マイトレーヤ正大師特別寄稿 第34回
慈愛・見返りを求めない愛の実践


 今の教団に最も欠けていて、最も大切な教えは、真の愛、慈愛の実践だと思う。慈愛の実践は教団の根本的な法則だったが、いつの間にか、この実践がだいぶ弱まってしまったような気がする。
 しかし、慈愛、それは、慈愛の教師を意味する、到達真智運命魂、未来の真理勝者の説かれた、大乗の教えの根本である。だから、その精神の再生こそ、真理勝者の教えを実践すべき教団の精神的再生の象徴になることは間違いない。
 では、真の愛、慈愛の実践とは何であろうか。その第1の要素は、見返りを求めないということである。見返りを求めるのは愛著であり、見返りを求めないのが真の愛である。まず、この真の愛の定義と意味合いを説法で確認しよう。
●十戒の歌
  見返り求めず真愛を 振りまくならば幸せに
  邪淫をせずに生きるなら 楽しい交友待っている
  自己の苦しみは 自己の因
●愛は他からの見返りを求めず、そして愛情は他からの見返りを求めるのです。ここに大きな違いがあります。
●慈愛とは、例えば見返りを求めない心の働きであり、愛情とは、自分の欲求を満たすために対象の存在を肯定する心の働きである。よって、この真理でいう慈愛というのは、相手を真理の流れに入れるということが絶対条件に入ってくるのである。
●この聖慈愛は、キリスト教でいう愛と全く同じ意味合いである。つまり、すべての魂の成長を願う心。例えば、あなた方の隣人、あなた方の知人、あなた方の友人、あなた方の親族等が、1人ひとりが本当に真理を知り、そして真理を実践することにより、心が浄化され、言葉が浄化され、行為が浄化され、高い世界へ至ってほしいと願う心、これが聖慈愛なのである。
 ここで、愛情との区別をしなければならない。愛情とは煩悩である。つまり、相手を好きになりたい。あるいは、その相手が物質的に豊かになってほしい。あるいは、好きな相手が出世してほしい等である。しかし、これらはすべて見返りを求める心が対象となっている。よって、慈愛と愛情とは違うのである。

 さて、事件後に、人間関係のもつれから、一部のサマナに、恨み・つらみ・嫌悪の感情が生じたことをいろいろな人から聞いた。例えば、傷つけられた、切り捨てられたというような話も聞いた。わたしも、昔は、苦しんだ時期があるから、その苦しみはよくわかる。
 しかし、友人関係の中での恨み・憎しみというのは、他に対して見返りを求める心がまずあって、それが満たされないが故に、生じることが多い。よって、傷つけられたと思い、苦しんでいる人は、何かを他に求めていて、そうすることによる苦しみを経験したということになる。もちろん、この人間界では、解脱・悟りを得ない限り、人は互いに求め合って生きている。だから、それはごく普通のことである。
 ただ、いつまでも恨み・憎しみを抱えていることは、恨まれる対象よりも、恨む本人を一番傷つけてしまう。そろそろ、それらの感情から自分を解放しないと、来世に至るまで、その傾向が残ってしまいかねない。
 だから、事件後の教団の状況と、サマナの意識の流れを少し振り返ってみよう。

 まず、富士・上九を中心としたサマナ生活から、財施部などの形で、多くのサマナが世俗の空間に入っていった。さらに、それを決定付けたのが、富士・上九の退去であった。
 その結果、今までになく世俗に接してその影響を受けたのだろう。心の働きが、世俗的になった。すなわち、見返りを求めた愛、すなわち愛著と、その裏の嫌悪が増大した。修行意欲が減退し、男女間の愛著、性欲の破戒、上下左右への嫌悪・批判が増大し、下向者が続出した。
 上層部にしても、それまで教団をリードしてきた人たちは皆逮捕され、慣れていない人たちが、未曾有{みぞう}の社会的な圧力やストレスの中で、教団をリードしなければならなかった。外側からの多大な期待と社会からの攻撃・圧力と、内側で自分が修習してきたことのギャップに耐えながら、使命感や自負心で自分を支えたことだろう。
 破防法が適用されるのではないかという切迫した時期になると、続出する破戒・下向者を前にして、サマナの修行を固めようと、観念崩壊セミナーなどが行なわれた。ただ、その主旨に反して、その厳しい修行に否定的な感情を生じさせた人もいると聞く。
