように布施の実践をまだ続けている。そして今回、いいかな、わたしが、ね、会員さんに血のイニシエーションとして血を六○○cc前後、ね、体から抜いて使うのもわたしの布施なんだよ、これは。いいか。サマディ前の布施なんだよ。そして、わたしがシャクティーパットを行なうのもわたしのアストラル・エナジーの布施なんだよこれは。いいかな。何のために? それは真理の殿堂を打ち建てるために、わたしも布施をしてるわけだ。いいね。そして、極限というのは肉体が限界状態になるまで布施をするということだ、ね。あるいは物質的に限界状態になるまで布施をするということだ。これが布施の極限なんだ、ね。
 パーラミターってのはね、六波羅蜜という、六波羅蜜てのはね、パーラミターというのは、それは限界、極限という意味なんだね。そしてもう一度繰り返すよ、わたしもあなた方と同じように布施の実践をしている。じゃ、なぜ布施の実践をわたしがやらなきゃならないのかと。「終わってるはずじゃないか、あなたは」と考えるかもしれない。そうではない。終わったということはそれを通り越している、それを超えているという意味なんだね。Super≠ニか、Above≠ニか、まあBeyond≠ニかいろいろあるけども、要するに乗り越えた状態だ。乗り越えた状態ということは、それが平気でできる状態ということ意味している。いいか。
 だから、わたしは六つの極限を、ね、クリアーしてきてるから、当然、布施も極限の布施になるだろう。ね、釈迦牟尼が自分の肉を布施したという一説があるけど、似たようなもんだな、血を布施するのも肉を布施するのもね。必要だったら肉でも骨でも布施してやろうかと考えてる。これが第一段階の布施だ。いいか。
 そうするとだ、あなた方が今わたしに対して奉仕をしていること----実際にはわたしに対しての奉仕ではない、ね。もちろんわたしを通じて真理というものに対して奉仕をしていること、これは当然、限界の奉仕をわたしはあなた方に要求する。そうするとね、こうやってね、右手を心臓に当てて、あるいは左手でもいいよ、心臓に当てて考えてごらん。自分自身は極限に、自分の極限に至るまで奉仕をしているかどうか考えなさい。布施をしているかどうか考えなさい。肉体的な布施を行なっているかどうか考えなさい。どうだそれは。そしてこれが解脱、あるいは悟りといわれる第一歩だ。ね。
 以前、Bとかあるいはケイマとかがわたしのそばにいたとき、彼らは、仕事とそれからワークと、ね、ワークってのはオウムの手伝いと、それから修行という限界をやってた。そして、Rがやはり同じようにオウムに入るまでには、同じように朝から晩まで奉仕をしてた。今のリーダーたちでも似たようなものだ、それは。限界まで奉仕をしてた。しかし新しい人たちはだよ、オウムという一つのかたちができ上がってきてから入ってきてる。ね、いいか。だからすごく考え方が甘い! 甘いということは何を意味してるかというと、成就しつらいということだ、これは。いいか。だからわたしは、まず必ず、スタッフになった人にはパフォーマンスの方に行かせようと考えている。ところがリーダーたちのものの考え方があって、どうしてもパフォーマンスに回せない。でいるとその人たちはだいたい問題を起こすかつぶれてしまう。だからこれは一つのオウムの原則として、わたしはやっていこうと考えている。わたしに言わせれば高々十五時間のワークだ。高々十六時間のワークだ。
 そして、わたしが修行に入ったとき、わたしは生の人参をかじって生活した。生芋をかじって生活した。だとしたならば、冷や飯でもちゃんとご飯とおかずがついてたら十分なはずだ、それで。いいか。釈迦牟尼が生きてるころ、ね、釈迦牟尼の弟子たちは、托鉢以外食べてはいけないということになってた。托鉢以外食べてはいけないとはどういうことかというと、それは紐つきになるな、ということだ。紐つきというのは、例えば王家の人がバックアップについたり、あるいはバラモンつまり僧侶だね、僧侶がバックアップにつけば生活ができるわけだ。しかしそれを釈迦牟尼は禁止していた。そしてもし托鉢で供養を受けられなかった人は食うなと言っている。つまり一日一回も食うなということだ。二日に一回も食うなということだ。いいか。
