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◆90/11/22 阿蘇・シャンバラ精舎
修行者としての意識と出家の目的

 君たちの教えの根本は、もちろんシヴァ大神、言い方を換えればわたしである。そして君たちの言葉の背景にあるものは、それはわたしの法であり、真理だ。いいか。
(一同)はい。
 だとするならば、真理を学び、真理のデータをどんどん入れることが、君たちの日々の生活であり修行じゃないのか、どうだ。
(一同)はい。
 じゃあ、それを入れないで、ワークをして、「あー疲れた、ラーメン食おうや、そば食おうや、ね、あそこの何とかおいしいぞ」という----な、X----そういう生活が、一体おまえのどこの蘊、五蘊を変えることになるか、考えてみろ、どうだ。それは結局、日雇いの労働やってる者が、「疲れた、酒飲みたい、めし食いたい」と同じじゃないか。どうだ。しかも一方は戒律的規範がない。もう一方は戒律的規範がある。そうなるとどうなるか。心は小さくなるか、大きくなるか。
 わたしが今まで君たちに手を出さなかった理由というのは、そこまでわたしのエネルギーが回復してなかったからだ。まあ君たちは一連の報道を見てる者もいるだろうから、理解してきてると思うけど、わたしのエネルギーは少しずつ少しずつ回復してきてる。というよりも、自己の瞑想よりも君たちに向かい出してると言った方が正しい。わたしは今の環境の中でも、八時間から十時間の瞑想を行なってる。だったらわたしができるのに君たちができないっておかしいな、どうだそれは。
(一同)はい。
 例えば、とっくに成就していいはずのドクターのH、あるいはS、この辺がまだ成就してない。どうなってんだ、一体。真剣に修行してんのか二人は。どうだ。限界までやってんのか、どうだ。なぜやらないんだ。H君はどうだ。君たちが、この救済遅らしてるということをもう一回、自覚しなきゃいけない、いいな。
(一同)はい。
 自分たちで自分たちの、めしをちゃんと減らして、できるだけ食わんようにして、そして、教学をめしとしろ、いいな。
(一同)はい。
 一つ医学的にはっきりしてることがある。それは、食べなければ胃袋は小さくなり、それに慣れるってことだ。食べれば胃袋は大きくなり、またそれに慣れるってことだ。これどうだ、S君。
 いいか。ここに赤・青・白という三つの色があったとしようじゃないか。小さいときから「赤はステキな色よ、赤はステキな色よ、青って暗いわねえ、青って暗いわねえ、白って味気がないわねえ」という教えを受けてた者がいたとしよう。もう一つは、ね、「白というものは、大変正当な色であると。赤っていうのは闘争の色であると。ね。青というのは、要するに情の色である」という教えを受けてた者がいたとしようじゃないか。前者は何色を選択するか。後者は何色を選択するか。前者は赤を選択し、後者は白を選択する。そうだな。そしてその選択の一つ一つが、その人の道を示すことになる、どうだそれは。つまり、Aは「自分の限界、まだ自分の限界ではない、まだ自分の限界ではない、もっともっと自分を自己開発するぞ、解脱するぞ、深い意識状態に入るぞ」と思いながらやってると。もう一方は「ああつらいなあ、食いたいなあ、寝たいなあ、疲れたなあ」と、これを思念してると----どうだ君たちは。AとBとで同じ結果が出ると思うか出ないと思うか。
 では、その違いは何から生じるんだ。それは欲如意足、つまり決定如意足で決まるんじゃないのか、どうだ。日々、「解脱するぞ、解脱するぞ、解脱するぞ、修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ」と言ってる者と、ね、「あれ食いたい。これ食いたい。あれ食いたい。女と遊びたい。楽したい。寝たい」と、言ってる者とどうだ、同じ結果が出るか出ないか。
 では、一体どうしたら、そういう聖なる流れに君たちが入っていけるだろうかと。どうだ。何を君たちが実践したら、そういう聖なる流れへ入っていけるだろうか。どうだ。どうだ。立って答えなさい、だれか。どうしたらグルの意思の実践ができるか。どのようにしたら意識できるか----そうだ、それでいい。あと時間があるときは「マハーヤーナ」を読むと。これが、まずワークをやる者の一つの修行であると。危険なワークをやってるときはそのときはしょうがないけど、そうじゃないときは、欲如意足、あるいは喜・軽安覚支等を聴きながら、データをできるだけ入れると。聴くだけじゃなくてそれを唱えながら行なうと。そして時間があれば、「マハーヤーナ」等の教学を行なうと。そうだね。あるいは、説法ビデオが絶えず流れてるみたいだから、説法ビデオを見ると。そうだね。