 また、女性のカルマは悪い、ということが強調されたとも聞いた。それは、性欲の破戒を捨断し、出家教団が崩壊するのを避けるためのものだったのだろう。また、一部の男性からすれば、あの状況下では、対象を嫌悪することで破戒しないようにする以外には方法がなかったという、追い詰められたような話も聞いたことがある。
 だから、その本来の目的は、女性を蔑視することではなく、男女の性欲・破戒の捨断と、出家教団全体の維持であったのだろう。そして、その目的は、一定限度達成されたと見ることもできる。ただ、その反動として、女性の卑屈が増大し、一部においては、男女間の軋轢{あつれき}を生じさせる原因になったという側面もあるだろう。よって、破戒が少なくなってきた今は、女性の弟子が先頭を切っていた昔の教団のときのように、女性をダーキニーとして、チベット仏教のようにとらえたり、男女関係なく真我・仏性を有する者として尊重する考え方も必要だろう。
 破防法が不適用となった後も、昔のようなサマナ生活の環境は回復しなかった。少なくないサマナの活動空間が、経済的な理由で、事業活動のそれになった。当然、事業活動という世俗に近い空間の中で、愛著・嫌悪は増大した。その中に多くのサマナが入っていて、その気風の影響を受けた。その意識状態は、教団上層部さえ完全には免れることはできなかったろうし、それに加えて、社会的圧力・プレッシャーにもさらされ続けた。その中で、上下の関係、左右の関係で、少なからず人間関係のトラブルがあった。
 「わたしは一生懸命やったのに認められなかった」、「部署替えになって切り捨てられた」、「傷つけられた」、「下の人がわがままで言うことを聞かない」などなど。
 このような、見返りを求めたワークから生じる意識、言動が当たり前のようになった。
 さて、このように、過去を振り返ってみると、いろいろな問題が、事件発生にまつわる教団の体制と取り巻く環境の激変という、だれもどうすることもできない要因が、大きな影響を及ぼしていることがわかる。よって、傷つけられ、苦しんでいる人の気持ちは理解しなければならないのは当然だと思うが、問題の根本原因が、教団を取り巻く大きなカルマの流れによるものであった以上、特定個人を悪者、犯人にすることは良くないだろう。
 それだけでなく、繰り返しになるが、恨み・憎しみは、その人自身の心身を傷つけてしまう。実際、他があなたを傷つける行為というのは、物理的には一瞬のことが多い。しかし、あなたが恨み・憎しみの心で、自分自身を傷つける行為は、やめようと決心しない限り、下手すれば、今生を超えて続くのである。下手すれば、何生も、特定の他の魂を恨み、その恨みによる逆縁で、同じ世界に転生して、傷つけ合うことを繰り返す。これは悲惨である。
 なお、恨みが強い人は、傷つけられたことは、自分のカルマであると言われても納得がいかないかもしれない。そうであれば、視点を変えて、傷つけた側が、そうしてしまうカルマに拘束されていたと考えたらどうだろうか。人が悪業をなすときは、たいてい、それが一番良いと考えてするのではなく、そうせざるを得ないカルマに心身が拘束されて、正しい判断能力を失っているからなのである。すなわち、そうしてしまう、環境条件、過去の経験(の構成)、観念(識別)などが存在している。例えば、やたら人を批判する人は、批判される人に非があるかないかは別にして、その人自身が苦しみ、ストレスがある、そうすることがほとんどである。充足している人は寛大である。
 これがわかってくると、もし、あなたが、あなたを傷つけた人と同じ立場にあったなら、あなたもそうするだろうことがわかるだろう。そして、過去の自分も似たようなことを他人にしたことを思い出す人もいるだろう。そうして、他の苦しみが自己の苦しみと考えられるようになる。
 それから一歩進んで、これらの苦しみの経験を自分の貴重な経験、修行者としての財産にすることができることに気付いてほしい。苦しみを喜びとするのである。
