マイトレーヤ正大師特別寄稿 第39回
聖なるサンガの仕組みにすがれ
輪廻の絡みを断ち切るために

 今回は、聖なるサンガの大切さについて、皆さんがご存じの歌、「すがれサマナよ」を材料としてお話ししたいと思います。というのは、最近、性欲の破戒や、下向する人が、目に付くようになりました。下向だけでなく、サマナの信徒への降格、師の降格も発表されることになるでしょう。あるステージの高い方から、年の変わり目を挟んだ時期に多いという話も聞きましたが、とても残念なことです。
 しかし、今、どうしたらこれをなくすことができるのかを考えることは、今年の教団の目標である、聖なるサンガの再生において、非常に重要な示唆を与えてくれる側面もあり、神々の祝福の警告であるとも考えられます。
 なお、この歌の1番1番に関して、その意味合いを説明する説法もありますので、それも一緒に引用していくことにします。
歌詞1番
  苦しみに迷い 迷妄に迷い 無常の悲しみ 心を覆って
  生の喜び あくなき追求 輪廻の絡み 断ち切ることなく
  真理に出合い 無常の喜びを捨てた
  慈愛の心に すがりながら 自己を変える
  久遠の喜び得て 真実を極む
1番に関する説法
 いいかい、君たち。この1番の歌詞の意味合いは、君たちがこの人間の世界において「喜び」というものを追求する。しかしその喜びは、必ずその裏に「苦しみ」が存在してるんだということ。したがって、喜びに喜貪し、それを追い求めれば追い求めるほど、苦しみというものは大きくなるんだということ。したがって、もし本当に君たちが、つまり、ここにいるサマナ諸君が、真理に出合ったんだとしたら、その無常の喜びというものは当然放棄しなければならない。そして、その放棄によって、本当の幸福、本当の喜びが得られるんだね。

 サマナとは、そもそも、ビック、ビックニー、すなわち、向煩悩滅尽多学男女を目指さなくてはなりません。向煩悩滅尽多学男女の実践する、煩悩破壊の真理の法則の根本は、この説法にある、この喜びは無常であり、喜びの裏に苦しみがあり(苦楽表裏)、喜びを求めるほど、苦しみも大きくなるということですね。これは、真理の法則中の真理の法則であり、ビック、ビックニーの基本的な心構え、記憶修習の対象です。
 そして、アレフの出家教団は、今こそ、真の煩悩破壊への教団に再生されるべき時期に来ています。ですから、皆さんが、在家信徒ではなく、出家修行者・サマナとしての煩悩破壊の法則をしっかり教学してほしいと思います。そのために、新しく、「サマナ教学システム」ができることになっていますので、それを活用してしっかり修習してください。
歌詞2番
  欲望に迷い 愛著に迷い 無常の苦しみ 心を閉ざして
  生の幸せ あくなき追求 輪廻の絡み 断ち切ることなく
  真理に出合い 無常の喜びを捨てた
  真理のダルマに すがりながら 自己を変える
  久遠の幸せ得て 真実を極む
2番に関する説法
 はい、やめ。はい、次はねえ、2番。この2番の歌詞というものは、わたしたちが現世へ下向するカルマを最もつくりやすい、異性との恋愛。そしてこの、異性との恋愛は、結果的にはわたしたちを闇に巻き込むんだよ、という内容だよね。

 サマナとして最も気を付けなくてならないのが、この性愛でしょう。これによって、破戒、下向に至り、高い世界への道は閉ざされ、三悪趣への道筋ができてしまうのです。
 しかし、性欲の破戒というものも一朝一夕に起こるものではありません。
 最初は、ワークと関係がない話をして喜ぶ。電話で話して、それから、会って話す。同じ部署なら、近くに寝るようになる、といった前兆が必ずありますね。ですから、キスやセックスといった行為ではなくても、それに至る前段階の行為も破戒であると、とらえる心構えが必要です。以前、教団では一時、不邪淫に関する細かな戒律というものがありましたが、今後は、またそれを整理して、実践課題にすることを考える必要があると思います。
2番の歌詞に関する説法(追加)
