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◆90/2/20富士山総本部
修行と現世の選択

 今日はね、みんなに、大きな選択をしていただきたいと考えて、皆さんを、ね、ここに一同に集めました。その大きな選択とは何かと。それは、君たちがオウム真理教のシッシャとして、内弟子として、残って修行を続けるか続けないかと。で、もちろん、修行を続けない場合は、まあ、今のオウム真理教の、まあある程度の経済があるわけだけども、それをね、君たちにバックアップして、君たちが在家で生きていけるような状態のフォローをしようじゃないかと。
 というのはどういうことかというと、一連のマスコミ事件、まあそこに登場する内弟子、まあはっきりいってわたしは情けないと考えています。そして、本当に修行のする気持ちのない人は、やはり修行すべきではないと。というのは人生は一度しかない。人生は一度しかないとは何かというと----集中しろよ、ボーッとしないで----人生は一度しかないってのは何かというと、要するに、君たちの知っている人生というのは、死んだら終わりであると。その死後の世界が存在するかしないかというものは、わたしは経験的に知っているけども、そして経典によって知っているけども、君たちは知らないと。善業をなせばどうなるか、悪業をなせばどうなるか、ねたしは知っているけども、君たちは知らないと。そして、知らない者に対して、ね、強引な勧誘によって修行させ、結局それが一種の暴力として今のマスコミで取り上げられている。
 しかし、わたしは、あるいは、----まあ例えばポアの間に入れた人たちは、それを「暴力」として、それをなしたんではなくて、要するに愛によって、みんなに修行していただきたいと、ね、高い世界へ生まれ変わっていただきたいという気持ちのもとに、それがなされたと。ところがそうではなくて実際は、暴力として取り上げられていると。その問題だけではなくて、今後オウム真理教は真理だから、真理ということは社会的に叩かれなければならない。なぜならば今は不正、ね、正しくないものがはびこる世の中である。それに対してただ一つ正しいもの、真理というものが展開されちゃまずいわけだ。その真理というものに対して、いいかな、今の社会が叩くのは当然であると。
 ところが、君たちの心の中にも、その魔性、要するに正しくないもの、下劣なもの、こういうものを肯定する心の働きがあるだろう。そしてもし、それをよしと考えるならば、そういう生き方をしなさいと。なぜならばこれからのマスコミの攻勢というものは、もっともっと強くなるだろう。そしてもっともっと強くなるということは、もっともっと君たちの心を揺さぶるだろう。だとするならば、確信のあるとき、ね、だとするならば「オウムはまだ真理である」と。「しかし、もう自分はつぶれる」と、そう考えて、きちんと話し合いをして、内弟子をやめるということが良かろうとわたしは考えたわけだ。
 もともと、修行というものは、個の集合である。個の集合というのはどういうことかというと、ここにいるシッシャ一人一人が、それぞれステージを上げていく、これが修行である。ところが、ね、下劣な話をする人たちもいる。あるいは、綺語を話す人たちもいる。「あるいは悪口を話す人たちもいる。そして、お互いがお互いの不安定な要素を突つきあい、乱れ、落ちていく。
 人間の生は一生しかない。この生をジャンプ台にするのか、あるいは自分の持っている徳を消耗する生き方をするのか、それは君たち一人一人の選択である。それはわたしの選択ではない。そして、今回の選挙の敗北、これは実際ね、フジテレビの、まあインタビュアーが来たときに、「上の指示で来た」と。で、上が何て言ったかというと----T大師、何て言ったって言ってましたっけ?----「麻原先生が当選したらしい」と。これはおそらく出口調査だったんだと思う。出口調査というのは投票した人たちのね、調査をやったんだと思います。
 しかしだ。実際は、千数百票と。これは、だれも考えられなかった数字だ。わたしは、投票箱の入れ替えが起きたと考えています。そしてこれは、オウム真理教が反社会性なのか、あるいは今の警察を含めた国家に対して服従する組織なのかをテストする、一つの表現だと考えています。
 君たちは修行者である。だから徳がある。だから本来こういう現象が起きたらおかしいと考えるかもしれない。しかし徳というものは、どうだ、願望を成就させる要素があるのかないのか。----個々が、救済を考えないで、自己の煩悩、これをね、満足させようと意識したならば、どちらの方向に行くか。どうだ。----それが今の、オウム真理教だ。