 修行者は苦あって信ありである。苦しみは、究極的には、すべて自分の煩悩によって生じていると言うことができる。傷つけられるという意識も、自分が他人に見返りを求めているから生じるのだ。よって、慈愛の実践をしなかったことに対する、神々の祝福のマハームドラーなのである。
 多くのサマナは、まだ何年も何十年も生きるだろう。その長い修行の中では、修行の比較的初期において、煩悩による苦しみを経験することができる方が、そうでない場合よりも、修行者としては幸いではないかと思う。
 現世的な幸福に長い間浸っていれば、煩悩を修習する。しかし、精神的な喜びにせよ、肉体的な喜びにせよ、この世の幸福の一切は無常であり、その裏には苦しみがある。例えば、人生後半に、老・病・死などによって、いろいろな幸福は一気にはぎ取られていく。そのとき、執着があれば、魂は激痛を感じる。そして、それだけでなく、通常は死んだ後も強い煩悩・執着が残り、三悪趣に落ちる。
 そうならないために、真理を悟るカルマのある修行者は、大いなる祝福によって、人生の早いうちに、自己に内在する煩悩による苦しみ、カルマ落としを経験する。それによって、煩悩から意識を離しやすい状態を得る。これがマハームドラーの原理である。
 事件後も頑張ったサマナの人たちは、二つの達成を得ていると思う。
 第1に、多少の破戒はあったかも知れないが、出家教団に居続け、出家修行者としてのカルマを形成できたこと。
 第2に、見返りを求めた心の働きは苦しみをもたらすということを体験できたこと。そして、これが、苦あって信ありのごとく、あなた方を真の慈愛の実践に導く、偉大な経験になるだろうこと。
 それから、もう一つ。とても重要なこと。
 苦しみを経験した人ほど、同じ苦しみに苦しんでいる他人に対して優しくなれること。慈悲の実践の土台が強まること。これは説法にもあることだ。
 そして、心の余裕が少しできたら、自分よりも何億倍も苦しんでいる三悪趣の住人のことに思いを馳せよう。我々は皆、すべての魂をマハー・ニルヴァーナに導きたいという発願をしている。
 人の苦楽、幸福感・不幸感というのは相対的なものである。自分がいくら教団の中の人間関係で傷つけられたとしても、アフリカでは、内戦と飢餓で多くの命の奪い合いが続いている。そして、動物や地獄の住人などの苦しみはその比ではない。これらすべての魂を前にして、なぜ、教団のサマナの中で、1人でも、他を恨み続けなければならないほど傷つけられ、不幸になったと言うことができるのだろうか。
 だから、次の経典と説法を引用したい。これは慈愛の大神聖天へ誘う法則だ。
「しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。呪う者を祝福し、辱める者のために祈れ。(中略)自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいのことはしている。(中略)あなた方は、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなた方はいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、情け深いからである。あなた方の父なる神が慈悲深いように、あなた方も慈悲深い者となれ」 (「ルカによる福音書」 第6章27〜36)
 これは大変重要な愛の定義である。つまり、キリストは前者において愛情を説き、後者において愛を説いたのである。愛情と愛との違い、それは、愛情とは見返りを求める愛なのである。あるいは愛情とは、恩返しをする愛なのである。ところが慈愛とはそうではなく、降り注ぐ愛なのである。つまり、心を成熟させる実践、これが慈愛なのである。

 さて、教団の意識状態に話を戻そう。
 先に述べた流れのために、多くの人が、見返りを求めたワークをする傾向が強まったように思う。ワークにおけるプライドの充足、地位・位置付けなど、認められることを最大の動機としてワークしている人が少なくないのではないか。もっと単純に表現すると、自分が愛されたい、大切にされたい、必要とされたいと思ってワークしている人が少なくないのではないか。