 そして1番は、なぜ“慈愛の心”にすがらなければならないのかと。もともと、真の勇気というものはどういうものかというと、自分自身を向上させるものには、たとえ一時的に恥であったとしても、自分を投げ出すと。しかし本当に勇気のない人は、そこでプライドが出て、なかなか自分を成長させることができない。したがって、君たちが、もし本当に勇気があるとするならば、1番の慈愛の心、これは、わたしかもしれないし、もちろん、シヴァ大神・すべての真理勝者方の慈愛、ということも考えられる。あるいは、先輩の成就者の慈愛かもしれない。それにすがり、とにかく自分を、ステージを上げるんだ、っていう気持ちを持つこと、これが大切なんだね。

 これは非常に大切なことだと思います。破戒したり、下向したりする人の中では、慢や無智といった煩悩によって、真理の法則、サンガ、成就者の価値がありのままには見えなくなっている人がいると思います。もちろん、サンガといえど、人の集まりですから、欠けがある部分はあるでしょう。
 しかし、グルが真理勝者の法則に基づいてつくられたサンガの価値全体が否定されるべきでは決してありません。もし、あなたにそんな気持ちが起こったとしたら、あなたの側に煩悩の増大があるのではないかと、自分に厳しくチェックする方が、あなたのためになると思います。
 サンガの戒律や修行をしっかりと実践しなくても、自分は大丈夫だろうと考えたり、または、教団を離れても修行はできると考える人がいますが、それは疑問です。実際、皆さんが出家する前は、全く煩悩的な人生を送っていたと思います。この社会において、出家修行者の戒律・徳の実践をすることが、1人ではいかに難しいかということがよくわからなくなっているとすれば、それは、自分の中に無智、慢が生じているおそれがあります。
 この場合、小さなプライドにとらわれず、真理勝者方の教えと、その教えにあるサンガの仕組みに帰依することが大切だと思います。言い換えれば、ちっぽけなプライドを捨てて、修行者としての大きなプライドを持ってほしいと言うこともできます。
 実際、わたしは、いろいろな、破戒者、ないし、下向者を知っていますが、客観的に見て、教団の中にいる方が、煩悩捨断や持戒の実践が進みます。下向した人は、「下向しても修行する」と言っている人でも、結果的には、世俗的な煩悩的な生活に埋没する人が多くいます。大食に走る人、愛欲に溺れる人などなど。そして、他の宗教を実践する人でも、自分の煩悩・エゴを肯定する、規律の緩い宗教を選ぶことが多いように思います。それだけ、アレフの出家教団は厳しいかもしれません。
 ところで、わたしは、甘えや依存心をなくそうという話を去年したことがあります。しかし、これは三宝帰依と矛盾するものではありません。
 否定されるべき甘えや依存心とは、例えば、カルマの法則に基づかない依存です。例えば、自分でグル方の法則を実践しカルマを浄化しないのに、だれかが奇跡を起こして救済してくれないかとばかり考えていることは否定されるべき依存だと思います。また、日ごろの修行、ワークにおいて、怠惰や愛情欲求によって、法友や上長に甘えたり、依存することも、できるだけ慎まなければなりません。
 しかし、その逆に、間違った自立をしてしまって、サンガ・三宝から離れてしまう人がいます。例えば、「出家教団とは共同生活なので他人に依存できるが、世俗は自分1人で生きていかなければならないから、その方が大変である。だから、出家教団から離れよう」と言った人がいます。もっとも、これが本人の本音ではなく、煩悩を肯定し下向する単なる口実である可能性はありますが、本人が自覚しているかは別にして、これは、無智・慢による三宝帰依の否定であると思います。 
 実際、こういうタイプの人を見ると、多くの場合、三宝帰依とか、煩悩破壊の意思が弱く、世俗的な場合が少なくないように思います。現世のデータが多いのかもしれません。煩悩破壊ということを考えていたら、サンガはいろんな意味で必要不可欠なものです。そのメリットを見ることができないのは、単に慢・無智なだけでなく、後に述べるような煩悩や、慈愛の欠如によって、嫌悪が生じている可能性があります。