 これは、はっきり言って麻原自身が悪い。それは、大師の教育、あるいは、シッシャの教育をなおざりにしたからだ。しかし、次に悪いのは大師である。大師というタイトルのもと、シッシャを教育しなければならない立場にあるにかかわらず、その煩悩を自分の内側にもあるということで肯定してしまった。そしてその次に悪いのは、先輩のシッシャである。後輩の、どんどん新人が入ってきて、それに対して何らアドバイスをすることのできないような無智であると! わたしは、今日を境にオウム真理教が崩壊しても構わないと考えています。つまり、この中で、本当に修行したいと、本当に救済をしたいんだと考える人だけが残ればいいと考えています。
 どんなに美しい人でも、あるいはどんなに、わたしみたいに醜い人でも、人間の生というものは、わずか八十年だ。そして、ラスト二十年ぐらいは、身体の筋肉が衰え、神経系統が弱り、ヨボヨボの人生しかない。つまり、正味人間として元気ハツラツに生きることができるのは、わずか六十年。そしてもうここにいる者たちは、もちろんゼロ歳時から、ねえ、そねを超えた人たちもいるだろうけども、平均をするならば三十数年、あるいは二十数年しか持っていない、持ち時間を。この時間を何に使うか、本当に自己を清めるために使うのか、自分の身を清めるために使うのか、それとも、前生からの、修行によって得た功徳を消耗するために使うのか、それは君たちの選択にかかっている。
 もう一度言うよ。わたしはオウム真理教が崩壊しても構わないと考えています。もしこのオウム真理教という大乗の船が救済というものを意識しないんだったら、それは崩壊すべきである。もし個々が、自己の内側のほんの少しの清らかな部分をもっと大きく大きく拡大しようとしないんだったら、オウム真理教は崩壊すべきである。
 オウム真理教の教えの中には、三乗が存在している。それは大乗、小乗、それからタントラ・ヴァジラヤーナ、秘密金剛乗だね。例えばこの、どれかの乗に本当に入り、自己を清めようと考えたならば、当然それに従い、自己のエゴを滅し、そして本当の意味での安定を得るべきである。人間の心の状態というのは、波にたとえることができる。喜び多き人生は、苦しみ多き人生を招くと。これはツァンダリーの経験がある者はわかるはずだ。クンダリニーが上昇して、上昇したら落ちるしかない。それを繰り返す。これが六道輪廻だ。しかしその状態がわからない無智の人、徳のない人は、修行をしないで、今持っている徳を使い、楽しむことも一つの道かもしれない。
 わたしは、今日これから、君たちにそれを選択させたいと考えています。わたしの言ってることはわかるね。
(一同)はい。
(尊師)最後につけ加えておきたいことがある。オウムは反社会、反国家である。なぜならば今はロッキードでもわかるとおり、リクルートでもわかるとおり、あるいはパチンコ疑惑でもわかるとおり、そういう人たちが社会を牛耳っている世の中である。そして、大企業の主たちも、同じように自己の利益のために働き、そして、自己の私腹を肥やし、餓鬼の世界・地獄の世界へと落ちていく。この反社会の中にあって、美しく咲く蓮華のように、ドブ川の中で美しく咲く蓮華のようにあり続けるためには、反社会でなければならない。よって国家、警祭、マスコミ、これすべて、これからも敵に回っていくだろう。
 実はわたしは、去年の、正確に言うと九月の終わりだったと記憶してるけども、グリーンクラフトで休んでるとき、サハスラーラから「ドン!」と、妙なエネルギーが入ってきた。そして、「イエス・キリストになれ」という言葉があった。これは何かというと、「さらし者になれ」って意味だね。それから『サンデー毎日』がスタートした。わたしはイエス・キリストをさらし者だと考えています。そして、そのとおり、さらし者になってきた。わたしの役目はさらし者だからそれでもいい。
 しかし、ね、この日本の社会にあって、ちゃんと生きていけて、普通の生活ができて、それで満足できる人たちは、そちらの生き方の方が実際に自己を満足させるんではないかと考えています。だからよく考えて選択をしなさい。いいね。(一同)はい!
(尊師)それから、個々の選択について、他の、大師あるいは弟子たちが、それを、選択を覆すようなことを言ってはいけない。なぜならば、自分の今の状態で決めなさいとわたしは言いたいからだ。いいね。