マイトレーヤ正大師特別寄稿 第38回
ワークも瞑想・瞑想もワーク
慈愛の瞑想の実践として和合を現象化しよう
ここ数回、慈愛の実践について述べてきました。
そのポイントを復習しましょう。
まず、慈愛の実践をする上で大切な視点として、まず、(煩悩的な)見返りを求めない愛(例えば奉仕)の実践が大切です。
二つ目の視点として、見返りを求める場合は、見返りを与える特定対象への愛著になるが、見返りを求めないなら、すべての魂に愛は広がるということ。
この点について、少し細かく説明すると、人は、三つの根本煩悩で、3種類の対象をつくり出しているとわたしは考えています。一つ目は好きな人、対象(貪り・愛著)。二つ目は、嫌いな人、対象(嫌悪・邪悪心)。三つ目は、関心のない対象(無智・迷妄・冷淡さ)です。このような区別なく、すべての魂を愛することが慈愛です。よって、これは平等心と完全にだぶります。すべての対象を好き嫌いの区別なく平等に愛する「平等心」と、見返りを求めずすべてを愛する「慈愛」とは、同じことを違う切り口から見たのではないかとさえ思います。
さて、今回は、この慈愛の実践をわたしたちのワーク・瞑想(行)に関連してお話ししましょう。
まず、現在の教団において、一つ復活させなければならない考え方として、「ワークも瞑想」、「行に形はない」という考え方です。
教団がその創設以来、なぜ、ワークというものを実践してきたのかというと、それは生きていくための経済活動をしなければならないということだけではありませんでした。それは、バクティ・ヨーガという、解脱・悟りのための奉仕活動でした。そして、このバクティ・ヨーガというと、布施・奉仕の実践という印象を持たれているかもしれませんが、単にそれだけではありません。もちろん、神々の意思の具現化のことだと言われれば、満点の回答ですが、その深い意味がわかっていなければ、言葉だけ知っていても実践できません。
まず、神々の根本意思は、教団の目標としても表現されていた、個々の解脱・悟りと、すべての魂の救済活動のお手伝いでしょう。言い換えれば、わたしたちが、煩悩破壊と四無量心の形成を進めることですね。これを心に留めて、バクティ・ヨーガというものを考えなければなりません。
そこで、出てくるのが、ワークも瞑想、行に形はないという教えです。ワークも瞑想というのは、ワークというのは、単なる教団業務への奉仕とか、布施を目的とした経済活動とかいうのにとどまらず、それを現実世界における瞑想の実践とするべきだと思います。
わたしたちは、瞑想の中で、好きな人と嫌いな人を平等に見る四無量心の瞑想をしたり、貪り・嫌悪・無智を懺悔する、懺悔の詞章を唱えたり、好きな物・人を放棄する、供養の観想・瞑想をしたり、他を賛嘆する称賛の詞章を唱えたりしますね。
しかし、ワークにおいては、好き嫌いなど、いろいろな感情が出て、これはしたいが、これはしたくない、この人は好きだが、この人は嫌い、他人の苦しみには関心がない、喜びは妬ましいなどが出てきます。
そこで、自分が日常ワークをしている世界も、瞑想の中で観想した世界と同じだと考えるのです。
もともと、真理の法則には、現象界の経験も、夢の経験も、死後から転生までも、皆バルド(中間状態)であるという教えがあります。また、深く潜在意識に入った修行者は、現実世界と同じようにリアルな瞑想をすることができます。夢見のヨーガに熟達した人も同様です。皆さんもリアルな夢を見たとき、日常の経験と区別できなかったという経験があるでしょう。
ですから、ワークしている日常の経験を、とてもリアルに観想された瞑想だと考えるのです。そして、それを、四無量心の実践等の、真理の法則の瞑想の対象と考えます。
好きな対象・嫌いな対象が現われたら、平等心の瞑想の機会だと考えます。
嫉妬の対象が現われたら称賛の瞑想の対象と考えます。
ワーク自体は、利他心に基づく、財や身の供養の瞑想と考えます。
我々は、何も深い意識に入ることができなくても、24時間、とてもリアルな瞑想の対象を経験しているのです。
こうして、日常経験を真理の瞑想に変容できる人は、たとえ在家のように現世に触れていても、1日24時間修行することができます。一方、内ワークをしていても、その経験を瞑想の材料・対象ととらえることがなく、現実に流されるままに、愛著(貪り)・嫌悪・無智の修習をしている場合は、内ワークの好環境も活かせ切れていないことになります。
前回、他に認められたい等の、煩悩的な見返りを求めてワークしている人は、慈愛の実践から離れていると言いました。それを言い換えると、ワークを瞑想としていないと言うことができます。