 書籍の説法を見ても、グルから離れて救済活動ができるステージというのは、小乗の段階を終えた、大乗のステージということになります。私事で言えば、大乗のヨーガを成就した後、日本のサンガを離れて、ロシアで布教活動したときが、完全に独立してはいないものの、それに近い面もあったのかと思います。しかし、この場合も、ロシアにサンガをつくったわけで孤立したわけではなく、さらに、いろいろな問題を抱えざるを得ず、悪戦苦闘しました。
 ですから、サンガを含めた三宝帰依という意味では、依存は必要ではないかと思います。一方、三宝帰依に反した依存(例えば、法則を実践せずに、だれかにすがって幸福になりたいという甘え)や、三宝帰依に反した、煩悩的な自立は、悪趣への道だということになります。すなわち、修行者には、帰依する謙虚さと、自己の努力の双方が必要だと思います。
2番の歌詞に関する説法(追加)
 もちろん、成就者たちの慈愛にだけすがるんではなく、次に真理のダルマにすがらなきゃなんない。いくら慈愛があったとしても、その魂がもし真理のダルマを知らなければ、結果的にわたしたちは救済されないんだ、っていうことを認識する必要がある。これが、2番の歌詞の内容だね。
 いいかい、「幸せ」って一言で言っても、なかなか、その実態というものは理解できない。幸せには二通りあるんだね。それは、外的に与えられる幸せ、つまり条件と因がそろわなければならない幸せと、それから、外的影響に全く左右されない幸せ、つまり、内側の完全なる充足した状態。そしてこの前者は凡夫の求める幸せであると、後者は聖者の求める幸せである、といわれている。この中間状態にある「幸せ」がある。これは天界の神々、あるいは転輪聖王が登場した時代に生じる幸せであると。これは何かというと、徳というものがあり、その徳の大小により、あるいは浅い深いにより、その法則にのっとって完全なる分化が起きるっていうことである。

 これは非常に意味深長な説法だと思います。単に成就者の慈愛にすがるんでは救済されず、真理のダルマにもすがらなければならないということです。
 これはよく成就者に愛著するという現象について述べられているように思います。成就者に愛著しても、真理の法則を修習しなければ、やはり愛著の裏にある苦しみ、邪悪心・嫉妬心などから解放されないと思います。
 そして、本当の幸せというのは、異性など、外側にある対象を貪ったり独占することではなく、煩悩破壊と慈愛の実践によって、自分の内側の完全なる充足した状態であるという悟りに至らなければなりません。これは、言い換えれば愛著を超えた、見返りを求めない愛(慈愛)の実践により、内側に喜びの感情が生じる状態と言うことができるでしょう。
3番の歌詞
  憎しみに迷い 害心に迷い 無常の害心 心を燃やして
  生の独占 あくなき追求 輪廻の絡み 断ち切ることなく
  真理に出合い 無常の喜びを捨てた
  覚者の力に すがりながら 自己を変える
  久遠の安らぎ得て 真実を極む
3番に関する説法
 そして3番は何かというと、3番はわたしたちが最も陥りやすい、憎しみ、害心について検討した歌詞である。この憎しみ、害心というものは、わたしたちの心を燃焼させ、そして疲弊すると。だからまさにそれをね、行なうべきではない。
 では、これはなぜ起きるんだ。それは「独占」によって起きるんだよと。つまり、自分の時間を大切にしたい、自分の空間を大切にしたい、自分の愛する人を大切にしたいと。そしてそれらをもし超越し、そして、覚者の教えにすがるならば、その人は本当の意味での安らぎ、つまり、憎しみや害心と全く反対側にある安らぎを得ることができるんだよ、というのがこの3番目の歌詞の意味だ。
