マイトレーヤ正大師特別寄稿 第36回
愛と愛著の違い 出家「家族」教団を脱却しよう!
見返りを求めない愛ということについて、ここ数回寄稿でお話ししてきました。
そこで一つ疑問が出てくる人もいるでしょう。つまり、見返りを求めない愛が修行者にとって恩恵をもたらすなら、それは見返りがあるということではないかということです。
それは確かです。正確に言うと、慈愛における見返りを求めないとは、全く見返りを求めないというのではありません。
この点は少し難しいですから、いくつかの視点から説明しましょう。
まず、慈愛の実践における見返りというのは、わかりやすく言えば、目先の見返り、瞬時に返ってくる見返り、直接返ってくる見返り、煩悩的な見返り、とでも言うと理解しやすいでしょう。例えば、金銭的・物質的なもの、異性に愛して欲しい、認められたい・誉められたい、地位が欲しい、支配したいなどでしょう。それによって、より高次元の自己への成長が阻害されるものです。
一方、心が安定し静まり、悟りに近づく、高い転生を得る、他と心が通じる、和合する、内側の喜びの感情が増える、などというのが、説法でも述べられた、慈愛の実践の正しい恩恵と言うことができます。
そして、愛著と慈愛の違いを見分けるもう一つの視点が、その対象が特定されているか否かということがあります。慈愛とは、基本的にすべての魂を育み育てることを基本とします。ですから対象は不特定多数なのです。もちろん、道場などでの具体的な導きは、特定個人に行ないますが、特定個人にとらわれてはいません。すべての魂を救済することを視野に入れて、今現在最も法縁のある者を最終的には救済者にし、すべての魂を救う魂に育てようという基本的な心構えがあります。ですから、道場にとっては信徒を教化した結果は、信徒に愛著せず、信徒を教団にお布施する、すなわち、出家に導くということになります。また、部署替えが頻繁にあったときの教団は、上長が部下に愛著したり、部下が上長に愛著したりはできませんでした。双方が人間関係をお布施していたとも言えますね。
一方、愛著は、自分に見返りを与えてくれるだれかを対象にしますから、対象が特定されています。その結果、愛著にとらわれている普通の人は、自分の家族や友人など、自分に直接的、具体的な見返りを与える対象に偏った愛を与えることになります。これは真の愛ではなく、愛著の特質です。
なお、サマナが一般の人より法友のサマナにより時間を割く理由は、自己に見返りを求めるのではなく、法友が成長すれば、すべての魂を救うための菩薩が増えるという視点でなければなりません。つまり、人類、欲六界の魂すべてのために、法友の成長を助けようという心構えが必要です。わたしは、サマナの初期において、この点を個人的説法でたたき込まれたことがあります。これは平等心に関係する教えでもあります。教団が、特定人物に対応するときは、すべて、それがすべての魂の救済をにらんでベストの道かどうかを見極める、愛著を離れた心が必要なのです。
ところが、現在の教団には一つのパラドックスがあります。それを認識することは、愛著を捨断する上で重要です。
そもそも、出家修行者が出家する一つの目的が、この家族・友人・知人への偏った愛、愛著からの出離なのです。ところが、現在の教団は、結婚などがないという視点からは、出家教団ですが、事件前と比べると、愛著が増大しています。
事件以前は、確かに、部署替えなどが頻繁にあって、人間関係としてはグルとの1対1の関係が重要視されていたこともあり、サマナ同士の横のつながりはさっぱりしていました。
各自が、比較的自立、独立していました。よって、そのときは、上長サマナによる、他のサマナに対する濃密なフォローはあまりありませんでした。サマナフォローという言葉さえなかったように思います。さっぱりした人間関係であったという感触があります。
