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◆90/12/10 阿蘇・シャンバラ精舎
三つの条件、三つの教科書----義・法・詞と論・経・律

 人は必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けらんない。実はね、これは、前回話したかな、信徒の奥さんがわき腹の動脈を切って死んだという話は。そのときになした瞑想がツァンダリーの瞑想なんだよ。ツァンダリーのポワなんだね。ということは、君たちがまず心を入れ替え、教学し、瞑想し、そしてツァンダリーの瞑想を行ない、グルを観想することによって、少なくとも人間界へ生まれ変われるよという条件が、今回の件ではっきりした、ということはいえると思う。
 じゃあだ、君たちに聞こう。夫婦がいると。例えば妻がいると。夫がいると。そしてグルがいると。そしてグルよりも妻や夫に対して心が向かっている場合、そこで死んだ場合、その魂は救済されると思いますか、されないと思いますか。----ところが、それが平気でまかり通る、シャンバラ精舎なんだよ。どうですか、君たち。
 これは、結論から言うと、出家してはいけない人が出家してるってことが第一。第二は、出家した人に対してきちんと道を説くべき師、あるいはスワミの教学不足、瞑想不足、救済に対する意識の不足、これが原因してる。どうだこれは。
 ではそれはどのようにしたら、正しい方向に、この船は向かうんだろうか。正しい方向に、人間界、憤怒天、戯忘天、そして梵衆天、梵輔天、大梵天、ね、そして光音天をぶち抜き、浄天をぶち抜き、そして色究竟天へと至る道、ま、色界、十七色界といわれてるけど、これをぶち抜いて、そして四無色界をぶち抜いて、どのようにしたら、最高のかの岸であるマハー・ニルヴァーナに到達することができるんだろうか、どうだ君たち。----そうだ。それは個々、教学し、瞑想し、そして功徳を積む、これしかないんじゃないか、どうだ。
(一同)はい。
(尊師)真理の教えというものには、三つの条件、そして、三つの教科書が必要である。この三つの条件とは何かというと、義・法・詞といわれる三つである。
 では一体この義とは何であろうかと。ね、君たち。この義とは何か。この義とはね、道しるべみたいなもんなんだよ。例えば、この肉体がある。この肉体は煩悩を表現するための、それと同時に、苦しみを表現するための肉体である。これどうだ? しかし、その肉体を変化させ、神秘的な世界への入り口へと変えていくと。ね。そして、神通の門に変えていくと。そして、それを一つずつ、そのポイントポイントを示す、これが義です。これ義は義理の義と書くんだけどね。
 例えば例を挙げるならば、バルドのヨーガ、夢見のヨーガ、幻身のヨーガ、ね、そして、光のヨーガ、ポワといったかたちの道筋の説明、これが義です。
 それともう一つ、法、ダルマというものがある。このダルマとは何かというと、これは分別、分別を説くものです。例えば夫婦関係があると。最高に素晴らしい夫婦関係は、互いが互いを求め合い、そして、高い世界へといざない合うような夫婦であると。ね。次に素晴らしい夫婦は、一方が高い世界をいざなうと。もう一方はそれにひたすらついてくる夫婦であると。ね。第三番目、これは普通の夫婦は、互いに求め合うが向上がないと。これは三番目の夫婦であると。第四番目は、一方が下に引っ張り合い、ね、引っ張り降ろそうとすると。もう一方はそれに必死に耐えている夫婦関係であると。そして最後に最も悪いのは両方で、下向しましょうよという夫婦関係、これは間違いなく来世、逆縁の偽として生まれ変わり、苦しみの生を送ることになります。
 こういう、例えば夫婦≠ニいう言葉に対して、こういうパート分けがあるんだよという教え、これが経です。ね。
 例えば、在家の布施には八つあってと。ね。第一はこの人間界で成功するための布施と。第二段階では、四天王衆天へ至って幸福になるための布施と。第三段階は三十三天へ生まれ変わり、幸福になる布施と。第四は、夜摩天へ生まれ変わり、幸福になる布施と。第五は、覩史多天へ生まれ変わり幸福になる布施と。第六は楽変化天へ生まれ変わり幸福になる布施と。第七は、他化自在天へ生まれ変わり幸福になる布施と。そして第八は、梵衆天へ生まれ変わり幸福になる布施と。これが在家の八つの布施であると。