 いいかい。「覚者」。――なぜ覚者の存在が必要なのか。それはわたしたちは人間の世界のことは知っているが、それ以外のことは知らない。しかし、覚者は、人間以外のこと、例えば地獄のこと、例えば動物のこと、例えば低級霊域のこと、そして意識堕落天や愛欲の天界、あるいは神聖世界、あるいはそれよりも高い世界のことを知っているんだね。そして、わたしたちの輪廻のすべてについて知ってるから、その教えに従うということは、一時的には損失を被ったように見えても、結果的には大きな利益をわたしたちは得ることになる。

 この説法に思い当たる節のあるサマナの方は少なくないのではないでしょうか。自分の時間を大切にしたい、自分の空間を大切にしたい、自分の愛する人を大切にしたい、という気持ちが出てくる人は少なくないでしょう。このような独占の心があれば、それ自体が、貪り・愛著ですが、その裏に、憎しみ・邪悪心が生起してしまいますね。この点について少し考えてみましょう。
 
 まず、サンガとは集団生活が基本となっています。これは、非常に深遠な意味があります。自分の空間にとらわれ、それを独占し、他人を排除しようとするのは、餓鬼(低級霊域)に転生する貪りと、地獄に転生する邪悪心に関係してきます。
 また、魂の落下のプロセスにおいては、人は、他の魂と和合していた段階から、性欲が生じて、異性を交わる段階になって、男女で家に住むようになります。

 実際、性欲の破戒をする男女は、性欲の破戒の場を求め、サマナの集団生活の場から徐々に離れていきます。邪悪心がなくても、愛欲を捨断できなければ、動物世界・人間世界の絆{きずな}を断って、上の世界に転生することはできません。
 このように、成就者になる前に通常課せられる、サンガの生活形態である、集団居住・生活や、自己の空間の放棄というのは、低い世界への絆を断ち切る意味で非常に大切なことであり、真理勝者の慈愛の法則なのです。実際、古来、出家教団は一切を捨て山にこもるか、祇園精舎のような道場における集団生活をしてきました。決してあなた方をいじめようとも、管理して苦しめようとしているのでもありません。そこには覚者の教えへの帰依が必要です。
 そして、これがしにくくなっているなと思う人は、謙虚に懺悔をなし、邪悪心などの煩悩の捨断に努めるべきでしょう。既にできなくなっている人は、未来においてできるように心から祈願して、煩悩捨断に励めば、将来できるようになるでしょう。これは、真理勝者の慈愛なのですから。
 繰り返しますが、出家教団の仕組みや規律は、皆さんを管理するためのものではありません。それは、皆さんの三悪趣のカルマを捨断するためにあります。
 ですから、皆さんの方から積極的に、自分がサンガの規律を何の引っ掛かりもなく受け入れることができるか、自分をチェックしてみるべきでしょう。それによって、自分のカルマ、三悪趣のカルマの状態を量ることができるでしょう。
 その土台としては、上記の説法にあるとおり、サンガの規律を含めた、覚者方、真理勝者方の法則に対して、プライドを捨てて、帰依することが大切です。
4番の歌詞
  情報に迷い 煩悩に迷い 無常のけがれが 心を揺らして
  生の快楽 あくなき追求 輪廻の絡み 断ち切ることなく
  真理に出合い 無常の喜びを捨てた
  サンガの仕組みに すがりながら 自己を変える
  久遠の悦楽得て 真実を極む
4番に関する説法
 しかしだよ、この覚者の教えと反対側に位置するものが存在すると。それは何か。それは、「情報」なんだね。そして「煩悩」なんだ。この情報と煩悩が存在する限り、わたしたちは対象を正確に認識することができない。では、どのようにしたらいいんだ。それは、まさに君たちが今ここにこのように存在してるように、サンガの仕組みにすがるしかない。つまり、サンガの仕組みによって煩悩捨断をするしかないんだね、今は。というのは「犬も歩けば棒に当たる」というが、今はわたしたちがどこを歩いても、わたしたちをけがす情報しかないわけだね。そしてそれから抜け出すためには、それと全く別の世界、空間を形成する必要がある。それがサンガなんだ。そこにオウム真理教(アレフ)の真の意味がある。
