マイトレーヤ正大師特別寄稿 第35回
苦楽表裏と卑屈の超越 神聖世界を現出しよう!

 「自己の苦しみを喜びとする」という詞章にあるとおり、一切の現象は、苦楽表裏である。苦の裏に楽があり、楽の裏に苦しみがある。よって、いかなる苦しみも、見方を変えるならば喜びとして前向きにとらえることができる。
 これは、十二の条件生起の段階の法則で言うならば、善悪・苦楽を区別する観念(識別)の捨断でもある。もともと、真我には識別がない。それが非神秘力によって経験を始め、その経験の構成の中から、苦楽・善悪を区別する観念である識別を形成して、そこから愛著・嫌悪が生じ始める。だから、苦楽を区別する観念は本質的なものではないのだ。
 だから、どんな苦しみでも、喜びに転換していくことができる。視点を変えることによって、物事の意味合いも変わり、否定的な見方を肯定的な見方に変えることができる。そして、これによって、卑屈・自己嫌悪・消極的傾向・恐怖・不安その他の引っ掛かりを解決することができる。


 多くの人が、自分(や他人)に関わるある体験や事柄について、それを、悪いこと、悪いカルマ、後悔すべきこと、欠点、不安や悩みの種と意味付けて、否定的な感情を持っている。しかし、見方を変えれば、それが、実は、良いこと、良いカルマ、貴重な経験・財産、長所、チャンスなどと、肯定的にとらえることができる。そして、この逆もまた可能であり、肯定的なものから否定的なものへの転換もできる。
 よって、物事を否定的にとらえすぎ、「卑屈」になり過ぎて動けなくなっている人は、その物事の肯定的な側面を考え(苦しみを喜びに変えて)、卑屈を中和することが望ましい場合があるだろう。一方、過去の成功体験によって現象の無常を理解せず、慢に陥っているが故に、油断して努力を放棄している人などに対しては、その現象が永続しないものであることを指摘して(喜びを苦しみに変えて)、望ましい方向に行くことができるだろう。
 例えば、失敗は、成功のもとである。失敗しても、その経験に基づいて改善の努力をすれば、それがいつかは成功につながる。失敗したから成功したのだ。また、成功しても、慢によって油断すれば、将来の失敗のもとになる。失敗が成功を生み、成功が失敗を生む。
 輪廻転生も同様である。(修行をせずに識別から脱却できない魂は、)今現在、高い世界に転生していても、そのこと自体が、慢によって徳を消耗し、下の世界に落ちていき苦しむ原因となる。その逆に、下の世界の魂は、相当長く苦しむものの、いつかはそのカルマ落としで、上昇することにもなる。
 この思索は、一切が無常、相対的である、という真理の法則の思索ができている人ほどうまくできる。喜びの裏の苦しみ、苦しみの裏の喜びを理解し、思考を逆転することができるからである。
 ただし、逆転の発想の悪用は厳に慎まなければならない。
 特によくあるのが、一切の識別に実体はなく、一切の善悪の区別に実体はないから、何をしてもいいんだというものである。これは、説法において、無観念という観念とされて否定されている。つまり、観念は持たなくてもよいのだ、という誤った観念である。
 魂が解脱に向かっていく場合、例えば、戒律という識別・観念は持つ必要がある。これは、人が、戒律以外に、無始の過去から修習した多くの識別を既に有している。例えば性欲も、異性と交わることは喜びだという識別であり、それは、非常に強く修習された識別である。この識別を破壊するために戒律がある。
 しかし、一切の識別・観念は実体がなく、苦楽表裏であるからという教義を誤って持ち出すと、性交は苦であるというのも観念であり、その苦の裏には楽があると主張して、性欲の識別を増大させる結果になる場合がある。あるフリーセックスの外道の教義に染まっていた人がこの間違いを犯した例が教団にも過去にあった。このように、滅すべき識別の順序を間違えると、大変なことになる。
 こうして、見方を変えればどんな善悪・苦楽も逆転することはできるが、それがいいかどうかは、その結果として、煩悩破壊の道程を進むことができるかどうかがポイントである。
 それでは話を元に戻そう。先程も述べたように、人間は目の前の現実をありのままに認識して(一切の識別なく認識して)、それに対応しているのではない。そうできていれば完全な空の悟りを得ている。実際は、自分の内側で(識別によって)独自に解釈している現実を、あたかも真実の現実と誤認しているのである。よって、現実をどのような識別でとらえるかによって、その結果は全く違うものになる。