 では修行に入った者はどうしたらいいか。そうだね、どうしたら限界まで頑張れるかと思うか。一つの方法としてはザンキの念を持って修行する、これが一番ベストだと思います。つまり、一日の修行が終わるとき、あるいは修行の途中でもいいけど、「わたしはまだ限界までできない、わたしはまだ限界までできてない、わたしはもっと限界が出せるはずである。もっと全力を出せるはずである」という意識が、そこで出るかどうかで、すべては決まる。
 例えば、わたしはまあいろんな者と接するわけだけど、そこで当然否定的な想念が入ると。そうすると瞑想してると、わたしの意識状態というのは、一番深い意識状態にあるわけだから、その部分から感情のないデータが出てくるわけだね。「ああ、疲れたな」とか「ああ、修行やめたいな」とか「嫌だな」と。それに対して、出てきたときわたしは即座に瞑想を止めます。そしてそれについて考えると。「わたしは、疲れたと言ってるけど、これはわたしのデータだろうか、データじゃないんだろうか」と。「わたしは瞑想やめたいと言ってる。これは、わたしのデータだろうかデータじゃないんだろうか」と、ね。
 ところが、君たちは、初めは放っとくんじゃないかと思うねわたしは。「おなかすいたなあ」とそこで放っとくと。どうだ、A。そのうち耐えらんなくなってくる、どうだ。あるいはもっとひどいときは----なあ、X、「食いたいなあ、食いたいなあ、」という意識が出てくる、どうだ。
 わかるね、言ってることは。それを、例えば「食いたいな」と一回出てきたら、「本当に食いたいんだろうか」と。例えば、「食べる意義とは何だろうか。体にどういう影響が出るんだろうか。瞑想にどういう影響が出るんだろうか」という意識をして、即座に浮き上がってきた思念に対してつぶしていくという作業が必要である。わかるな。それがなせるかどうかだ、問題は。もし、自分自身に対して日々集中しているならばそれがなせるはずである。もし集中していなければなせないはずである。わかるか。ところがだよ、例えば、自分に煩悩があると、人から相談を受けると、するとその煩悩に感応してしまって、その流れに乗ってしまうと。ね。
 わたしはね、徳のないサマナが落ちることはやむなしと考えています。それはなぜかというと、修行には縁と徳が必要だからである。徳がなく縁がなければ、当然落ちなきゃなんない。それは仕方がないと。でも、それと同時に、多くの成就者が出てもいい環境づくりはしたはずであると。そこで成就者が出ないということは、いかに、このシャンバラ精舎が、シャンバラではなく、悪趣の精舎になってるかということの証明ではないかと思います。
 どうだ君たち。君たちの根本としてるものほ、飽食、惰眠じゃないか、どうだ。では飽食と惰眠で解脱ができるか、どうだ。
 法の実践者にとって、四つの預流支、つまりまず信を培うこと、教学すること、教学にのっとり考えること、そして、実践することというのは最も大切な土台である。
 それからもう一つ言っておきたいことがある。この中で、すでにもうヴァジラヤーナのザンゲに入っている人もいるかもしれない。わたしは、まだ、ヴァジラヤーナのザンゲをできないステージにあると。わたしというのは、ここにいる麻原彰晃である。わたしが今行なってるのは、ポアの瞑想である。それは、もっと別な言い方をすれば供養法の瞑想である。今やっとそれが五万回前後終わってきてる。だいたいこれは、わたしは十万回やる予定でいるから、あと数カ月かかるだろう。わたしは次のステップで、ヴァジラヤーナのザンゲをやりたいと思う。
 では一体わたしがなぜ今、そういうことを言ってんのかというと、何を言いたいのかというと、「技術ではないんだ」ということだね、瞑想というのは。例えばあなた方がやってるヴァジラヤーナのザンゲと、わたしのやるヴァジラヤーナのザンゲとでは、詞章の中身は同じでも、言葉は同じでも、その瞑想の深さが違うということなんだよ。わかりますか。それはちょうど集中してものを聴いているのと、それから集中しないで流してるのの違いだ。そして君たちには、多くの法というものを、わたしは与えています。
 実は、Aが勾留され、そして起訴され、この前接見に行ったとき、何か特殊な瞑想法はないかという伝言を受けてたから、わたしはAに対して、ヴァジラヤーナのザンゲをやんなさい言った。このヴァジラヤーナのザンゲというのは、みんなもよく知っている瞑想だ。そうだな。では、それに対して、なぜわたしはそれをやれと言ったかわかるか、君たちは。例えばあの瞑想は、本当は秘儀に属する。あの瞑想を例えば十万回唱えると、いろんな超常現象が出てくるはずだ。集中して、意味を考えながら速く速く唱えるとね。いろんな超常現象が出てくるはずなんだよ。それはこのポアの瞑想も同じだ。