 こういうことを分別といいます。つまり布施といってもそういう段階があるんだよと。ね。
 例えば布施には、大きく分けて二つあると。一つは聖なる八支の道に対して布施をする場合と。もう一つは、正しくない八支の道を行じてる者に対して布施をする、この二つのパートがあると。ね。こういうものがダルマ、法です。
 そしてもう一つ、詞というのは、これは、ごんべんに司と書く、要するに詞章の詞だね。例えば、「ホー、湖面に映る虚像のような様々な幻影に……」ね、というような詞章、これ何を意味してるかというと、要するに乗り物を意味してます。つまり、一番目の義は地図。二番目の法は、そのポイントポイントにおける、まあ、問題の解決。そして三番日の詞は、これは乗り物、つまりこの岸からかの岸へ到達するためには、その詞が必要なんだよということなんだね。もちろんマントラもこの詞に入ります。
 そしてこれはなんと、原始仏教はヒナヤーナ仏教であるという日本の考え方に反して、例えば、ウッパラヴァンナー、マハー・ケイマ等がはっきりとその詩で述べてると。ということは、原始仏教の真実は何かというと、今残っている原始仏教といわれてるものはヒナヤーナだが、本質は、タントラ・ヴァジラヤーナであったということがいえる。というよりも仏教にもし詞というものが存在しなければ、つまりマントラが存在しなければ、彼岸へ到達できないんだということを意味してると。
 しかもその詞は、例えば、「オーム アー フーム ヴァジラ ナマ ヴァジラ シヴァヤ」こういう感じのものではなく、「金剛心を持ってグルとシヴァ大神に帰依します」という、しっかりと心に理解を根づかせるような詞であると。ね。
 もう一つの三つの教本、三つの教科書とは何かといったら、これは論・経・律という三部だね。論とは何かというと、ね、要するに先程言った、義を裏づけるようなもんで、このステージではこういう経験がある----例えば、八勝処ではこういう経験がある。例えば、ね、四通----地温・水遍・火遍・風遍・空遍、ね、こういう、四遍ではこういう経験があると。こういう状態を何というと。ね。例えば、頭陀支とはどういうものであると。ね。頭陀の行とはどういうものであると。これを論といいます。
 そして経というのは、先程言った法、ダンマのこと。これをしっかりと教えとして体系づけたもの、これが経です。それはあなた方の持っている例えば『真理相応』『預流相応』、ね、こういうものがその経に入ります。
 そして律というのは何かというと、これは律品といって、三百とも四百ともいわれてる戒律の本があるわけだけど、どのようなかたちでこの戒律が成立したかというお経があります。これを律といいます。この三部が成立して初めて真理の教えということができます。ね。
 わたしたちは苦しみの集まりの中に存在している。それは今、あなた方も知ってるとおり、修行すると苦しいと。あるいはワークをすると苦しいと。あるいは愛する妻がそこにいて、性欲が高まって、その煩悩を満足させられないと苦しいと。あるいはこの中に、かなりいるみたいだが、戒律を破って、それがグルに対してザンゲできないと苦しいと。すべては苦しみであると。
 そしてそれは、今心の問題を言ったが、実際に例えば、ねえ、年を取り、例えば足が痛くなる、目が見えなくなる、耳が聞こえなくなるといったような苦しみの蘊、苦しみの集まり、ね、同じように、意志においても目的を達成したくて達成できない状態で挫折してしまう。このような苦しみの蘊、五蘊を止滅し----止滅というのは、ね、deathではなくて、stopだね。要するに止めてしまうと。止滅し、そして、仏陀の身体、仏陀の心、ね、仏陀の意志、仏陀の意識をつくり上げていくということ、これが修行です。
 わたしは、ま、実は、サマナに言えないヴィジョンをいくつか知ってると。それは近々、おそらく現象化するでしょう。そして今、心の弱い人たちが考えているような世の中、つまり常の世の中ではなくなると、わたしはわたしの経験、未来へ飛んだ確信から、それを信じています。
 しかしたとえ、それが起きないにしろ、起きたにしろ、そんなことはどうでもいい。それはなぜだ、みんな?----人は必ず死ぬ。そして死は必ず生ってくる。それが、三年後か十年後かあるいは二十年後かわからないけども襲ってくる。そうだね。
(一同)はい。
(尊師)それでそのための対策は、その瞬間に練ろうとしても練られるもんじゃないよね、どうだそれは?