 もちろん、昔も、他から認められたいという気持ちがないわけではなかった。というより、グルから認められたいから頑張ったという人は多かったろう。
 しかし、同時に、法則として、見返りを求めない愛の実践とか、無心の奉仕というものが頻繁に説かれていたように思う。
 さらには、あるステージ以上になると、マハームドラーという訓練があった。わたし自身も、ワークがいきなり変わったり、常識的には理不尽と思われるような対応をされたこともあった。
 もちろん、これらの対応は、非常に緻密に行なわれていた。説法にあるとおり、グルはまず、法則と称賛を与え、その後にカルマ落としをする。法則を与えるという中で、見返りを求めない愛の実践の大切さも説かれる。カルマ落としの法則を修習する。また、正しく法則を実践し始めた人を称賛することで、その人はますます法則の実践にやる気も出るし、信頼関係も生じる。具体的には、主に、クンダリニー・ヨーガの成就者になったあたりから、激しいカルマ落としが始まった。他の人の経験もかなりそうである。それがマハームドラーの土台となっていく。
 だから、見返りを求めない愛の実践をしなければならないと言っても、称賛を与えることは大切だと思う。すなわち、称賛を与えると、その人に見返りを与えることになるから、与えるなと言っているのでは決してない。導く立場にある人は、導く対象をよく観察し、その人のステージにおいて、ケース・バイ・ケースで適切な称賛を与えるべきである。このことは以前書いた。
 しかし、あなたが他人を導く場合ではなく、自分自身に関して、他人から称賛を得ることや、認められること、大切にされること、必要とされることなどばかりを求めてワークをすれば、少なくともある段階以降は、修行を遅らせることになるだろう。
 それだけでなく、それらの見返りが得られないときが必ず来る。あなたがそうであるように、多くの人は自分の幸福を求めて生きている。もし、周りの人があなただけのために生きているのなら、あなたが見返りを求めても、常に得ることができるかもしれない。しかし、皆が、あなたと同様に、見返りを求めているのがほとんどだとしたら、見返りが得られない場合があるのが当然である。そして、往々にして、見返りの奪い合いが起こる。さらに、大切にしてくれた人、認めてくれた人と別れるときも必ず来る。ここ数年多くの人が逮捕、脱会して、この経験をした人は多いだろう。しかし、事件のような特別なことがなくても、人生は無常だからそういうことは長い目では必ず起きる。
 こうして、見返りを求める限り、失望・悲しみ、恨み・憎しみ、嫉妬・闘争、不安・恐怖が必ず生じる。そして、見返りを求める心の強い者ばかりが集まると、明るく軽い世界ではなく、愛著・嫌悪によってどろどろした、重たい情の世界が形成されていくだろう。
 教団全体を見ると、このような人間関係のトラブルは、少しずつ減少しつつあるが、過去の経験によって、依然として、上下・左右の人間関係で続いている側面もある。それは、出家教団を精神的にも、物質的にも、経済的にも、あらゆる意味で阻害している部分がある。だから、出家教団の維持、発展には、見返りを求めない愛の実践が非常に大切だ。
 これを確認するために、次の経典・説法を引用したい。
●愛すること・2――教団を維持するための戒め
「わたしはあなた方に新しい戒律を与える。お互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、お互いに愛し合いなさい」(「ヨハネによる福音書」 第13章34)
 「新しい戒律を与える」というのは、在家の戒には、まず、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語、キリスト教的な表現を使えば、偽証をしない等の戒律が存在するわけだが、それに加えて、ここで弟子である出家修行者に慈愛の戒を与えたわけである。では、なぜこの慈愛の戒を与える必要があるのかというと、これらの在家の基本的な五戒だけでは、神聖世界へ至ることはできない。これは、仏典にも述べられているとおり、神聖世界へ至るためには慈愛が必要である。そして、慈愛というのは何かというと、とにかく法則に従う者に対しては、じっと耐えながら相手の成長を見守り、援助を施し続けるという心の働きであると。