 わたしのエネルギーが回復し、そして神秘的な力が戻りつつあるのも、この基本的なポアの瞑想なんだね。まあまあ君たちにはまだ、それを顕わしてないけども。供養法の瞑想なんだよ。もっと別の言い方をすれば、帰依マントラでも神秘的な力はつきます。心は安定します。ということは君たちは、多くの瞑想法を知ってるはずだよね、どうだ、それは。それを、しっかり食べてるか食べてないかは君たち次第だろ、どうだ。
 H君、一つ質問していいか。例えば、ここにご馳走があったとしようじゃないか。そのご馳走をほとんど噛まないで、胃袋に放り込んだとしよう。これは栄養になると思うか、ならないと思うか。体にとって負担はかかるかかからないか。だよね。じゃここにご馳走があって、それを真剣に噛みしめて食べたらどうだ。そうだよね、それと瞑想と同じなんだね。
 つまりどういうことかというと、そこに、瞑想という食事があると。その食事をしっかり噛みしめて食べれば、それはものすごいパワーになるわけだよ。それは例えば、マントラも同じだよ。例えばまあ、「オーム マニ ペメフーム」でも同じだしね。あるいは、「オン ダレ トゥダレ トゥレ スワハ」でもそうだし、あるいは「オウム アー フーム ヴァジラ ナマ シヴァヤ ヴァジラ ナマ ブッダヤ ヴァジラ ナマ グルヤ ヴァジラ ナマ サティアンヤ ヴァジラ ナマ タントラ・ヴァジラヤーナ ヤマ ニヤマヤ」、これでも同じだ。こういう君たちのよく知ってるマントラ、このよく知ってるマントラでも、ある一定の回数を超えてくると、それは力になるんだよ。じゃあそれはなぜだかわかるか君たち。
 例えばここにある人がいて、先程言ったとおり、赤は好きな色であると。黄色は嫌いな色であると。緑は好きでも嫌いでもない色であるという人がいたとしようじゃないか。この人に今度は逆に、「緑は好きだ緑は好きだ緑は好きだ」と、「赤は嫌いだ赤は嫌いだ」というのをね、十万回百万回唱えさしたとしよう。どうなると思うか君たちは。どうなると思うか。意識が変わって、緑が好きな色になると。赤は嫌いな色になると。
 同じように、マントラも同じだよね。例えば、「ヴァジラ ナマ シヴァヤ ヴァジラ ナマ ブッダヤ ヴァジラ ナマ グルヤ」とマントラ唱えてると----しかも例えばそのときに、ナマというのは帰依を意味してて、シヴァ大神に帰依をするんだということを意味してるとしようじゃないか。グルに帰依してるということを意味してると意識するじゃないか。あるいは仏陀に帰依してると意識するじゃないか。そ、どうなるかそうすると。その人の意識はどんどん変わってくる、そうだな。じゃあ、それが例えば百回、千回ぐらいで変わるか、どうだ。それが五万回、十万回と達成されていくうち変わっていくわけだよわ。そうでしょ。
 だからそこで出てくるのが、原則的に修習と離欲だよね。修習というのは何かというと、同じ瞑想を何回も何回もリピートすると。繰り返し繰り返し行なうということが修習であると。その修習の狙いというのは、それを自分の中にね、定着させるためのものなんだね。で、離欲というのは、逆に煩悩を薄めていって心を清澄にすると。ところが今ここにいる人たちは、修習もしない、離欲もないと。ね。わかるね。
(一同)はい。
 それから最後に、少し秘伝的な話をしよう。これは、わたしがこの前悟った内容なんだけど。オウム真理教の修行の根本的なマハームドラーという意味合い、これは結局、現象に対して、苦しみに対して耐える修行なんだなと。
 それはどういうことかというと、例えばプラーナーヤーマを行なうとき、どうだ、二分、三分と止めてるうちに苦しくならないか。なるよね。で、それでも、耐えて止めようとするよね。どうだ。これと例えば目の前に食事があって、その食事を少なくして食べないようにするときの苦しみとは同じだと思うか違うと思うか。同じだろ。じゃ、逮捕勾留されてて検察官に、あるいは警察にいろいろボロクソ言われると。それジーッと聞きながら耐えてると。これ同じだと思うか違うと思うか。同じだよね。で、あとグルに例えば叱られて、それじっと耐えて、聴いて、それについて考えると。これを同じだと思うか違うと思うか。これが、マハームドラーの修行の根本なんだよ。つまり、諸現象に対して耐えると。