一方、事件後は、以前あった部署替えがなくなり、人間関係が固定してきました。上長も固定的・限定的になりました。ワークの人間関係は固定していても、定期的にワークから離れる修行が確立されておれば、それが緩和されたかも知れませんが、大きな流れの中でそれは困難だったようです。逆に、一部では、修行は、ワークができない、調子の悪いサマナがやらされる懲罰的、否定的な意味合いとして誤解された側面もあり、前向きな心で、ワーク・世俗から離れて、1人になり、真理の法則を修習し、思索し、内省を深め、瞑想に耽{ふけ}るということが少なくなったようです。
その結果、ある意味で家族と似たような心理的関係が形成され、上長を親、兼上司とした、疑似家族が形成され、愛著・嫌悪が増大したように思います。
その中で、グルや真理に対する奉仕というより、上長に指示に従って奉仕をし、上長や周りの人から認めてもらうなどの見返りを求める傾向が出てきたように思います。例えば、多くの財施をした人が、上長や周りの人から称賛されて喜ぶということです。もちろん、財徳自体は出家教団を支えた功徳になったと思いますし、また現実的に必要なものだったと思います。ただ、財徳の実践の目的というのが、称賛ではなくて、その財徳が、出家教団らしい、法則の記憶修習、煩悩破壊、イニシエーションの機会として還元され、それを通じて、見返りを求めない愛を含めた心の浄化を進めることであれば、なおのこと良かったと思います。
ともかく、こうした、世俗的で濃密な人間関係の結果、愛著・嫌悪が増大した結果、上長に傷つけられた、捨てられた、認められない、受け入れてもらえないなどの意識が当然となり、情による、重たく、不安定な人間関係が形成された側面があります。世界で表わすと、個々が独立している傾向の強い、天界・阿修羅から、人間界的になったように思います。
そのような教団のあり方をわかりやすく言うと、「出家家族教団」と言えるのではないかと思います。出家した者の作った家族的集団を意味しています。過去に血縁の家族を離れ出家した者が、上長を含めた近いサマナを、親、配偶者などの家族と似た意識でとらえ、親子間や夫婦間に見られるような、エゴを抑圧せず、潜在意識の愛著・甘え・依存心・嫌悪などをストレートに表現する人間関係を構築している側面があるということです。破戒についてもなあなあで終わります。
とはいえ、この教団は徐々に変化してきました。事業活動の崩壊は、人事異動を余儀なくしました。また、MIROKU、光音天、光音天三和、アクエリアス研究所といった新しいグループがいくつかできました。上長も多くの部署で変わりました。外ワークから内ワークへの配属替え、外ワークのグループの統合、再編成などが行なわれました。今もそれは続いています。また、修行にも少しずつ力が入り、定期的な短期の集中修行が行われています。
そして、ステージ制度も導入され、ステージの変化が始まりました。今年は、長期の集中修行で成就を目指す人が出てきました。人間関係も変化しつつあります。師の人はできるだけ月の3分の1を集中修行にこもるシステムになりました。これは、親代わりになるのではなく、身近ではあっても聖者として存在するためだとも言うことが出来ます。
これは出家教団が少しずつ再生されていることを表わします。そして、そのような現象とともに、今、皆さんに再び、愛著とは違った真の愛の実践の法則が説かれ始めたのは偶然ではありません。出家教団の精神面での再生は確実に行なわれています。
そして、後一年強の間には、昔と全く同じではありませんが、それなりに愛著を超越し、慈愛の実践を意識しやすい出家教団システムが再生できると思います。もちろん、その実現は、我々全員の今後の努力、積む功徳に懸かっています。
また、ここ数年のことは、愛著の苦しみを知る、祝福のマハームドラーであったと思います。これを否定的にとらえても、未来に利益はありません。苦あって信あり。苦しみなき成長はないのですから。この経験を糧に、弟子が、自力で出家教団が形成できるようになれることでしょう。
繰り返しになりますが、今年は出家教団の精神的再生の年にしたいと思います。
そのためのポイントは、
見返りを求めない愛、