 そして、ここで新たに戒律として与えられたというのは、つまり、これはサキャ神賢もそうだが、自分自身が入滅なさる前に教団の規定を設けられたわけである。それまでは、サキャ神賢がいて、弟子たちは皆平等であるという教えだったのである。ところが、入滅した後、教団がどうなるかというのは、すごく重要な問題で、それに対しては、例えば下の者は上の者に対してこのように呼びなさいとか、上の者は下の者をこのように呼びなさいという、教団内の法則を保全する、法則を失わないための戒律を与えられるわけである。キリストも同じように、死ぬ前、教団を維持するために、法則を残すために、その新しい戒律を与えられたのである。
 ここで、「わたしがあなた方を愛したように」というポイントがある。これは何かというと、要するに愛というと普通愛情と錯覚を起こしがちだが、そうではなく、キリストが弟子たちの成長のために多くの法則を説き明かし、そして多くの精神的な援助をなしたように、お互いにお互いの欠陥の部分については補い合うような法則を説き明かし、そして精神的な援助をしなさい、ということを言っているのである。
 この説法から明らかなように、グルがいない教団においては、慈愛の実践こそ、聖なる出家教団の維持・発展のためのキーワードなのである。上下・左右の区別なく、見返りを求めない愛を他に与える人が多くなり、愛を求め合うのではなく、与え合うようになれば、奉仕活動も修行も、すべてうまく回転していくことは間違いはない。
 そして、これがイエス・キリストが遺言のように与えた戒めであることが何とも興味深い。今の我々にこそ、まさに必要な言葉であろう。
 また、ここには、ときどき言われる問題として、グルに愛著した形でステージを上げた一部の女性の修行者が、グルがいなくなった教団において、精神的な行き詰まりを感じていることに対する示唆も現われているように思う。
 それは、「わたしがあなた方を愛したように、お互いに愛し合いなさい」という点である。
 すなわち、これまでは、グルが愛を与えてくれて、それによって修行してきたけれど、これからは、グルが与えたような愛を、あなた方が他に対して、互いに対して与えるように努めなさいということだ。他に求めることから、与えることに転じなさいということだ。それがその人たちの行き詰まりを切り開く心の持ち方なのではないだろうか。
 さて、少し脱線するように感じるかも知れないが、「女性はグルに愛著しなさい」という教えについて、自分なりに考えたことをもう一度述べておきたい。なぜなら、この教えが、間違った形の愛著の正当化に利用される傾向があることを懸念しているからだ。
 まず、一般的な意味では、この教えは、愛著を肯定しているようで、実は愛著を減少させようとしているのではないかと思う。なぜなら、近くの男性に愛著し、独占することに比べると、物理的に遠くにいるグルに愛著して奉仕に励む場合、具体的な煩悩的な見返りを求めている状態ではないと言うことができる。前にも述べたように、法則には目的と手段がある。手段が愛著であっても、その実、その目的は、愛著の緩和であることも考えられる。
 第2に、マハームドラーのプロセスにおいては、特殊なグルへの愛著が説かれている。それは、迷妄を捨断するために、他の異性ではなく、グルに愛著する。その後に、愛著の裏の邪悪心・同性への嫉妬などの苦しみを経験する。そして、その苦しみに対して法則で対処し、愛著ではなく、見返りを求めない慈愛に昇華していく。これが全体のプロセスである。しかし、苦しみを感じたときに慈愛に昇華せず、他の異性に走り、迷妄に戻ってしまう場合もある。
 グルが物理的に去った後においては、それまでグルと個人的な接触が多かった一部の女性を中心にして、愛著の対象を失った苦しみが生じただろう(それは男性も多かれ少なかれそうであるが)。その苦しみとこれまで修習してきた法則を背景に、愛著から慈愛に飛躍できれば、それこそマハームドラーだと思う。いや、慈愛に昇華できれば大乗のヨーガだろうか?
