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◆88/2/20 世田谷道場
帰依----明け渡すこと

(最初テープ切れ)……をしなければならない道は最終的にはただ一つしかない。それはマハーヤーナの終極だ。もし、真理の終極がマハーヤーナの終極だとしたら、それは当然の答えとなろう。では一体、マハーヤーナの最終地点に到達するための道、これをだれが知っているか。そしてそれをだれが教えるか、そしてそれをだれが実践するか、あなた方はまず考えなければならない。
 もしあなた方が、三つの帰依心の中で、最も低い次元の帰依をあなた方が持っていたとしたならば、あなた方がマハーヤーナに到達する道は開かれないだろう。三つの帰依心とは、まず三悪趣には生まれたくない、わたしは地獄には生まれたくない、動物には生まれたくない、あるいは餓鬼には生まれたくない、という気持ちで修行しているんだったならば、あなた方は次の生で、六道の中で人間界以上の転生をすることになるだろう。しかし、これは閉鎖された欲界の中の転生にすぎない。
 もしあなた方が、中くらいの帰依心を持っていたならば、----帰依心というのは信のことだね、これは----あなた方だけが個人的な終極の状態、つまりニルヴァーナに到達することができるだろう。しかしそれはマハーヤーナではない。マハーヤーナの終極ではない。他人がこの欲の世界を滅し、それからアストラルの世界を滅し、そしてコーザルの世界で三グナの干渉を受けない状態を作った。それにすぎないわけだ。
 そして、もしあなた方が最高の帰依の心を持っていたならば、最高の信の心を持っていたならば、あなた方はいずれマハーヤーナの最終地点に到達するだろう。マハーヤーナの最終地点というものは、自己の苦悩を喜びとし他の苦悩を悲しみとし、そして四つの根源的な智慧、----つまり四つの無量心だ----四つの無量心によって、衆生に哀れみを持ち、衆生を済度し、すべての人が最終地点であるマハーヤーナに到達するためのだ、----いいか、到達するための修行に勧む、それが最高の帰依の状態である。
 そして、もちろんわたしはすべてを知っているわけだから、ね、----今日も滅想受相まで入って、それから帰ってきた----すべてを知っているわけだから、あなた方に道を指し示すことはできる。
 しかしだ。例えば、マハーヤーナの最終地点をだ、大阪だとしようではないか、ね。あなた方はわたしに近づいてきてこう聞くだろう。「大阪に行く道には、どのようにしたらよろしいでしょうか」と。わたしは答えるであろう、そのときに。「まず、東名高速に乗りなさいと。そして、神奈川県を過ぎ、静岡県を過ぎ、そして愛知県を過ぎ、岐阜県を過ぎ、----一部滋賀県が入ってるけども----滋賀県を過ぎるんだよと。そして、もう京都からはすぐであると。京都からは一時間、あるいは二時間ぐらいのもんである」と。そういう道を、わたしはあなた方に答えるであろう。
 ところがもし、あなた方が東名高速に乗らないでだ、----いいか。東名高速に乗らないで、例えば、関越自動車道に乗ったらどこへ着くだろうか。答えてごらんなさい。どこへ着きますか----どこへ着きますか。
(信徒)新潟。
(尊師)そうですね。新潟へ着くと。ではだ。あるわたしの弟子、あるいは会員の人がわたしのとこに寄ってきて、「大阪へ行く道はどこだ」と問うたとしようではないか。そのときわたしが、「まず東名に乗りなさいと。そして神奈川を過ぎ、静岡を過ぎ、愛知を過ぎ、岐阜を過ぎ、滋賀を過ぎ、京都を過ぎて、そしたらもうすぐ大阪へ到達しますよ」と。「わかりました」と。そして、その人がそのとおりの道を進んだならばその人はどこへ着くだろうか ----どこへ着きますか。
(信徒)大阪。
(尊師)大阪へ着きます。そのとおりだね。これがグルと弟子との関係であるし、これが成就者とボーディサットヴァの関係だ。