 サンガの仕組みにすがれというのは、まさにキーワードです。サンガには悪趣から救済し、上向させるいろいろな仕組みがあります。いくつかを挙げてみると、まず、集団居住については、これは、空間・愛欲の貪りと邪悪心の捨断に役立ちます。地獄の転生プロセスには空間の好き嫌いがあったことはご存じのとおりです。
 さらに、サンガには、集団で真理のダルマを学ぶ機会があります。例えば、教学システム・論議・法話、説法会、祭典などです。さらにイニシエーションも伝授されます。
 団食{だんじき}(共通のお供物)もその一つです。食・味覚の煩悩の捨断と、心と体によい食べ物による修行の土台づくりに役立ちます。
 集団修行も、1人では難しい厳しい修行を、集団によって行なって、カルマの浄化をしたり、集団で行なうことで、その空間を高いエネルギー状態にすることができます。
 次に、いろいろな儀式があります。儀式というのは、修行の土台です。クリヤー・ヨーガ、チャリヤー・タントラといった、所作や儀式に関するヨーガが密教にはありますが、これは、こういった型を重んじた修行が、修行の土台として大切であることを示しています。
 例えば、皆で、夜礼、布施の儀式、成就者への懺悔を行なう日を定期的に設けるなども、これに当たるでしょう。これらは、修行の重要な要素である、礼拝、供養、懺悔を、毎日の生活の中に、こまめに組み込むことになります。それによって、例えば、ワークを業務ではなく、神々への奉仕として認識・修習し、破戒についても小さな段階で食い止めるなどの役に立つでしょう。しかし、この点についての教団の取り組みは少なくなっているので、今後、改善したいと思います。
 また、サマナ服・ホーリーネーム・尊称などといった、言葉遣いも意味があります。このような服装や言葉遣いの規範は、面倒くさい・堅苦しいと思う人がいるでしょう。しかし、それは、見方を変えれば、その人が、人間界のカルマ・常識・修習に染まっていることも同時に示しています。
 もし、法友を向煩悩滅尽多学男女・菩薩の卵と見る、聖なる存在と見るとするならば、天界と功徳を表わす純白のサマナ服の着用を励行し、聖者を意識するホーリーネーム・尊称を使って呼ぶことは、重要な瞑想になります。実際、ある経典には、法友を単なる人間の友達と見ず、菩薩だと観想し、サンガを浄土であると観想しなさいというものがありますが、イメージで観想するだけでなく、実際に実践するわけです。
 よく考えればわかると思いますが、人間関係というものは、堕落のきっかけになることが多いのです。法則に基づかない、凡夫の会話や行動を繰り返すうちに、否定的になって下向したり、性欲の破戒に至ることがその証明です。例えば、男女関係が深まれば、一般の夫婦がそうであるように、互いを尊敬して尊称で呼ぶことはなく、互いへの支配欲などに基づいて呼び捨てにしますよね。破戒する人もそういった傾向があります。
 そして、説法にもある、煩悩的な情報の捨断とそれが徹底された空間、別の世界というものは、情報によって生じる煩悩破壊のために、この上なく強力な力になります。
 サンガのいろいろな細かな要素を取り上げてきましたが、まとめれば、サンガの有する、成就者、煩悩滅尽に向かう法友、諸々の戒律・規範・システムのすべてが、皆さんを上向させる仕組みであることは間違いありません。
 しかし、下向したり、破戒したりする人は、その前に、こうした、サンガの仕組みから外れるようになります。このパターンにはいろいろなものがあります。
 その人が、煩悩に負けたことを自覚し、こそこそと離れ始める人もいますし、いろいろな理由で、サンガ・教団を批判し、そうする人もいます。完全無欠の者はいないから、彼らの批判の是非については論じるつもりはありません。それよりも、そうする人たちに、煩悩の増大と慈悲の欠如があることは、自分が思うに間違いがないと思います。
 煩悩が静まっていれば、自分には苦しみがないから批判する必要がありません。慈悲があれば、批判ではなく、全力でその対象を良くしようと心掛けます。しかし、他人の批判の多い人は、自分を十分内省することができず、自分の煩悩・三悪趣のカルマは見ることができなくなります。とはいえ、批判の多い人は、本質的に苦しみがあるから批判するのであり、それを理解してあげ、その人に合わせた導きをする必要はあります。大切なことは救済されることです。