 もし、他の異性に愛著すれば、迷妄に戻ってしまうだろう。しかし、他の異性に愛著してたとしも、その裏の苦しみを必ず感じることだろう。そういう人は、その苦しみこそ、やはり、迷妄・愛著の双方を捨断し、慈愛の実践に入る以外は、真の幸福の道がないことを教えてくれていると理解するといいと思う。
 ところで、一部において、女性蔑視の観念があったせいか、女性自身が、「女性はカルマは悪いから」と考えて、すぐ妥協してしまう傾向がないかと少々懸念している。実際に、愛著の対象なしに修行している女性は数多くいるし、今生愛著を活用した人も、コツコツした努力を積み重ねれば、慈愛に昇華できない理由はないと思う。
 むしろ、すべての女性が慈愛に昇華できることを私は確信している。できないと思ったら、できるものもできなくなってしまう。それに、心理学的には(そして私としては真理の法則においてもそう思うのだが)、「できない、難しい」の背景には、多くの場合、「したくない、しなくてもいいんじゃないか」という意識が隠れている。人間は、これしかないと思ったら必死に努力し、だいたい達成してしまうものだ。よって、この問題は、できないという卑屈の問題ではなく、したくない、しなくてもという無智の問題ではないだろうか。
 とはいえ、愛著やプライドが満たされないと、頑張れない、燃えられないという気持ちはよくわかる。アナハタ・チァクラは人間の根本的なカルマであり、人間に生まれる煩悩に関係し、人間が活動する主たる動機である。
 これを超えようとするときは、わたしの経験でも無気力になった。
 わたしはクンダリニー・ヨーガの成就をした後、ジュニアーナ・ヨーガの成就へ向かったが、その間には無気力になったこともあった。クンダリニー・ヨーガの成就までは、「自分は偉大な成就者になり、大きな救済をするのだ、自分がやらなければならない」と考えて、それを動機に猛然と頑張っていたこともあった。こう書くと綺麗に聞こえるかも知れないが、その実体はプライドである。自分でもそう気付いたし、グルにも後からそうはっきり言われた。あの時期は、「お前のプライドを最大限活用してステージを上げようとした」と。
 しかし、クンダリニー・ヨーガを成就した後くらいか、一つの達成をしたと満足して、プライドがある程度充足されてしまったのかもしれない。情けないことに、だんだん、怠惰にもなってきた。徳切れという状態であったかもしれない。そして、無気力になってきた。グルには、「お前のアストラルのデータを消しているのだから無気力になるのは当然だ」とも言われた。
 それだけではなく、その後のワークにおいては、プライドを破壊するマハームドラーの連続が待っていた。好きなこと、得意なことを皆捨てる、プライドを捨てるというのが課題だった。それによる揺れ、疑念、無気力、そして執着を落とすときの大変さを味わった。
 その間は、プライドを揺さぶられ、疑念も出てくる中で、法則を自分なりに修習して、自分を支えるように努めた(というより、それしかなかったという感じである)。今ひとつ修行ができないので、修行するぞと何回も自分に言い聞かせたりして、今思うと、自然と決意をくり返した(その当時は決意のテープとかはなかった)。現世執着がぶり返すので、繰り返し繰り返し、現世のむなしさと修行の価値に関する思索と記憶修習を繰り返した。そうして、少しずつ少しずつ、新しい自分の修行動機を構築していった。
 一部の女性の場合は、プライドというより、グルへの愛著が活動動機だった人もいるだろう。ただ、グルが自分に愛を与えてくれる、大切にしてくれる、という状態の裏には、プライドを満たしてもらっている側面が必ずある。実際、プライドと愛著は、同じアナハタ・チァクラに関係した心の働きだ。他の女性と違って、グルに個人的に引き上げられれば、この傾向は大きくなるのかもしれない。
 また、この問題は女性に限ったことではない。昔は、「救世主の弟子」、「選ばれた魂」、「3年で成就、1年で成就」といったような言葉がよく使われていた。これは、結果として、あなた方のプライドを刺激する側面があったろう。それらのイメージで、純粋な慈愛ではなくて、プライドを動機として、頑張っていたサマナも中にはいるかもしれない。
 そういう場合は、事件後の今は、昔のようには、頑張りにくいと感じる人もいるだろう。そして、昔と比較すると、全体的に、少々、無気力感、脱力感、冷めた感覚があるかもしれない。
 しかし、この現象は否定的にとらえる必要はないと思う。なぜなら、プライドではなく、真の慈愛に基づいて、全力で救済活動ができるようになる課程なのだから。すべての現象には苦楽表裏の原則がある。不幸の裏には幸福がある。何かが壊れれば新しいものが創造できる余地が生まれるのだ。