 例えば、○○をやってみたけど思い通りの結果を出せなかった、という場合、これを、「これは失敗だ。わたしにはこれは無理だ」と考えるか、「この結果は次の成功へのフィードバックだ。この経験をもとに改善すれば、次は成功するぞ!」と考えるかによって、わいてくるイメージは変わる。前者は、大きな障害が立ちはだかっているかのように思え、後者は、次は成功する、というイメージが浮かんでいる。その結果、前者は、あきらめ、卑屈になり、後者はいずれ成功することになる。
 これは、先ほども出た、失敗が成功のもとという法則である。しかし、通常は、過去の失敗の体験によって、再度、失敗することを恐れて、努力に対して消極的になっている人が多い。そして失敗をしたくないので、「自分はできない」と言って、努力しないための口実を作る。
 一方、成功する人は、失敗を恐れず、チャレンジし続け、最終的に成功し、それまでの失敗を成功のもとになる経験・財産にしてしまう。よって、失敗と成功の区別は実はなく、失敗は成功のもと、成功は油断すれば失敗のもとということを修習することは大切だ。
 次に、これは、性格の問題についても当てはまる。人の性格は本来、長所と短所が裏表である側面がある。それは、性格を形成する三つのグナ自体に長所と短所があるからである。
 例えば、彼は良く言えば○○、悪く言えば××と言うことができる。彼女は良く言えば繊細だ、悪く言えば神経質だ、彼は良く言えば意志が強い。悪く言えば頑固だなどである。
 三グナで言えば、ラジャスは、せっかち・怒りっぽいという欠点があるかもしれないが、一方、行動力、スピード、パワーといった良い意味があるし、タマスには、物事を遅らせる、のろい、鈍重、という欠点があるかもしれないが、慎重・熟考・静かさという良い意味もある。良いとされるサットヴァにしても、執着という側面がある。よって、人の短所・長所は裏表であり、人には個性はあっても、駄目な人間とできる人間の2種類が存在することはない。
 第3に、自分に与えられた一見否定的な条件・環境を逆活用することも大切だ。ピンチの裏にチャンスあり、死中に活、災い転じて福となす、人間万事塞翁が馬などという格言もある通りである。身体障害者故に、無常を理解し、解脱に向かった成就者もいる。以前、松下幸之助や徳川家康の逆転の人生も取り上げたことがあると思う。過去の特別寄稿(第17回、第33回・34回など)も見てほしい。
 さて、ここで教団にとって、一つ重要なことを指摘したい。
 教団では、ステージの区別、凡夫・修行者の区別などの影響で、ステージの高い魂とステージの低い魂を二分する傾向がある。しかし、人にはいろいろな長所と短所があり、善業と悪業がある。だから、ある人が他の人より、あらゆる点で優れているとか、あらゆる点で劣っているというのは、少々単純過ぎるものの見方である。無論、今現在の時点においては、総合的な判断として、どちらの方が意識レベルが高いかと言うことはできる。
 しかし、このものの考え方が、サマナ間の優劣をあまりにも単純化してしまい、優れたサマナと駄目なサマナというように、サマナを二分し、プライドと卑屈を生じさせているという問題がある。
 卑屈になっているケースとして、例えば、長い間、サマナ、サマナ長、師補でステージが止まっている人や、女性蔑視の観念の影響で卑屈になっている一部の女性サマナがいる。その結果、怠惰・嫉妬が強くなっている人もいる。
 本人自体が、前向きな心で自分の欠点を反省し、努力しようとしているならいいのだが、このように、卑屈と絶望で、怠惰になっている場合は、見方を変えることで、卑屈を消して、前向きに努力できるようにする必要がある。
 では、具体的にはどのように考えたらよいのだろうか。
 まず、苦しみ・失敗の経験が多いほど、他に優しくなれるという事実がある(という説法もある)。他の苦しみを自己の苦しみとする哀れみの実践は、他の苦しみを自己の苦しみのように悲しむということであるから、様々な苦しみを経験した人の方が、同様の苦しみを経験する人に哀れみを抱きやすいのである。よって、苦しみ・失敗の多い人は、同様のタイプの無数の人たちの救済をする上では、過去の苦しみ・失敗が力になるという側面がある。