特定の対象に限られない、すべての魂への愛
すなわち、慈愛の実践です。
最後に、愛と愛著(愛情)の違いに関する説法を引用しますので参考にしてください。
●(質問)慈愛について、自己の利益を求めないということですけれども、例えば観念的に、つまり慈愛そのものが大神聖天へ至らせるとか、高い世界に至らしめるという、一つの観念があった場合に、そういう利益はいずれ返ってくるという思考があった場合に、それはどうなんでしょうか。
(回答)構いません。なぜ構わないかというと、それは見えていないんだね。
(質問)見えてないって、現象としてでしょうか。
(回答)直接は返ってこないよね。わかるよね、言ってることは。だからそれは構わないです。それは今度、決意如意足の中の決意とか、あるいは欲と関係してて、決意をもって到達させると。神聖天へ到達するんだったら、もうその部分は消えてしまうから、関係ないはずです。
●では、愛と愛情の違いについて、これから検討してみよう。あるいは、愛と友情、あるいは、愛と家庭内の情について検討してみよう。
まず、この愛情、友情、あるいは家庭内の情、この三つは、その根本的な部分に一つの要素が存在している。その要素とは何かというと、自己の満足、自己の利益である。しかし、この慈愛には、その満足、自己の利益というものは存在していない。というより、一般にいわれている自己の利益そのものが、わたしたちの迷妄・愛著、そして邪悪心の三つの悪い要素を増大させるから、結果的には不幸に至らしめる因となっているんだということを認識するならば、自己の利益について検討することはなさないはずである。もちろん、真実の意味において自己の利益というものは存在し、それは、しっかりと検討し、理解し、実践しなければならない。
ではこの、まず、愛情と愛について検討してみよう。愛情というものは、対象が特定である。例えば、それは5人かもしれない、10人かもしれないが、すべての生き物ということはあり得ない。しかし、慈愛というものは、すべての生き物に対して施す、崇高な心の実践、言葉の実践、行為の実践なのである。
次に、愛情は、必ず対象からのお返しを求める。例えば、わたしがこれこれやったんだからこうしてほしいなとか、あるいは実際にそうさせるとかね。ここで問題になってくることは、そうしてほしいなと思う心の働き、これも、結局は取り引きの心なんだということを認識するべきなのである。
一般的に、わたしたちは、対象に対して、具体的に結果が返ってこない場合、それを愛情ととらえづらい。しかし、今言ったとおり、結局わたしたちを構成してるものは、身の行ない、言葉の行ない、そして心の行ないだから、心の行ないにおいて、それを、見返りを求めるような働きが出た場合、当然それは、利益還元の心の法則なのである。よって、利益還元の心の法則は、わたしたちを不幸に導き入れる。なぜ不幸に導き入れるかというと、すべての現象に対して、結果的に、何らかの瞬時に返ってくる結果を求めるがゆえに、より大きな自己の発達・発展というものを望めなくなっていくのである。
では、慈愛はどうであろうかと。これは対象がすべての魂であるから、そのすべての魂から、何かの恩返しをしてほしいと思うことは当然あり得ないわけであるから、その心の働きは、純粋に神としての心の働きへと変化させる。神というものは、特に高い世界の神というものは、わたしたちの成長を見守り、そして、その成長によって何かの恩返しをしてほしいとは考えない。つまりわたしたちの、この愛の心の実践は、神聖天、大神聖天へと転生するための心の働きなのである。わたしが高い神といったのは、大神聖天のことである。
では、なぜ、大神聖天、この大神聖天の心イコール、慈愛と言い切れるのだろうか。大神聖天は、一千世界を支配している。一千世界の支配とは何を意味しているかというと、この欲六界、これを千個合わせた世界の支配者であると言うことができる。そして、神聖天の役割は、できるだけ多くの衆生を、神聖世界へ導き入れることである。つまり、千世界におけるすべての魂の、霊的、あるいは心の成長を見守る、これが大神聖天の心の働きなのである。よって、わたしたちがその心の働きに合わせることは、当然、神聖天と、大神聖天と合一することになり、わたしたちが大神聖天へと転生するきっかけをつくることになるのである。