 アナハタ・チァクラを使う修行にも苦楽がある。これは短期的にはやる気が出る。もともと人間の最大の煩悩・活動動機である。
 しかし、それによる苦しみも当然ある。一切は無常であるから、それが満たされなくなるときが必ず来る。それだけではなく、愛情やプライドを求める限り、エゴの世界が形成され、他と争い、傷つけ合うことは避けられない。
 そして最悪の場合として、魔境がある。魔は、プライドに付け込んでくる。あなたがグルと合一した、最終解脱したと語り始める。福岡事件の際も、アナハタ・チァクラがキーポイントだった。他のケースも分析すると、必ずプライド・アナハタがポイントになっている。
 よって、最終的には、プライドから慈愛に昇華させる道に入っていくことになる。そして、その過程において、いったん無気力になることがあったとしても、それはプロセスなんだと考え、肯定的な意識を持つべきだと思う。そこで卑屈になったり、落ち込んではいけない。
 実際、説法には、アナハタ・チァクラが開くときには無気力になるという記載があることを覚えている人もいるだろう。これは、より高い自分を形成する過渡期なのだ。そこでコツコツと努力して、乗り越えなければならない。プライドではなく、慈愛を含めた法則の記憶修習を繰り返すうちに、乗り越えることが必ずできると思う。
 そして、法則を修習し、少しずつ、純粋な慈愛が増大すれば、いつの時代においても、多くの魂が苦しんでいる人間社会、欲六界が、わたしたちの目の前に広がっていることには、何の変わりもないと感じられるだろう。
 さて、愛著を超えた、見返りを求めない広大な愛の実践は、冒頭に引用した歌詞にあるように、真に幸福になる道である。
 見返りを求める限り、対象・外界は無常であるから、必ず苦しみが伴う。見返りが与えられないときの失望、憎しみ、恨み。見返りを求める他人との闘争、嫉妬。見返りが得られないのではないかという恐怖、不安。守るための緊張・ストレス。ありとあらゆる心の苦しみの原因となる。
 見返りを求めない慈愛の実践には、こういうことはない。よって、心が解放されていく。その一方、純粋に他を利することで、多大な功徳になる。心が広がっていく。上位のチァクラまで浄化され、功徳が増大し、歓喜と智慧に還元されていく。
 そして、説法には、それ以外にも、様々な恩恵が説かれている。
●大神聖天への転生
 (中略)ではこの、まず、愛情と愛について検討してみよう。愛情というものは、対象が特定である。例えば、それは5人かもしれない、10人かもしれないが、すべての生き物ということはあり得ない。しかし、慈愛というものは、すべての生き物に対して施す、崇高な心の実践、言葉の実践、行為の実践なのである。
 次に、愛情は、必ず対象からのお返しを求める。例えば、わたしがこれこれやったんだからこうしてほしいなとか、あるいは実際にそうさせるとかね。ここで問題になってくることは、そうしてほしいなと思う心の働き、これも、結局は取り引きの心なんだということを認識するべきなのである。
 一般的に、わたしたちは、対象に対して、具体的に結果が返ってこない場合、それを愛情ととらえづらい。しかし、今言ったとおり、結局わたしたちを構成してるものは、身の行ない、言葉の行ない、そして心の行ないだから、心の行ないにおいて、それを、見返りを求めるような働きが出た場合、当然それは、利益還元の心の法則なのである。よって、利益還元の心の法則は、わたしたちを不幸に導き入れる。なぜ不幸に導き入れるかというと、すべての現象に対して、結果的に、何らかの瞬時に返ってくる結果を求めるがゆえに、より大きな自己の発達・発展というものを望めなくなっていくのである。
 では、慈愛はどうであろうかと。これは対象がすべての魂であるから、そのすべての魂から、何かの恩返しをしてほしいと思うことは当然あり得ないわけであるから、その心の働きは、純粋に神としての心の働きへと変化させる。神というものは、特に高い世界の神というものは、わたしたちの成長を見守り、そして、その成長によって何かの恩返しをしてほしいとは考えない。つまりわたしたちの、この愛の心の実践は、神聖天、大神聖天へと転生するための心の働きなのである。わたしが高い神といったのは、大神聖天のことである。(中略)愛情は瞬時の、しかも下劣な喜びしかわたしたちに与えない。しかし慈愛は、わたしたちを崇高な大神聖天の道へ至らしめてくれるんだということを認識するならば、君たちの今日からの慈愛の実践は、大きな利益をもたらすことになるだろう。