 じゃ例えば、寒さがあってその寒さにジーッと耐えてると。どうだこれは。同じか違うか。で、限界に来たら、例えば洋服を着るとね。じゃあだよ、一方は限界まで耐えて、どうしても寒くなったら、その寒いからってパッと着ると。もう一方は、ああもう、寒いときはたくさん洋服を着るもんだと思い、着てると。これ同じだと思うか違うと思うか。そりゃ結局呼吸を止めて、できるだけ長く止めて、それ耐える訓練をしているものと、それから呼吸はするもんであるということで、一分間にまあ十回から十六回行なってる者との違いだな、どうだ。
 ということは、マハームドラーという言葉にしろ、あるいは他の修行法にしろ、結局は、堪忍、あるいは忍辱の修行であると、どうだ。そしてそれに到達した者のみが、本当の瞑想状態に入れるんだと、どうだそれは。そして、そういう条件に、今いるあなた方というのは、今はね----今まではその徳について、あるいは自分たちの転生について考えらんなかったから、間違った道を選択しようとしてたかもしれないけど、これからはしっかりと教学を背景として生きていけるんじゃないか、どうだそれは。
(一同)はい。
 そのための材料というのはそろってるんじゃないか、どうだ。
(一同)はい。
 そしてそれは、一人一人がしっかりと自覚することにより、達成されるんじゃないかどうだ。
(一同)はい。
 修行の大原則は、慚愧の念であるといわれています。慚愧というのは、今の自分は駄目なんだと、もっともっと自分を変えなきゃいけないんだと、自分を高い世界に導かなきゃなんないんだという、そういう心を内側に対して向け、外側に対して向けることである。そして、修行を完成するためには、善友と交われといわれています。善友という、ここでいう善友というのは何かというと、法の体現者と交われと。つまり、君たちには、ここにグル麻原彰晃がいます。だからできるだけ、その法を聴き、その法にのっとり、その法を友とし、考え、実践することを、今日これから、君たち一人一人誓ってほしいと思います。いいね。
(一同)はい。
 もう一度言うよ。何のための出家なのか。君たちは、スーパーネーチャーになるための、スーパーヒューメンになるための出家であるということを自覚しなきゃなんない。そうだね。
(一同)はい。
 何のための出家なのか、解脱するための出家であるということを意識しなきゃなんない。そうだね。
(一同)はいっ。
 何のための出家なのか、深い深い悟りに到達するための出家であるということを自覚しなきゃなんない。そうだね。
(一同)はい。
 何のための出家なのか、大いなる神通、大いなる神秘的な力を得るための出家であるということを自覚していかなきゃなんない、そうだね。
(一同)はい。
 何のための出家なのか、大いなる徳を得るための、そして来世高い世界へ生まれ変わるための、いや、たとえ人間界に生まれ変わったとしても、偉大なる菩薩になるための出家であるということを自覚しなきゃなんない。そうだね。
(一同)はい。
 わたしは、月に二度ほどは、ここで「ポアの集い」をやりたいと考えています。でまあ、月曜日来る予定だったんだけど、二日遅れてしまった。わたしが「ポアの集い」と考えてるのは、わかるな(笑)。次は「ポアの集い」ではなく、特別解脱講習会にしようじゃないか。
(一同)はい。
 いいね(笑)。
(一同)はい。
 そのためには君たちが、解脱・悟りを意識するということ、これは前提条件になります。いいね。
(一同)はい。
 はい、では今日の講話はこれで終わりにします。

 やはり「ポアの集い」だね。その理由は、グルの詞章の前に詞章は唱えないということが原則これは信徒でも知ってる内容だけど、もう先に唱えた人たちがいます。ということは、意識がいかに下がってるかもう一回自覚する必要がある。いいな。
(一同)はい。
 ホー湖面に映る、いくぞ、
----大乗の発願・苦の詞章・タントラ・ヴァジラヤーナの発願・ヴァジラヤーナのザンゲ----これは、何人ぐらい知ってるんだ。ん。何人ぐらい知ってる、ほとんど知ってるか。で、今みたいな唱え方してる人いるか。君たちはこうだろ、「オ・ウ・ム・ア・フーム、金剛心をもって、グルとシヴァ大神に帰依いたします」でしょ、違うか。これはもうマントラだからね、マントラというのは、ね、秘密の言葉という意味なんだよ。そして、本来はその詞章の内容を知って唱えた方が何百倍も強いんだね。だから、君たちの知ってるこの「オーム……(ヴァジラヤーナのザンゲの詞章、最初の三行)」----これはマントラなんです。で、こういう感じで、すべての詞章を唱えられるようになるまで、つまり、もう潜在意識で唱えられるようになるまで訓練しなさい、いいね。