 それから、下向はしなくても、自分の空間を貪る人がいます。成就者になれば、エネルギー状態の保全、調整のために、個室が必要だと思われますが、それほどステージが高いわけではないのに、他人のエネルギーが悪いと主張して、自分の空間を貪る人がいます。これは、率直に言えば、邪悪心・嫌悪・神経質といった自他の区別が影響している面があるのではないかと思います。嫌悪が強い人は、説法にもあるとおり、他を避けながら最後には自閉症になります。
 わたしの場合は、はっきりとした個室をもらったのは、確かマハームドラーの成就後ではなかったかと思います。クンダリニー・ヨーガの成就の後は、他の成就者と一緒の部屋などのことが多かったように思います。
 ですから、空間については、上の人が、あなたのワーク上の必要性や、個々の事情に応じて特に認める場合は別にして、なるたけそれを貪らないようにする方がいいでしょう。
 そして、邪悪心の反対である慈愛を深めるべきでしょう。ちょっとしたことですぐ受けてダウンしてしまう神経質な霊性は、これによって徐々に解消されていくのではないかと思います。つまり、単なる霊性と精神性は別物であり、慈愛を培い精神性を高めない場合、霊的な感覚が発達しても、それがプライド・邪悪心といった自他の区別に連動したものになってしまうことに注意すべきでしょう。
 そして、サンガには集団で持戒を守る機能があります。純粋に煩悩破壊という視点から見たならば、世俗にはない戒律を共に助け合って守ろうとするサンガの仕組みは、この上ない宝物です。
 まず、1人で戒律を守るよりも、皆で守る方が、いろんな意味で容易です。そういったデータが空間にあるわけですし、エネルギー的に世俗のそれより浄化されています。
 次に、法友の慈愛の目によって、万が一自分が崩れかかったときにも助けてもらえます。
破戒を止めてくれる法友は、三悪趣から救済してくれる真理勝者・グルの化身とさえ言うことができます。
 また、少し特別な例ですが、修行途上で起きることがある、魔の働き掛けに対しても、経験豊富な成就者や法友がいれば乗り越えることができます。そうでなければ、自分が最終解脱した、合一したと思い込み、魔境に入ってしまう可能性があります。
 しかし、煩悩が強い場合、本当の魔ではなく、魔から守ってくれる法友の方が邪魔に見えてきてしまうでしょう。邪魔とはよく言ったものです。
 ですから、日ごろから、サンガを含む三宝への帰依を培うことが大切です。一方、帰依の対極にある、プライドというものは、魔境に入る原因と説法でも言われています。
 輪廻の闇の中には、我々を悪趣に落とす危険が至る所に存在します。それは煩悩という魔であったり、悪霊といった魔であったりします。英語で帰依をrefugeと訳しますが、これは避難所(帰依処)といった意味もあります。まさに、三宝のサンガは避難所です。そして、わたしたちの出家教団も、破戒、魔境から、多くの修行者を救ってきました。
 そして、皆さんが救われるかは皆さんの帰依次第です。
 さて、付け足しになりますが、わたしたちの出家教団について言えば、世界でもかなり特殊なもの、稀なサンガと言うことができます。
 日本という先進国において、その科学文明に遅れることなく救済活動で徳を積みながら、世俗的煩悩的な生活を捨断する者が600人ほども集っています。海外の一部の伝統宗派に見られるように、時代に取り残され現代を救済する能力を失うことを避けながら、かつ、国内の伝統宗派のように、現代社会に埋没して世俗的になったりすることも避けようと努力しています。わたしたち1人ひとりが、この出家教団を愛することによって、21世紀のアクエリアスの時代の出家教団を創造することができるでしょう。
 浄信を持って覚者に帰依いたします。
 浄信を持って真理の法則に帰依いたします。
 浄信を持って向煩悩滅尽多学男女出家教団に帰依いたします。