●悟り・偉大な空性の体験
 マハームドラーというものは何かというと、偉大なる、ね、覚醒と、あるいは偉大なる空の体現というふうにあなた方は考えることはできるわけだけども、(中略)要するに、あなた方がもしだよ、ワークをやって、そのワークというものは全く見返りがないと、あなた方に。それでいてあなた方全く雑念が出てこないと。否定的な感情も出ていないと、ね。一切が肯定的であると。あるがままに見ることができるようになったとき、もうあなた方は既に、いいか、悟っていると言えるんだよ。そしてその状態で瞑想をするならば、あなた方は偉大なる空性の体験をすることができる。
●他に安らぎを与える甘く優しい心
 では、相手に対して安らぎを与えるポイントとは何かと。これは、「四つの偉大なる心の実践」という仏教の実践があります。
 それは何かというと、まず、すべての魂に対して見返りを求めない心で成長を願う心と。この、見返りを求めないで、成長を願う心の実践を繰り返し繰り返し行なっているならば、その人の心はどんどん甘くなると。そして、この見返りを求めない優しさというものは、自然と異性を引き付けるようになります。
●他の心が通じ合う
 大乗仏教の基本的な瞑想法の一つである聖慈愛の瞑想を、絶えず行なわれると非常にいいんじゃないかと思います。それはどういうことかというと、まずその人の利益になる、しかし自分はその見返りを求めないという心の働きです。で、これをなすならばいかなる人、まあもちろん初めから敵対しようとする心を持ち合わせていらっしゃる方は別にして、そうではなくていかなる人においても、必ず心が通じることができます。そしてその人を喜ばせることができますし、その人の幸福へ至らせる方向へのアドバイス等を行なうことができることは、まあ経験的にあなたにお話しすることはできます。
 このように、慈愛の実践は、真に高い転生、悟り、他に敬愛される魂になる道である。逆に言えば、見返りを求めたワークや修行、認められたいためのワークや修行は、真に大切にすべき恩恵は得られないということになる。求めると得られない。与えれば与えられるということである。
 では、慈愛を深めるにはどうしたらいいのであろうか。それはやはりコツコツと記憶修習・記憶実践するしかないようである。プライドで燃えたようにできなくても、腰を落ち着けて、焦らずたゆまずやればいいだろう。だから、まず最初になすべきことは、慈愛の実践の大切さを理解し、それに向かっていくという決意である。方向性を定めることである。
 最後に実践法に関する説法を引用して、今回の寄稿を締めくくりたい。
●見返りを求めないぞという記憶修習と瞑想
 見返りを求めない心というのは、記憶修習プラス、見返りを求めないぞという、まあそうだね、そういう記憶修習するしかないね。
 そして、これは、よくわたしの行なう瞑想だけど、地獄界を意識すると。餓鬼界を意識すると。動物界を意識すると。人間界を意識すると。意識堕落天を意識すると。あるいは戯れ堕落天を意識すると。こういう天界を意識するね、わざと。そして、「ああこの衆生はここで引っ掛かってらっしゃるんだから、こう頑張ってほしい」とか、あるいは「こういう衆生は今こういうことで苦しんでらっしゃるんだから、それを乗り越えてほしい」という瞑想をすると。これが俗にいう、経典にうたわれている、「第1に、第2に、第3に、第4に広がって、深く深まって云々」という一節があるんだけど、ということなんだね。で、こういう日々の瞑想している人は、ものすごく心が柔らかく、綺麗になり、先程言った、愛の反対の邪悪心は完全に止滅します。
●発願・決意
 聖慈愛の実践は見返りを求めない実践だよね。例えば対象から何かを得ようとしているのかな。何か希望があって実践しているのかな。ではないよね。魂のシステム、魂の本質的な流れというものを理解した上で、すべての魂はこのようにしなければ本当に幸福にならないんだという発願のもとに実践しているんだよね。(中略)では、それはどうしたら理解できるようになるんだという、次は問題になるわけだけど、これは発願しかないんだ。発願。発願を例えば500遍、5000遍、1万遍、10万遍と唱えていくうちに、わかってくるんだ。で、その発願が何かというと、君たちの場合は、例えば「信徒用決意」(中略)なんだ。わかるかな、言ってることは。これを唱えてると『タターガタ・アビダンマ』の意味がわかるよ。
 すべての覚者方に帰依いたします
 すべての真理勝者方に帰依いたします。
 「慈愛の教師」である、到達真智運命魂、未来の真理勝者に帰依いたします。