 では、わたしたちがそのマハーヤーナの最終地点に到達するためにだ。最も障擬となるものは何であろうか。
 もし、修行者が現世的な利益、あるいは損得の得にこだわっていたならば、あるいは人から物を施されることによって、あるいは人から称賛されることによって、ね、心が動いたならば、それはわたしたちが求めているニルヴァーナにすら到達できないだろう。
 釈迦牟尼の弟子の中でデーヴァダッタという者がいた。デーヴァダッタは最も真面目な弟子の一人であった。食事もきちんと菜食をし、戒律を守り----ね。しかし、あまりにも戒というものに縛られすぎたがために、心の自然な働き、心の本当の働きというものを阻害してしまったんだ。しかし、当然戒を守り、そして厳しい修行をし、勉学に励んだならばだ、それは相当の力というものを得ることができるだろう。そして、彼は釈迦牟尼を批判するようになった。そして、そのころインドの国の王子だった者から大変な供養を受けるようになったわけだ。
 そのころ、釈迦牟尼の教団には二つのタイプの弟子がいたわけだ。一つは最終的な安穏の状態、ニルヴァーナに、あるいは釈迦牟尼のお手伝いをするために、という純粋な気持ちで弟子入りをした者。あるいは、教団に属していれば飯が食えるからということでね、楽をして飯が食えるからということで釈迦牟尼の弟子になった者----この二つのタイプがいたわけだ。そして後者のタイプは、つまり、現世的な欲望の切れていなかった者たちはデーヴァダッタについていった。なんとそれが半分以上だそうだ。
 その王子、アジャータサットゥの供養を受け続けたデーヴァダッタは、どんどん慢の心が出てきた。慢心の心が出てきた。そして、その慢心のために彼は、彼のステージというものを崩壊させてしまったんだね。落っこったわけだ、要するに。
 ちょうどそれを、その時期を見計らっていた釈迦牟尼の二大弟子----あなた方もよく知っているサーリプッタ、それからマハーモッガラーナ、この二人が、デーヴァダッタのもとへ行って、デーヴァダッタについてた信徒、----もともと釈迦牟尼の弟子だけども----それをすべてバックさせたと。それで教団の分裂は回避したということになっている。
 では一体何ゆえにだ----いいか、何ゆえにデーヴァダッタはつぶれたんだということになろう。それは、彼がまず名声というもの、名誉というものに引っかかったからだ。次は、供養というものに引っかかったからだ。これはわたしがよく説くところだね。供養を受けると相手のカルマを受けると。そして、利益のために宗教というものをもてあそんだからだ。
 あなた方がもし最終の地点、マハー・ヤーナの終極に到達するための道、それを実践したいと考えるなら、まずわたしに明け渡さなければならない。何を明け渡すか----。
 わたしたちは、けがれた、汚れた白い布である。もしだ、ここに汚れた白い布があったとしようではないか。その白い布を黄色、あるいはブルー、あるいは赤、あるいは青、あるいは紫、あるいはピンクに染めたとしよう。そうしたならばこの布はきれいな仕上がりをするだろうか。どうかな。そうだね、きれいな仕上がりはしまい。ではもしだ、染める前にきれいに洗ったのち、きれいに清めたのちだ。それを黄色、青、赤、緑、紫、ピンクに染めたとしよう。そうしたらそれは、きれいに仕上がるであろうか----。どうですか。
(信徒)仕上がります。
 そのとおりです。
 これはあなた方がわたしに明け渡す≠ニいうものは、あなた方が謙虚な気持ち、ね----謙虚な気持ちというのは、先程わたしのいった、わたしたちの求めてるものは下品なものではないんだと。わたしたちの求めているものは粗雑なものではないんだと。わたしたちの求めているものは、一時的にわたしたちを楽しませてくれて、そして、その背景にある大きな苦をね、しょうためのものではないんだということをだ、もしあなた方が、理解したならば、そのときあなた方の心の内側にある、本当の清らかな部分がだ、にじみ出てこよう。そして、それがあなた方の心を浄化し、きれいな真っ白な布にあなた方を仕上げてくれるはずだ。