 そこから考えると、今あなた方は二回食べることができる。リーダーの中には、自分を律して一食しか食べない人もいる。素晴らしいことだとわたしは考えている。そしてそれがベースだと、基礎だと言ってるんだよ、ね。西洋には、あるいはインドでもそうだけども、そういうことやらなくても、Emancipationできるよと、Enlightenmentできるよと言ってる人がいるけどそんなのはでたらめだ。なぜでたらめかというと、いいか、今まで世に現われた大聖者の中で、その道を歩いてきていない人はいないからだ。例えばそれは、ね、イエス・キリストがEnlightしてるとか、あるいはEmancipationしてるとかいうことは疑いがあることだけども、彼も四十日間の断食を行なっている、ね。そして、ね、凡夫のレベルから考えると、それは苦行だと考えるけどそうではないんだよ。ね。これは血液を下に下げないための工夫なんだね、一つの。食べると胃に血液が集中する。それと同時に、肉体的な血液の集中と同時に、心も意識も下に下がるんだ。だからイエスも四十日間の断食を行なった。そして、ね、マホメットが、真理か真理でないかは別にして、やはり世の中を動かした大聖者----いや、大宗教家だね----マホメットも同じように断食を行なってる。そして釈迦牟尼も同じだね、釈迦牟尼は三年とも五年ともいわれる断食を行なっている。いいか。
 つまりあなた方が解脱するためには、悟りを開くためには常人の考え得る状態を完璧に乗り越えなきゃならない。そして乗り越えてこそ、初めてあなた方に真理の道というものが開けてくるわけだ、ね。
 そして、今オウムは少しずつ少しずつ大きくなってきている。あなた方はどういう目で見られるかというと、オウム真理教の、麻原彰晃の弟子であるという見方をされる。そうなった場合、あなた方がもし自己を律していなかったならばどうなるか考えなさい。そこであなた方を見て生活している人たちが、あるいはあなた方を目標として生活してる人たちが「なんだこの程度か」ということで、一人去り二人去りしていってね、最終的には真理というものにね、たくさんの人を導き入れることができないかもしれない。
 だとしたならば、まず、考えなければならない。わたしの弟子であるあなた方をまず、試練に放り込むしかないと。そして試練に、ね、打ち勝った人たちだけ、試練を乗り越えることのできた人たちだけがわたしの弟子だということができよう。今、そのための試練がオウムでは始まっているわけだ、いいか。第一の布施波羅蜜にしろ、布施の極限も、ですらだよ、これだけの意味合いがあるんだ。ね。
 持戒はどうだと。もしあなた方が十の戒をきちんと守るならば、尊敬に値する人物として評価されるだろう。そしてそれは、あなた方の、ね、流布に対して----流布とはわかるね、オウムというものを世に広め真理の炎を点火する----ね、そのために大変有効な役割を演じるだろう。
 なぜだ? もしここに苦悩をしている人がいて、ね、目標となる、ね、ものがなかったならば、その人は苦悩の渦から抜け出すことはできないだろう。しかしだ、ね、その人のそばにいる人が、ね、尊敬に値する人であったならば、たとえ神通力がなくても、いいか、たとえ特別な力がなくても----ここで神通力と特別な力と言ってるのは、神通力は普通六神通を指すから、それ以外のことを特別な力と言ってるね、わたしは今。いいか----その人の実践していることに興味を持つだろう。ね。つまりこの十の戒めというものは、自己を律するだけではなくて、尊敬に値する人をつくり上げていくということだ、ね。