(一同)はい。
(尊師)例えばだ。こういう経験がある。これは、マハームドラーに近い、ね、わたしのある弟子の体験だが、近ごろわたしの周りがどうもブルーに光ってるんですよって。それはねって。君が今、人間界のバルドを経験してるからであると。そうなんですよって。それはわかりましたと。なぜかというと、近ごろ、友人のこと、知人のことがね、思い浮かぶんですよって。あの人はどうしてるのかな、この人はどうしてるのかなと。
 つまり彼は必死に修行し、そして自分のいろんな煩悩、エゴを捨てて、グルに帰依しようと努力し、人間界のバルドを経験してるわけだね。しかもそれを生きてるこの、ね、生活している目と同時に経験してるわけだ。ま、おそらくこれは次のグループ、ま、今年の終わりか来年の頭ぐらいに成就するマハームドラーのメンバーの一人に入るだろう。
 このようなかたちで確実にわたしの弟子は、真面目に戒律を守り修行をしようとしている弟子は、経典どおりの経験をし、そしてバルドを経験し、輪廻転生の選択を誤らないように進んでいっている。どうですか、君たち。君たちは今何を目標に生きたらいいか。それは真実を知ることではないか、----どうだそれは。
(一同)はい。
(尊師)それは、だれが教えてくれるのか。確かに経典がありグルがいる。しかしそれは、最終的には君たちが経験をしなければならないことじゃないのか、どうだ。
(一同)はい。
(尊師)では、だれが努力をすればいいのか。それはグルか? それとも周りの者か?
(一同)自分です。
(尊師)それは自分たちが経験をしなければならないこと、そうだね。
(一同)はい。
(尊師)今まさにオウム真理教は、ね、ヒナヤーナの道を歩いてるといわざるを得ない。それは、他の苦しみを喜びとせず、自分の苦しみすら克服できない者の集団だからである、そうだな。
(一同)はい。
(尊師)それに対しては、ひたすら自己と闘い、自分の苦しみを喜びとし、他の苦しみを苦しみとするという生き方をしなければならない。そうだな。
(一同)はい。
(尊師)ではそのためには、人間とは何か、魂とは何か、修行とは何か、菩薩とは何か、それに対して全力でそれを追求し、答えを見つけなければならない、そうだな。
(一同)はい。
(尊師)そして、それは最終的には、だれのための実践だ?
(一同)自分です。
(尊師)未来において苦しまなければならない苦しみ、これを克服すること、それが菩薩の修行だね。そうだね。
(一同)はい。
(尊師)人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けらんない。いかに愛する者がそこに存在したとしても、その愛する者と永遠に輪廻転生を繰り返すことはできない、そうだね。
(一同)はい。
(尊師)では、どのようにしたら本当に幸福になるのか。どのようにしたら本当に自由になるのか。そのためには、どうだ、日々の生活において教学をし、瞑想をし、功徳を積む。これ以外にない。どうだ。
(一同)はい。
(尊師)オウム真理教は、お布施によって成り立ってる教団である。そうだね。
(一同)はい。
(尊師)お布施ということは、徳の低い者が徳の高い者に供養する、それによって成り立ってる教団である、そうだね。だとしたら出家したならばどうだ、徳を積んで高くならなきゃならないのか、それとも低くていいのか?