 さて、わたし(マイトレーヤ)については、ほとんどのサマナの方々は、修行者としてエリートであると考えられているかもしれない。
 しかし、こういうわたしも、修行者としての挫折の経験が何度かある。一つ目は、初期のころであるが、サマナになって早くクンダリニー・ヨーガを成就した割には、なかなかサマナ生活の必要性というものが体得できなかったという苦しみがあった。それは今思うと、グルのマハームドラーによって、プライドが揺さぶられ、それ故に疑念が生じていたことがわかっている。結果として、あらゆるタイプの疑念を経験することになり(グルの言葉によると)、卑屈にならざるを得なかった。つまり、他のサマナを見ると、あまり努力しなくても、考えなくても、問題なく帰依しているように見えたし、疑念などわかずに称賛できているのに、自分はいろいろ疑念がわくし、闘争心もわくという状態である。
 その結果、疑念と闘うために、いろいろ教学・思索をせざるを得なかった。正直に言えば、出家してから最初の2年間くらいは、精神的にかなりきつい時期があったのである。
 ところが、それが、他のサマナをフォローするときには、とても役に立つことがあった。疑念や揺れを経験していない人は、他のサマナが揺れているときには、その気持ちがあまりわからないということもある。もちろん、自分の強力な信で相手を感化してしまうこともできるのだろうが、相手と同じタイプの苦しみを経験し、それに対処する方法を見いだした方が対応はうまくなる。よって、よく揺れるサマナに対応したことがあった。
 この苦しみの中で、自分は、心が揺れた、疑念を持ったということは必ずしも悪いことではないと気付いた。あるときは、解脱・悟りを求め出家し(と言いながら実はスーパーマンになって、プライドを充足したいというのが本当のところだったのかもしれないが)、あるときは現世に戻りたくなるという、揺れる自分の心を経験するということは、「心が無常である」、「データによって左右されている」ということを、自分に気付かせてくれる体験ではないか、と考え始めた。そして、揺れが激しかったので、ある時点で、この揺れる心に、付き合っているから苦しいんだという悟りのようなものがわいてきた。
 だから、わたしは、揺れていて卑屈になっている人には、疑念を感じていないのが第1段階、それから心が変わって、疑念を感じる段階が第2段階であり、より修行が進んでいるのだと説明することもあった。そこで、苦しみながら、初めて自分の心、修行しようという心さえ無常であることを悟れるからである。そして、第3段階は、その無常な心から離れること(ないし支配されないこと)であり、それは、自分の意思で、記憶修習によって、正しい心をつくり出すことだと考えた。そして、第2段階を経験しないと、第3段階に行けないのだから、第2段階で修行をやめるのはもったいないのである。
 他人が揺れているときにもそう言った。そうすると、揺れている人の中で、修行が必ずしも遅れていたり、失敗しているのではないと考えて、希望を見いだし、再び出家生活に意欲を持つ人も少なくなかった。
 これについては、個人的な説法においても、「現世も苦しみ。そして、修行もなかなか進まず苦しみ。このどっちも苦しみという、お前の感じている苦しみこそ、本当の苦しみである。そして、苦あって信ありの苦しみは、この苦しみなのだ」と諭された。
 わたし個人にとって、第2の精神的な苦しみの時期は、4年間の逮捕・拘留、受刑の中の一時期であったと思う。皆さんはわたしが日本社会においてどのように評価されて位置付けられているかよくご存じだから、わたしが自分の幸福、特に外界の幸福を求めれば、とても苦しい意識状態になることは簡単に想像できるのではないだろうか(とは言っても、多くのサマナは自分の苦しみに気をとられて、他人のことを想像するのは難しいかもしれないが)。そのため、わたしは自分の幸福を求めるのをやめ、自分のことを考えるのをやめた方がいいと思うようになった。そうすれば激烈な苦しみは感じなくて済む。自分の喜びはゼロで、後は死ぬまで救済のお手伝いができればいいと、それで十分だと考えるようになった。それによって、淡々と前向きに前進する土台ができた。
 これと全く同じように、長年、ステージが上がらなかったり、女性だからといって、低く評価され、卑屈に悩まされてきたサマナは、その苦しみを喜びとすることができないだろうか?
