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◆90/7/8 富士山総本部
貪・瞋・癡の滅却----すべての魂の苦悩の滅却のために

 君たちは、オウム真理教のシャモンとして、自分は今救済の手伝いをしているんだと思って集っている人が多いかもしれない。しかし、これから君たちは、自分自身の意識の中で、この欲界・色界・無色界にある一切の苦しみを知り、そしてそれを背景として、すべての魂の苦悩の滅却のために立ち上がった魂であるというふうに意識しなければならない。そのためにはまず、自分の苦しみ、あるいは自分の煩悩を滅却しない限りどうしようもない。
 この現世に縛り付けている要素、それは何かといったら貪・瞋・癡である。例えば、おいしいものをたくさん食べたい。例えば、自分の好みの異性と貪りたい----例えば、これは貪だね。例えば、あの人が大嫌いだから、あの人をつぶしてやるために生きているんだとか。まあ、例えばこれは江川紹子さんなんかその典型かもしれないけども----これが瞋の代表的なものだ。あるいは、何だかわからないけれど生きていると----これは癡ですと。あるいは、野球が楽しいから生きていると----これも癡ですと。あるいは水泳が楽しいから生きていると----これも癡ですと。
 そして、その貪・貪・癡の裏側にあるもの、例えば、どんなに愛する異性がいたとしても、その異性と結婚し、そして死ぬと。例えば、自分が後に死ぬ場合、先に愛する異性が死んでくわけだから、当然そこでの苦しみというものは大変な苦しみだろう。あるいは、自分が先に死ぬ場合でも、後に置いていく異性のことを思いやって苦しまなきゃなんないから、同じように大変な苦しみだろう。あるいは、恋愛が途中で破れ、そして、その破れた恋愛の結果、自分の大好きだった異性が他の異性とくっつくと。それを見てやはり苦しまなきゃなんないと。あるいは、その人が大変美しい女性だとして、あるいは男性だとして、顔に大やけどを負ったと。そのときに自分の幻影が壊れ、苦しまなきゃなんないと。
 食べる物についても同じである。釈迦牟尼入滅のときのことを考えたらわかるとおり、例えば、食によって身を滅ぼす。今の修行もそうである。お腹がすいた、食べ過ぎる、コン眠に陥る。そして成就できないと。
 怒りについてはどうかというと、必要のないエネルギーを漏らさなければならない。それによって苦しみは増大する。----わたしは今生で貪・瞋・癡の限りを尽くしてきた。そして、例えばその瞋においては、怒るとものすごいエネルギー、熱エネルギーが放散され、その後がっくり疲れると。そういう経験をしてきた----この状態というのはまさに阿修羅だけどもね。
 そういうことからわかるとおり、貪の裏側には苦しみがあると。瞋の裏側にも苦しみがあると。癡の裏側にも苦しみがあるということがいえるだろう。そしてこの貪・瞋・癡を背景として、随煩悩が多数ある。その随煩悩を滅却すること、そしてこの世界ではない、----まあ、今、またわたしのエネルギーが回復し、そして神々の祝福が始まって、君たちの精神的、霊的ステージがどんどん向上し、上の大師方がどんどん修行するようになり、引っ張り上げるようになり、そして下の大師方も努力しようかなという状態になってきていると。そして、それより下のスワミ、あるいは新人シャモンに至っては、あ、これでやっとオウム真理教らしくなってきたと考えている人もいるかもしれない。
 そして、わたしたちが救済に成功するためには、わたしたちの精神的成熟、心の成熟、霊的成熟が不可欠なんだということを認識しなければならない。
 実は二千五百年前のお釈迦様の時代も、お釈迦様は弟子たちにこのように説いていらっしゃる。例えば、出家した者の関係者が、父親、母親、親戚、あるいは友人----経典では王族とかいろんなものが出てくるわけだけど、それはよしとして----たちが、おい、こら、何でお前そんな禿頭なんだと。そして、鉢を持ってうろうろしてるんだと。----凡夫にはそのようにしか見えないわけだね。そういう、禿頭になり、鉢を持ってうろうろしないで、ここに財産があるから、その財産を受けてね、楽しく暮らせばいいじゃないかと。現世にはいい女もいるし、いい男もいるし、うまいものもあるし、あるいは地位だって権力だって名誉だってあるじゃないかと。これは事実そういう経典群がいくつもあるということだ。