愛情は瞬時の、しかも下劣な喜びしかわたしたちに与えない。しかし慈愛は、わたしたちを崇高な大神聖天の道へ至らしめてくれるんだということを認識するならば、君たちの今日からの慈愛の実践は、大きな利益をもたらすことになるだろう。
では、友情と慈愛とはどのように違うのだろうか。
確かに、異性間の愛情に比べて、友情はもう少し崇高な部分が存在している。それは――ま、ここでいう友情とは真実の友情だからね――その自分の友人に対して、できるだけ幸せになってほしいと、できるだけ幸福になってほしいと、あるいは、現世的な意味合いでいくと、できるだけいい奥さんと巡り合ってほしい等である。しかしこの友情も、対象が特定しているし、そして、この友情も見返りを求めていないわけではない。
ではその見返りとは何かというと、やはりその友人から優しくしてほしい、あるいは叱ってほしい等の愛情欲求である。よって、この友情を捨て、慈愛の実践をする、これこそが利益なのである。
では家庭内の情と慈愛との違いは何であろうか。家庭内の情は――特にこれは母親について言えることだが――受精し、そしておなかの中で子供が成長する。当然、一つの身体を二つの魂が共有するわけだから、大変近い関係になる。それによって、愛著が強まると。そして、ちょうどそれは、あたかも自分のことのように子供をかわいがるようになる。しかし、出産と同時に肉体が二つに分かれ、そして、子供は別個の意識を持ち、成長し、離れていくと。当然、母親は、自己の所有から徐々に徐々に離れていく子供に対して、苦しみを味わわなきゃなんない。しかし、逆に、愛著が強ければ強いほど、その子供に対する奉仕が喜びとなると。
この情、この情は、限定的な情である。チベット仏教ではよく、母親の感情をもって、慈愛の、愛の、まずスタートとしなさいと説くが、わたしはそう説かない。なぜならば、もともと母と子供の関係、あるいは父と子供の関係、これは限定的なものであり、そして利害の絡んだものであるからなのである。
では、どのように利害が絡んでいるのだろうかと。それは、自己の満足、つまり子供をかわいがる、そして子供が喜ぶ、それによって満足するという、満足の修習という意味の利益である。もちろん現代はもっと崩れた社会構造になっているから、もっともっといろいろな低次元の煩悩を満足させているだろう。
ところで、一体慈愛とは何なのかと。慈愛とは、わたしは先程、「育む心である、すべての魂を上向させる心である」と説いた。もっと他の言葉を使うならば、慈愛とは、自己を投げ出し、そして真実を教え、世界の、この欲界の世界すべての構造を教え、そして、何をなせば幸福になり、何をなせば不幸になるのかと、何をなせば天界へ行き、何をなせば地獄へ落ちるのかと、何をなせば智性が発達し、何をなせば智性が低下するのかと、このようなことを教えること、これが慈愛なのである。
よって、君たちは、今日から慈愛の実践をなしなさい。いいね。
そしてこれは、愛情の代わりに慈愛を得たとしても、友情の代わりに慈愛を得たとしても、情の代わりに慈愛を得たとしても、この慈愛に勝る愛情・友情・情は存在しない。なぜならそこには、単なる純粋な奉仕と、そして純粋な真理のデータを対象に入れるための教師の役割しか存在してないからである。そしてこの純粋な奉仕と、真理のデータを対象に入れる心の働き二つは、最もすべての魂が喜ぶことなのである。一時的には苦悩を与えたかのように見えるかもれない。しかしそれは、対象にとって、未来に対して大いなる喜びに還元されるはずである。
すべての覚者方に帰依いたします。
すべての真理勝者方に帰依いたします。
シヴァ大神に帰依いたします。
慈愛の教師である、到達真智運命魂、未来の真理勝者に帰依いたします。