(一同答える)
(尊師)もしそのバランスが崩れたらどうなる?----そうだ。供養が成り立たないということは、今のような現象が起きる。社会に叩かれ、ね、そして、新しく出家した者が大いに揺れると。これは上にいる者が徳がないからである。
 昨年の七月、六月だね、正確に言うと。……六月から出家した人は、特にそれを意識しなさい。なぜならばそれまではオウム真理教は全く、社会に叩かれたことのない教団だったからである。自分自身の徳を見つめ、もし悪業があればそれをザンゲし、積める徳であれば喜んでその徳を積む。そして、偉大な菩薩として、未来際において大乗の仏陀として転生できるように全力で修行してほしい。いいね。
(一同)はい。
(尊師)はい、ではそれでは、大乗の発願、……

 最後に、ちょっと難しい説法をしよう。
 ここに、恋人でもいい夫婦でもいい、ね、カップルがいたとしよう。ここに、関係のない異性がいたとしようね、いいですか。この夫婦、この夫婦は当然セックスをし、あるいは恋人はセックスをし、一緒に食事を食べ、会話をし、そういうデータがお互いに混ざってたとしようじゃないか。ところがこの関係のない異性は、そういうのはなかったと。ね、いいですか。するとだ、例えば、夫が妻の涙を見たとき、実は、ね、妻に対して夫はどういう心が生起するかと。ね。今まで、過去においてお付き合いしてきた妻の涙が一気に生起すると。これを生起というんだよ。
 ところがだよ、関係のない、ここに異性がいたとして、涙を見たら、「あ、この人が泣いている」と、ここで終わってしまう。何を言いたけかというと、ベースにどういうデータが入ってるかで、同じ現象を見ても心の働きが違うんだということ。例えば、いいですか、風呂上がりの、ね、妻の髪の毛を見たと。例えばその状態でよくセックスをしていたら、その夫にはパッと、性的イメージがわきます。そして、無性に性欲が出てセックスがしたくなると。ところが一方、全くデータの入ってない異性関係においては、「あ、あの異性が髪の毛を洗っている」というデータしか出てこないと。
 そして、それを法といいます。ダルマといいます。ダルマというのは、真理という意味ではありません。ダルマというのは、その世界に存在している観念、その世界に存在している考え方、これをダルマといいます。
 例えば逆に、ね、こういう話があると。ひたすら経典を読み、瞑想してる人がいて、例えば「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」というマントラを百万回唱えたとしましょう。
 この人は、自分に苦しみがあるとき、そのマントラが浮いてきます。「自己の苦しみを喜び、これは喜びなんだ」と。あるいは、自分の周りで、本当に苦しんでる人がいたら、それを真理にのっとり考え、それを自分の苦しみにしたいなと考えるようになります。これも、ダルマです。
 そして、ね、人間界のダルマというのは、先程言った例えば、ね、夫婦的な考え方。あるいは動物界のダルマというのは、例えば弱肉強食、ね、これは習性としてもう、弱い動物は強い動物が食べるという習性があるわけです。----そうだね、ダルマってのは言い方を換えれば習性といってもいいかもしれません。そして、餓鬼の世界においては、とにかく独占すると。地獄の世界においては、悪業の果報である、そこには苦しみしか存在しないと。
 ではだ。例えばここに夫婦があって、その夫婦の、そういう状態にできるだけ接しないようにし、経典を読み、何が正しいか何が正しくないかを検討し、日々生活を送っている魂がいたとしよう。この魂は、ね、在家のときと比べて、どうですか心は。妻から離れると思いますか、離れないと思いますか。そして解脱へ向かうと思いますか、向かわないと思いますか。……ではそうではなくて、例えば教団のいろんな矛盾点を夫婦でお互いに話し合い、そして、ね、戒律を破り、愛着し、貪り合い、ね、こういう状態で進んでいった場合どうですか? これは、解脱へ向かう道だと思いますか、それとも下向へ向かう道だと思いますか。
(一同)下向……
(尊師)つまり、仏教的見地から立つと、奇跡というのは起きないということなんだね。何かというと、その人の修習したもの、それは、この現在、現時点だけではなくて、過去からの大きな流れにおいて、ね、その人の修習したものだけが現象化すると。ということは、わたしたちは何を実践しなければなりませんか? 真理を学び、自己の心の煩悩を分析し、それを落とすと。じゃないか? そして、マントラを唱え、神のデータをどんどん入れていくと。ではないか? どうですか。
 そして今まさに、君たちは、その実践できる場にいます。これを生かせるかどうかは、個々が個々にいい意味での法友----もちろん、真の法友に君たちはなれないわけだけども----君たちの法友はただ一人、わたししかいません----なれないわけだけども、真の法友になるように努力し、未来において、本当の意味での真の法友、サーリプッタ、マハーモッガッラーナ、マハー・ケイマ、ね、ウッパラヴァンナーのような素晴らしい弟子として、あるいは素晴らしい成就者として救済活動を行なってください。いいね。
(一同)はい!
 はい、それでは今日の講話これで終わります。