 まず、今まであなた方が感じてきた、卑屈の苦しみは悪いことではない。外界に幸福を求めれば(自と他を比較する煩悩・プライドがあれば)、常に苦しみが生じるのだ、ということを教えてくれているからだ。これは、神々の祝福のマハームドラーなのである。自分のステージを他と比較しなければ、苦しみは生じないはずだ。苦あってこそ信ありなのだ。
 また、他の似たようなサマナの苦しみを理解することもあなたにはたやすいだろう。そのための貴重な経験を得たと考えるべきだ。これは、他の苦しみを自己の苦しみとするという修行に通じる。こうして、慈悲の実践に転じていくことができる。
 我々が救済活動をするときには、いろいろな人と接することになる。社会にも若くして地位を得る人は少なく、卑屈に苦しんでいる人の方が多い。そういう人を救済できるのは、あなた方である。事実、教育心理学の専門家は、受験戦争などの勝者として満足しているのは国民の1割か2割であって、残りの人は、嫉妬や恨みを有しているという。だからエリートの失敗、芸能人のスキャンダルが週刊誌ネタになる。また、女性について言えば、この世で救済しなければならない人間の半分が女性であるから、女性サマナの価値は極めて大きい。
 このように、個々の魂には、それぞれに個性、役割、使命があると思う。プライド優位の人は、そういう人の気持ちがわかるから、そういう人たちを救済しやすいかもしれない。卑屈優位だった人は、卑屈な人を救済しやすいだろう。自分と似たタイプの日本人、地球人が大勢いるはずだ。サマナ500人の、1人ずつに対応する日本人や地球人が存在している。
 こうして、現在の苦しみは、その人が努力し続ける限り、最終的には救済するために生かせる、その人の個性、特長となるのだ。
 これとは逆に、あまり早く上昇してしまうことのデメリットがある。それは、慢などに陥りやすく、ある時点で没落するケースである。これまでの教団において、師になった人の中でも、多くの脱会、魔境、離脱があることを知っているはずだ。すなわち、一時的ではなく、安定したステージアップのためには、それに相応した苦しみと、それを乗り越える相当の努力が必要なのではないだろうかとも思う。
 こうして、ステージアップというものについて、今までより長期的な視野に立って、もっと柔軟な思考で、とらえ直したらいいのではないだろうか。つまり、よく言われる、「若いうちは苦労しろ」とか、「大器晩成である」とか、「たたきあげ」とか、「山が高ければ谷も深く、谷が深ければ山も高い」という話は、教団においても、一面の真実ではないかと考えている。自分も社会的な立場は、この10年でぼろぼろになったが、大器晩成と考え、前向きに生きていきたいと考えているし、そうなると思っている。
 そして、他の苦しみに目を向け始めることができれば、自分の視点が近くのサマナに固定されなくなり、欲六界のすべての魂に目を向けやすくなる。自分より下に、無数の魂が存在し、その苦しみに気付く。地獄の住人、動物たち、そして、飢餓・貧困・病気その他の障害にひどく苦しむ人たちに比べ、サマナのだれの苦しみが、卑屈になるに値するほどのものなのか。ばかばかしくはないか。社会による教団への圧力も屁のようなものだ。
 そうすれば、自分が不幸だと考えていたことが、いかにも狭い視野による、ゆがんだ心の働きであったかに、はっと気付くだろう。そのとき、自分の苦しみが、外的な条件ではなく、自分の世界の見方のみに起因していたことがわかるだろう。つまり、苦楽は相対的なもので、自分と比較する対象によって苦楽の幻影が生じているに過ぎないからだ。
 さて、ここまでにおいて、一つ誤解しないでほしいことがある。わたしは、今ステージが低いサマナ、評価されていない人たちは、そのままあきらめなさいと言っているのではない。ポイントは、それにとらわれないこと。欲を言えば、それにとらわれずに、利他の実践に集中することである。