 そして持戒。いいか、もう一つ意味合いがあるぞ、持戒には。この持戒を実践するならば、次の意志の強化≠ニも関係してくるんだ。ね、高々十個しかないよね。殺生をするな。盗むな。愛欲にふけるな。嘘をつくな、ね。悪口を言うな、ね。仲たがいをさせるな、ね。無駄な言葉をしゃべるな。そして貪るな。怒るな。そして真理に対して批判をするな、愚痴を言うなという十個だ。この十個をあなた方が意識して守ることによって、ね、あなた方のもっと深い----まあここでは魂って言葉、使っとこうか、すごく難しいんだけども----それがね、意志の力を使って、いいか、自分を律することができるようになる。コントロールすることができるようになるわけだ。ね。そうなって初めて、ね、意志の強化、耐えるという訓練ができるわけだ。いいか。
 あなた方が成就するためには一日十五時間でも修行は足りないよ。二十時間でも足りないよ。二十四時間でも足りないよ。ねえ、一日二十四時間しかないけども。何を言いたいかというと、その一時間一時間の重たさだな。その一時間にどれくらい集中してことをなしてるか、ね。「これは心の浄化である」と、ね。「これは行為の浄化である」と、「これは口の浄化である」と、意識してやってるか。「これはグルの意思である」と、「これはシヴァ神の意思である」と意識してやってるか。あるいは「これは真理である」と意識してやってるかどうかだ。
 その気持ちを絶えず持ち続けて、ね、持戒を守るならば、次の、意志の強化、忍辱に入ることができるわけだ。意志の強化とは何かというとね、忍耐とは何かというと、すごく我慢という言葉と似てるんだね。わたしは我慢したと。忍辱と我慢の遠いはね、永遠と続くもの、いつ終わるかわからないものを忍辱という。そして例えば時間が決まっていて、あと三十分踏ん張れば、あと一時間頑張れば、ね、耐えれば終わるというものを我慢といっている。ね。
 それグルが例えば、いいか、あなた方にビラ配りをしなさいと、ね、十六時間のビラ配りをしなさいと、ね、パフォーマンスだと、それが一週間一カ月あるいは一年になるかもしれない。じーっと何も言わないと。いつ、「はい、あなたは次のステップに入っていいですよ」と言わないと、ね。しかしそういうことは一切無視して黙々と十六時間、「よし今日は十七時何やってみるぞ」と十七時間と、「今日は十八時間やってみるぞ」と十八時間と、ね。それはデザインの仕事もそうだ。あるいは営業の仕事もそうだ。「今日は十九時間やるぞ」と十九時間やると。それをずっと続けると、ね。グルがOKだと言うまでずっと続けると。意志を集中し続けると。いいか。これが第三ステップの忍辱だ、ね。
 あるいは、あなた方がせっかく作ったものをぶっ壊されると。「はい、またやりなさい」と、また作ると。また作ったものをぶっ壊されると。「はいやりなさい」と、また作ると。これを繰り返されるかもしれない、ね。あるいは、ある部署に行って慣れたと、次の部署行きなさいと。次の部署行って慣れたと、次の部署行きなさいと。これをやられるかもしれない。何をやられるかもしれないよ、どういうことをわたしがあなた方に仕掛けるかわからない。
 しかしこのときにあなた方がなすことは、無期限の耐える訓練だ。それはなぜかというと、解脱はいつ来るかわからないよ、あるいは悟りはいつ来るかわからないよ、いいか。そのために必要なことは耐える訓練だ、ね。あるいは座法がしびれて、ひょっとして一時間耐えたならば解脱したかもしれない、ね。あるいは座法がしびれて、十時間耐えたなら解脱したかもしれない。あるいは十日耐えたならば解脱したかもしれない、いいか。それに耐えることが、ね、耐えるという条件をあなた方が持っていることが成就の一つの決め手になるんだ。だから忍辱というものはそれほどあなた方に必要だということだね。言い方を換えれば、これがなければ駄目だということだ。
 だからわたしはね、先程も言ったけども、特に新しいスタッフに対しては、試練を与えたいと考えてる。それはまだ、中にはきちんとできた人もいるけども、布施の精神もできてない人もいると。持戒の精神ができてない人もいると。だったら、わたしはあなた方をどう導けばいいんだ。まずはきちんとベースを、あなた方にたたき込んであげなきゃなんない。修行の基礎は何かと、ね。