 実は、「ボーディサットヴァ」のリーダーからこういう話を聞いた。Kさんが今、大変な苦境に追い込まれていると。例えば、オウムのボーディサットヴァの仕事を一生懸命やっているから、夜、夫に家に入れてもらえないようなことがあると。そこまでやる必要はないんではないかと。わたしはくそったれと思った、そんときに。何がくそったれかわかるか。今、Kさんが歩いてる道は、これは仏陀になるための道だ。わたしが、同じように九年間、この現象の世界においてのたうち回ったそのプロセスを彼女は歩いている。だからわたしは彼女を大変尊敬している。いずれ、彼女は今生では無理かもしれないけども、今から何生か先には、必ずや大乗の偉大なる仏陀になるんではないかとそう考えている。ところがわたしに言わせると、「ボーディサットヴァ」のリーダーの徳が足りないんだな、それは。だから見方が凡夫的な見方しかできない。
 もし、わたしたちが今、日本の他の宗教と同じレベルに落ちるんだったら、わたしはここにはいない。なぜならば、わたしが普段行なっていることを見たらよろしい。わたしの着ているものは一体何だ。わたしの食べてるものは一体何だ。それは、わたしのあなた方に対する最高のプレゼントではないか、それが。そしてそれを見習って謙虚に生きる。そしてひたむきに修行する。これがあなた方ボーディサットヴァの、ただ一つの道ではないか。
 それを、けがれ果てた心によって正しく真理を見ることができないで、今、まさに真理を実践しようとしている人に哀れみをかけ、その背景にある傲慢さというものを理解できない。今から何生、何十生後には、あなた方がKさんに救済されるかもしれないんだ。それはあなた方が、例えば釈迦牟尼の輪廻転生の話を説いた経典を読むならばよくわかることだ。どの救済者も最終地点に立つまでには、この現象界でのたうち回っているんだ。なぜのたうち回るか。それは、この世が苦だということを本当に理解できなければ、本当に自己の苦しみを理解できなければ、他の苦しみというものは理解できないんだ。
 もう一度、みんなで考え直さなければならない。何を考え直すんだ。それは、オウム真理教というものは最高の宗教であると。わたしたちを、マハーヤーナの最終地点に連れていくただ一つの真理であると。もちろん、最高のものを得るためには、それだけわたしたちに苦悩は降りかかってくるだろう。それだけ大変だろう。しかし、この道以外にわたしたちを最高の地点まで持っていく方法があるであろうか。それを、もう一度考えなければならない。
 そして、わたしたちの持っている下品な、卑しい、粗雑な心を一切捨て去り、最高究極の状態にわたしたちの魂を昇華しようではないか。わたしはあなた方に望む。目を見開いてほしい。真理に耳を傾けてほしい。
 ここに、一枚の大阪に至る地図があったとしよう。そして、わたしがもし、あなた方に京都から大阪に至る地図だけを渡したとしよう。あなた方は到達できるだろうか、その京都まで。もし、京都までの道をわたししか知らないとしたならば、あなた方は京都に到達できるだろうか。
 わたしはあなた方に、まず、東名に乗る道を与えなければならないと考えている。それが済んだ人には、次には名神での曲がり道で迷わないように詳しい地図を与えなければならないと考えている。そして、もしそれが冬場だったならば、もしその道が雪で通れなければ、迂回する道の地図をあなた方に与えなければならないと考えている。そして、最後に大阪市内へ至る道を与えなければならないと考えている。
 魂の終極、マハーヤーナの終極というものは大変な道のりだ。全身全霊を込めて修行に打ち込んでほしい。それではこれで、説法を終わる。