 そして、その結果として、逆にステージは必ず上がるし、認められることになる。すなわち、自分のステージにとらわれないほうが、逆にステージは必ず上がるのだ。この理由は簡単である。あなたが、あなたを客観的に見ればすぐわかる。
 ステージが上がらない、評価されないからといって、卑屈になっているサマナを観察すると、自分で自分の評価を下げていることがよくわかる。プライド・卑屈などの無意味な思考によって、エネルギーをロスし、暗く不安定に見える。場合によっては、評価されないことで、他に対する不平不満を溜め込み、いたずらに他の批判をなすことも少なくない(批判は、物事をありのままに見れない不安定な心によるものだから、価値は乏しい)。そして、不満を背景に、同等の立場の者への嫉妬も強くなる傾向があり、他への寛大さ、利他の実践も弱くなる。
 一方、その人が、ステージ昇格や称賛よりも、プライドにとらわれないことの方が重要であると思い切り、そのためのマハームドラーとして現状の地位を喜びながら、それでいて無気力にならずに、真理の実践・利他の実践を淡々とこなすならば、当然、周りも尊敬できるようになり、ステージも自然と上がる結果になる。
 布施する方が豊かになるように、認められるには認められることへのとらわれを放棄し、利他の実践をする方がいいという法則である。
 さて、卑屈の問題の解決は、教団全体にとって、非常に重要である。
 先程述べたように、世俗の社会においては、多くの人は卑屈・嫉妬に悩んでいる。教団においては、本来そういうことはあるべきではないのだが、10年以上も続いてきた中で、似たような意識が生じてきているように思われる。よって、これはぜひとも撲滅したい、心の病であろう。
 そのためには、上で述べたように、自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとすることである。
 そして、1人ひとりの人に個性があり、それぞれの救済活動上の役割、使命があると考えるべきである。教団の中で、優れたサマナと駄目なサマナという、単純な白黒の色分けをやめるべきである。早く成就する人も、大器晩成の人も、皆、自分の個性を他を利するために生かし、味わえばいいのである。
 そうすれば、教団全体から、卑屈・嫉妬・闘争・批判・邪悪心が消え、すべてのサマナに対する尊重と、互いに対する慈愛が強まるだろう。
 ワーク上は、適材適所と調和・協力が実現し、それぞれの個性が最大限発揮されて、組織全体が活性化・拡大するだろう。その結果、救済活動は成功し、将来的には、皆が世俗的にも偉大になるに違いない。
 それは、この地上に神聖天界が現出することを意味している。
 慈愛の世界は、1人ひとりが尊重され、愛される世界である。
 その世界の魂は、1人ひとり役割を持ち、大きな慈愛を有しているのだろう。
 一方、皆がプライド・卑屈・闘争心にとらわれて、それぞれの個性を生かすのではなく、他を押しのけて地位や権限を得ようとすれば、結果として奪い合いしか起こらないだろう。
 だから、理想の教団をつくれるか否かは、皆さん1人ひとりに懸かっている。皆さん1人ひとりが、その達成のためには大切である。
 さて、最後に、昨年のステージ制度の導入は、全体が向上欲求を持たないというタマス状態の解消を進めるためにあったと考えています。
 そして、その意識状態の代わりに、ステージ制度の導入の結果、プライド・卑屈・嫉妬といった上位の煩悩がより鮮明に現象化しているかもしれません。
 慢の出ている人、卑屈になっている人、嫉妬の出ている人。これら上位のチァクラの煩悩による苦しみの増大については、祝福のマハームドラーと考えて、その苦しみの背景にある煩悩を滅する糧として喜びとし、利他の実践に生かしてください。
 そうすることで、今年は、慈愛の教団、神聖世界の現出の始まりの年となるでしょう。
 そして、そうなると思います。
 すべての覚者方、真理勝者方に帰依いたします。
 慈愛の教師である、到達真智運命魂、未来の真理勝者に帰依いたします。