 はい、『マハーヤーナ』で、「ケイマ大師成就す」とか、「M大師成就す」とか、ねえ「U大師成就す」とか、「R大師成就す」とか言うのを聞いて、ああこれはすごい、楽々成就できるんだとお考えになってるかもしれないけど、そんな甘いもんではないよ、ね。それらの人いずれも、わたしの仕掛けに対して、ね、例えばr大師は、ね、サンガの中で、まず百二十万のお布施をしたのが一番早かったんじゃないかなたぶん。サンガで働いてお布施したのはね。それだけグルに対して帰依はできてた。まあ途中でいろいろ挫折はあったけども、しかしわたしがみんなの前でLを、ね、嘲笑しても----嘲笑というのは何かというと、笑いものにしてもだ、平気だった。で、黙々とグルについてきた。いいか、これは信ができてるからだ。わたしはそういう仕掛けっていうか試しをよくやる。だから成就できたんだ。ね。
 しかしあなた方の心はどうかな、よく自分で考えてごらん。もう、自分が苦しいと。もう自分はギブアップだと。自分のことがしたいと。だったらオウムを去りなさい、早く。そういう人たちは自己の生活に安住したらよろしい。そういう人たちには破滅しかない。今この、ね、多大な情報の中に生きてるわたしたちがだ、どのようにして自己を守り、いいか、成就していくか、ね、ただ一つしかないよ、それは。功徳と意志の強さだ。ね。そのために三つの、今言った、布施、そして持戒、そして忍辱というプロセスがあるんじゃないか。そしてそれを背景として、グルの意志したことを、ね、ただひたすら実践すると。ね、これが精進のプロセスだね。
 マルパ・ロサというねえ、チベットには偉大なグルがいた。これはティローパ、ナローパね、マルパという、つまりカギュー派の系統のグルなんだけども。彼は、ね、彼の弟子ミラレパにだよ、ミラレパというのは大金持ちのお坊ちゃんなんだけど、ミラレパに、自分の家を建てなさいと言って一件、家を建てさせた。ここの部分が悪い、あそこの部分が悪いということで、その家をぶっ壊させて、また家を建てさせた。またぶっ壊して、ぶっ壊させてね、また家を建てさした。いいか。で、ミラレパは一文なしだ。そのあとすごくつらく当たられて、さあわたしはこの絶壁から飛び降りて自殺しようといったときに、マルパが現われて、「さあ、あなたはやっと修行の準備ができたね」と。「修行に入りなさい」と。
 はい。それでマルパは、ね、ミラレパがいきなり成就すると考えたと思うかどうだ。そのあとミラレパは洞穴に入って、ね、草だけを食べながら修行に励んだ。しかし、半年経っても成就しない、一年経っても成就しない。ここでいう成就というのはトゥモのことだね。熱のクンダリニーのことだ。いいか。ちょうどミラレパは、時期だったんだろうね、そこで親戚の人が現われて、あまりにも体が弱ってたから食物の供養を受けた。それから一気に修行が進んだという話がある。
 どうだ。あなた方が今与えられてる試練は、それと比較して、大変か? 大変じゃないか?----わたしは他の人と同じようなレベルの真理だったら、法だったら説く必要がないと考えている。わたしがあなた方に与えなければならないものは、わたしがあなた方に示さなければならないものは、今だかつてだれも聞いたことのないような、見たことのないような、ね、法であり真理だと考えている。そしてその世界にあなた方を連れていきたいと考えている。しかしそのためには、あなた方にその受け入れるための準備ができていなかったならば、どうだろうね。ね。
 そして次に来るのが、禅定だ。ね。禅定のプロセスについてはこの前のセミナーで一応は話してある。それについてはまだあなた方には早すぎるとわたしは考えている。もちろん会員にも早いと考えているよ。しかし会員さんというのは、先を知りたがる。そしてわたしから離れている。