教団は、ワークというものを修行として用いてきました。それはバクティ・ヨーガであり、瞑想でもあります。よって、現世成就という成就の仕方もありました。また、最後は集中的な瞑想修行に入る場合にも、事前のワークでの浄化がなされている場合が多くありました。
すなわち、ワークという現象界での瞑想修行によって浄化が進み、それを土台に集中修行での、アストラル、コーザルを含めた瞑想修行というものがあったとすることができるかもしれません。
よって、厳しく言えば、煩悩的な見返りを求めたワークというのは、財施・奉仕にはなりますが、出家修行者が本来目指す、煩悩破壊、悟り・解脱に向かっての修行ではありません。
もし、あなたの目的が悟り・解脱であるなら、見返りを当然としたかのような意識でワークをすれば、それは、悪業も入り交じることになります。
しかし、現在の教団では、ワークを瞑想と考えるとか、ワークで悟りのプロセス・現世成就を考えるとかいうような風潮が非常に弱まってしまいました。逆に、見返りを当然としたワークになっている人もいるでしょう。
振り返ってみると、こうなるやむを得ない状況が個々数年間あったように思います。宗教法人の解散、上九一色退去、慣れない外ワークの始まり、破防法事件などがあり、経済的・物質的に、教団を維持するのが第一という切迫した意識の中で、ワークは生き残りのための絶対に必要なものという意識が形成されるのは自然なことでしょう。それは、ワークも瞑想とか、現世成就の悟りのプロセスとか、といった感覚からは遠いものですね。
もちろん、昔もそれを意識して十分に実践している人はそれほど多くはありませんでした。しかし、そういう法則は頻繁に説かれ、現世で成就する人もいたし、経済的には安定していましたから、そうしやすかったと言うことができます。ワークの中で、それが直接、経済的利益につながらないもの、中には、サマナのカルマを落とし、煩悩を破壊するためにつくり出された、無駄とも思える事業活動もありました。いわゆるマハームドラーの世界です。
ただ、ここに来て、教団を取り巻く状況は、96年や99年ほどの状態ではありませんし、サマナの皆さんの意識レベルも徐々に向上してきて、成就を目指す人、視野に入れる人も出てきましたから、今回はこの法則を説き始めるべき時期だと思いました。
さて、ワークも瞑想に活かすべきであると同時に、ワークを離れた行の修行もワークに活かされなければなりません。いろいろな詞章・決意・教学を、日常の経験、自己の行為、他との関係に具体的に当てはめないと、行とワークが分離してしまいます。
例えば、自己の苦しみを喜びとするという苦の詞章や大乗の発願に関して、それを自分の現在の地位や人間関係などからくる苦しみに当てはめて、心の解放のために役立てることについて以前の寄稿に書きましたが、そういった具体的な実践が必要です。
他の例を言えば、貪り・嫌悪・無智を懺悔する、懺悔の詞章を唱えるときも、ただ、抽象的な言葉を唱え続けるのではなく、自分のその日の経験に当てはめて、好き嫌い、対象に対する心の働きを反省し、改善する決意とするとか、到達真智運命魂の決意を唱えながら、これまで現実に自分を傷つけた出来事を、グルの叱咤ととらえるように努めるとかもあります。つまり、マントラ・詞章を自分の具体的な経験に当てはめて活かすわけです。そうすると、行にも一段と心がこもります。
これは、説法にもある修行法ですが、マントラ・詞章を使った高度な修行です。これによって、その効果は飛躍的に上がります。マントラ・詞章の単純な記憶修習・思念はラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガに属しますが、それに思索が加わるとジュニアーナ・ヨーガの素早い煩悩破壊の効果が加わってきます。悟り・成就を目指す人は試してみるとよいでしょう。
こうすることで、修行がワークに活かされる、修行がワークの準備、ワークの一部になると言うことができます。
さて、ワークを瞑想に、瞑想をワークに活かすということで、最後に強調したいことがあります。慈愛・平等心というのをメインテーマにしてきた関係もあって、ワークを慈愛・平等心の瞑想をするためには、どのようなことが現象化するべきでしょうか。
慈愛・平等心の実践が深まると、他に求めるのではなく、見返りなく与える心が強まり、同時に、好き嫌いという感情が弱まり、すべての人を平等に見るようになるわけですから、説法にあるように、サマナの間の和合が進み、わきあいあいとした感じになります。
よって、我々の教団が慈愛の瞑想をワークの中で実践しようとすれば、和合していくということが非常に重要だと思います。