 そして、それに対してお釈迦様は、そういうものに惑わされないで、色界つまりアストラル世界、あるいは無色界つまりコーザル世界、あるいはそれを越えたマハー・ニルヴァーナの世界に到達するためには、君たちの心の中に念を具足しなければならないと。これこれをこのように行なえば、こういう苦しみが起きますよと。これこれをこのように行なえば苦しみは滅尽しますよと。これこれをこのように行なえば、二度とその苦しみに陥ることはありませんよと。正しく教養にのっとり世間を見なさいと。そして正しく思索し、正しい言葉を語り、そして、殺生、偸盗、邪淫を離れ、阿羅漢の状態、解脱の状態をこの世で示しつつ生きなさいよと。そして、その阿羅漢の状態を崩さないように記憶し、瞑想し、そしてそれを安定させなさいと。つまり、きちんとした教学、そして瞑想、そして日々の悪業をなさず善業をなすということ。そして、それをキープするための欲を持ち続けるということが必要であるといっていらっしゃるわけだ。いいですか。
 それで、君たち一人一人が自覚すること。今の、例えばマイトレーヤ大師、あるいはマハー・マーヤ大師、マハー・ケイマ大師のようにねえ、どんどんどんどん引っ張ってくれる大師が出てきてるから、これにならって成就したマンジュシュリー大師、それからM大師、阿羅漢の境地に一人一人と到達していってるから、後は君たちがしっかりと後追いをして、そして、自分の道は解脱することであると。成就することであると。そしてこの世の中を変えるためには、今のこの人間の欲望によって形成された社会の裏側にあるものを見抜き、それを暴き、そして君たち自体がそれを自分の中に体得し、それを回りにアピールし、そして変えていくしかない。
 落ちるものは落ちなさい。わたしが以前から「落ちる」という言葉を使っているのは仏典の言葉である。釈迦牟尼は「下向」という言葉を使っていらっしゃる。これはどういうことかというと、三悪趣に落ちるという意味だ。いいですか。
 心の中に貪り、嫌悪、この二つがあるもの。そして、必要のない約束を大切にし、あるいは、他の宗教で誓った誓いを守っている者。あるいは、この肉体がわたしであると、この感覚がわたしであると思っている者。あるいは不信を持っている者。真理など存在しないと、解脱など存在しないと思っている者。このような者たちは、地獄・餓鬼・動物に落ちるとお釈迦様は説いていらっしゃる。そして、わたしも同じ見解に立っている。
 わたしは君たちのグルである。そしてわたしは解脱を体現している。そしてわたしの高弟たちも、一つずつわたしの言っているステージを体現している。だとするならば、最終の解脱もあるし、逆の言い方をすれば、地獄もあるということを認識し、今日から心を改め、しっかりと修行をしなさい。いいね。
(一同)はい。
(尊師)修行はもちろん、他のためになさなければなんない。しかし、その本質は自己の心の解放である。それを忘れないようにしてしっかりと修行しなさい。いいね。
(一同)はい。
(尊師)もちろん、落ちるものに対して哀れみを垂れることは大切である。しかし、それはあくまでも教義にのっとった対応であって、それ以上の対応をしてはならない。いいね。わたしの言いたいことはわかるかな。よこしまなものの考え方によって、煩悩によって引っ張ってはならないと言っているんだ。わかるな。
(一同)はい。
(尊師)そしてこれから、法友が話す内容というのは教義にのっとった話をしなさい。いいね。
(一同)はい。
(尊師)返事が小さい!
(一同)はい。
(尊師)君たち一人一人が自覚を持ち、そして、この真理の光を強めるか弱めるか、それはこれから君たちがどれだけ努力できるかで決まる。いいな。
(一同)はい。
(尊師)本当に四無量心があるならば、煩悩で苦しんでいる者を見て、なんて哀れなんだろうと。なんて空しいんだろうと。この人は以前のわたしと同じであると。そして、この人は真理をいまだかつて知らないと。逆に煩悩を繰り返し繰り返し思い浮かべる修行をすることによって、その煩悩によって苦しんでいると。そして煩悩から出離する道を示してあげなさい。
 それから、これは大師に言っときたいことだが、信徒を出家させるときに味著だけを、つまりシャモンになったときの喜びだけを話してはならない。いいな。シャモン生活においては必ず味著、過患という二つがあるんだ。つまり修行の厳しさ、出家の厳しさというものがある。その厳しさと、それから解脱していくときの心の成熟、それに伴う世界の変化、そして来世の約束と、この両方を説いて出家させるようにしなさい。いいね。
(大師方)はい。
(尊師)心の弱い大師は味著しか説かない。喜びしか説かない。でも実はそうではない。そして、そんな甘いものでは、単にオウム真理教のシャモンの疲弊を招くだけだ。そういう出家者はいらない。逆に邪魔だ。救済の障害になる。いいな。落ちたい人間は落とせばいい。以上だ。