スタッフというのはそうではない。弟子というものは、わたしが責任を持ってあなた方を最終地点まで連れていくという義務がある。いいか。
 そしてわたしはここにいる。そしてあなた方は今そこにいるわけだ。だとしたならばあなた方が何をなさなければならないか、もう一度考えなければならない。そしてあなた方の求めてるものが、いかに高いものであるかもう一度考えなければならない。そして、それぐらいの気持ちがなければ早く去りなさい。
 それは、あなた方が到達したいと考えているその世界は、世界中の宝物を集めても、世界中の異性が快楽を与えてくれても、世界中のおいしい食物があなた方の前に現われても、いっさい無意味だというぐらいの価値のあるもんだ。そこには絶対的な自由がある。絶対的な幸福がある。絶対的な歓喜があるんだ。
 いいね。----そして乗り越えることができるのは、それはあなた方の功徳と意志だ。それを磨き上げること、積むこと、それがあなた方の修行だ。

 よし。はい、『マハーヤーナ・スートラ』『イニシエーション』、『生死を超える』をちゃんと読んでる人、あるいは持ってる人は手を挙げてごらん。----データとってくれ。----ん、自分で持ってるということだ。
 じゃ持ってない人。じゃあまず『生死を超える』を持ってない人----はいそれはリストを出して、ちゃんと買っておきなさい。次『マハーヤーナ・スートラ』を持ってない人。それもちゃんと読みなさい。次は『イニシエーション』持ってない人。それも読みなさい。それから『越能力秘密のカリキュラム』を持ってない人。それも読みなさい。で、『マハーヤーナ』はどうなってるかな、あれは。配ってる? じゃそれはリストを出して、即買ってもらいなさい。
 わたしのそばにいて、わたしの本きちんと読まないということは失礼だ! それは、グルに対して。きちんとやりなさい、いいね! それから、買ってて読まなかった人は読みなさい! 熟読して、わたしがどのパートを聞いたとしてもきちんと理解できるようにしときなさい。いいか! 新しかろうが古かろうが、そんなことは関係がない。法というものは流れがある。いいね。流れというのは、小乗から大乗、そしてタントラ乗についてわたしは今、話を始めている。いいか。
 君たちはガイって知ってるな。アメリカのスタッフだ。彼はわたしにギブアップ宣言をした。ちょうどわたしがガイを呼んだときだ。帰っても構わないと。それから少しディスカッションをしてて、でまあ、マハームドラーについて説明をして、ま、五日間は残ると。残ってみたいと。今、結論を出すのは軽卒だという話をした。そしてガイには『イニシエーション』の英語版の最後のチェックをさしている。『イニシエーション』をどんどん読みだして彼がどう変わったか。「わたしは今まで、こういう本を読んだことがない」と。一章、二章、三章と読んでいるうちに、どんどんどんどん後は変わっていってザンゲし出した、わたしに対して。あるいは他のスタッフに対してザンゲし出した。わたし傲慢であったと。わたしの経験は大したことがなかったと。
 今あをた方は、そのような真理に触れてるわけだ。いいか、もっと確信を持ちなさい。確信を持つためには、もっと学ぼなければならない。睡眠時間を三十分削り、一時間削りして実践しなさい。もしこの中で、わたしは甘えたいんだと考える人がいたならば、それは出なさい。それは修行者としてふさわしくない。
 わたしはあなた方を最後まで連れていく義務がある。そして今そのための示唆をあなた方に与えている。いいね。読んでない人は必ず読みなさい。持ってない人はもちろん買わなければならない。そして読んだ人は理解しなさい。わからないことはわたしがここにいるわけだ、聞けばいい。あるいは他の大師方に聞けばいい。他の大師方でわからないところは必ずわたしに上がってくる、いいね。
 法を理解していないで、教理を理解していないで、何をもって真理と言えるんだ。そんなものは迷妄にすぎない。
 よし、では今日の話はこれで終わる。頑張って修行しなさい。