さて、今までのいきさつから、和合しにくい相手という者がいると思います。しかし、それこそ、自分の引っ掛かりを超える大きなチャンスなんだと考えるべきでしょう。そして、ワークは、瞑想の材料なのですから、そうしないと損だと考えたらどうでしょうか。
ところで、ここで一つ付け加えたいことがあります。和合できないと、よくワークにおける意見が合わないという話があります。
これは闘争心の強い人たちの間に起こります。我々は阿修羅のカルマがありますので、これは教団の上から下まで注意せねばならないことですね。また、グループの境目で和合協力ができないのも阿修羅のカルマだと思います。道場と財施グループと内ワーク、パソコンのハードとソフト、ソフトの中の各グループ、男性と女性など、グループの違いによる和合の欠如を弱めていくことが大切ではないかと思います。それが、慈愛の瞑想としてのワークが進んでいる現われと言うことができるのではないでしょうか。
そこで一つ考えてほしいのが、阿修羅と天界の違いです。阿修羅と天界はよく戦いますが、説法にあるとおり、1人ひとりの実力は阿修羅の方が上の部分もあるのに、個々がバラバラなために、和合・団結できる天界に負けてしまいます。ワークの場で言えば、今後の方針について、個々人が自分の意見を主張し、どの意見が正しいかを口論し、延々と争って何もまとまらないとか、だれかの意見が採用されたときに、意見を採用されなかった人が闘争心によって協力をせず、うまくいかないとかです。
真理の法則の根本はすべての現象は心の現われというものです。よって、ある集団が方針を決める際に大切なことの一つは、決められた方針に対して、皆がその長所を活かし、短所をカバーして、成功させようという心の働きがあるかどうかだと思います。
もちろん、採用された方針が全く合理性を欠いたものであっても、皆が成功させようと思えば成功するとまで言っているわけではありませんが、どれほど良い方針であっても、足を引っ張る人が多ければ成功しないという印象があります。
真剣な人々が、しっかり議論する中で、複数の選択肢が候補として挙がってくる場合、それらは、それぞれ一長一短なのではないかと思います。ここで、すべては心の現われであり、和合と協力が成功の条件であるということがわかっていれば、自分の考え方ばかりに固執せず、相手の考え方の良いところも見て取り入れるなどするうちに、お互いの理解が深まり、歩み寄りもできるのではないかと思います。また、決まったら、他の考えが採用された場合でも、全力でやることが自分を含めた皆の利益という考えもわくでしょう。
だから、闘争心に気付かずに、だれが正しいかを争うことばかりに固執して、最も大切なものは、関係する人の心であることを見失えば、論理的には優れた策も、実際は、愚策になります。しかし、凡庸な策でも、皆の心に配慮されたものは、優れた策のような効果が出る場合があります。
よくスターが多いチームが、チームワークの良いチームに負けるのがこのケースでしょう。中で争っているうちに、外に負けてしまうわけです。サキャ神賢真理勝者も、滅びない部族の条件の一つとして、和合を挙げていました。
これに関連して、宗教においても、同じ落とし穴があります。宗教も何が正しいかを強調するところがあります。例えば、同じ万人への愛を説いた神を有し、同じ『旧約聖書』を聖典としているのに、それぞれがアラーとヤハーを絶対視して、その言葉の違いによって、互いに2000年間殺し合ってきたのが、イスラム教とキリスト教でした。
最も大切な神の意思は、欲望の離貪や慈愛といったものだと思います。仏教的に言えば、煩悩破壊・空と四無量心でしょうか。しかし、その目的を達成する手段である、いろいろな教え、修行法の違いが、目的よりも重要になってしまって、その違いから争いが起こるようです。目的と手段の取り違えには注意すべきだと思います。
同じように、四無量心の実践という究極の修行目標を忘れて、ワークにおいて自分が正しいのか、他が正しいのかを争うのも、目的と手段の取り違えにほかなりません。教団が発展するか否かも、皆が教団をよくしたいという慈愛を持ち、適切なプロセスで決定された方針を皆で活かすことができるかに懸かっていると思います。
こうして、成功のために、最も大切な力は、慈愛ということになると思います。
「愛は力」という言葉は、そういった意味で真実だと思います。
すべてのグル方、覚者方、真理勝者方に帰依いたします。
慈愛の教師である、未来の真理勝者に帰依いたします。
教団が神聖天界のごとく慈愛に満ちますように。