マイトレーヤ正大師特別寄稿 第33回
平等心と人間関係の改善
(アレフテレビ放送の説法に加筆・編集したものです)

 シヴァ大神祭等でお話ししたように、教団は一種の意識改革を進めるべきだと考えている。それは、愛著・嫌悪から離れ、真の四無量心の実践を深めることである。そして、その四無量心の実践においては、我々サンガの具体的な日々の実践において、当てはめられなければならない。この実践によって、去年、システム的に再生された教団は、今年は精神的に再生されることになるのではないかと思う。
 まず、四無量心のベースは平等心である。平等心とは、好き嫌い、愛著・嫌悪の対象をなくして、すべての魂を愛することである。
 そのためには、苦しみだと思っているものが、その裏に喜びがあり、喜びだと思っているものが、苦しみをつくり出す側面があるということ、すなわち、苦楽表裏を理解することが大切だ。
 苦しみを喜びにするという教えが、カルマ落としである。苦しみを感じるということは、その部分に自分のとらわれ、煩悩があり、それを気付かせてくれているのだから、グル方の叱咤、祝福と考えると、法則でも、苦があってこそ初めて信がある。しかし、皆さんが、煩悩的喜びに巻き込まれると、解脱・悟り、煩悩破壊には役に立つ煩悩的な苦しみが苦しみに思え、喜びにできない。ここに注意すべきだろう。
 また、喜びの裏にも苦しみがある。あなたを常に称賛したりして、一見、喜びを与えてくれる人がいても、その人に愛著すれば、その逆にあなたを非難する人、傷つける人が嫌いになるだろう(よって、導く人は適切な称賛を与えるとともに法則を与えるのが原則である)。また、性欲が増大し、異性への愛著が強まると、その反動で、同性への嫌悪・嫉妬などは強まる。
 他の成就者の説法では、女性の修行者がグルが近くにいなくなった苦しみを感じているというのがあった。わたしが考えるに、これは正確に言うならば、グルに個人的に引き上げられた経験のある一部の女性の修行者について、グルが身近にいなくなったことで、苦しみを感じているというのが実態ではないかと思う。
 一方、元々、それほど個人的な関係がなかった人は、今も昔も条件は大して変わらないのだから、そのような苦しみは少ないのではないだろうか。やはり、外側の喜びの裏には苦しみがある。真に幸福になるには、三宝の根本的な意思である、解脱・悟りと、四無量心の実践をすることが大切だ。つまり、だれかに求めるのではなく、他に与えることが最高の幸福の道であるということでないかと思う。
 もちろん、高い成就者に愛著する、求めるというのは、ステップとしてはある。しかし、マハームドラーの修行のプロセスに関する説法をよく検討すると、愛著した後に、それによって生じる苦しみを乗り越えるために、法則に沿って、見返りを一切求めない愛、すなわち、慈愛の実践に入っていくとされている。愛著から慈愛に昇華されねばならないというのが、真の法則である。
 よって、そういう修行者の方たちは、今感じている苦しみこそ、高度なマハームドラーだと考え、求める心ではなく、見返りなく他に与える心、慈愛を培う方向に転換し、三宝に真に合一してほしいと考える。そのための産みの苦しみとして、一部の人たちが感じている苦しみは良いことだと考えているし、それを見守りたいと思う。
 さて、平等心を阻害するきっかけになるものの一つとして、誤った上下関係の観念がある。
 教団内では霊的ステージを基準とした上下関係というのがある。本来、霊的ステージが高いという意味合いは、他より上で、他を支配をするべきだ、ということではない。それは、他より、平等心を含めた四無量心が深い、つまり、他より心が広い、ということを示しているのである。よって、ステージの上の者が下の者より常に正しいかということに力点があるのではなく、ステージの高い者の方が、他人を自分と同じように大切にでき、その良さを称賛したり、活かせたり、または、その苦しみを自分の苦しみと同じように哀れむことができるということが重要なのである。
 だから、例えば、自分より他が正しい場合は、他の考えを取れることも、ステージが上である証拠である。他人の良さを引き出せることも重要である。例えば、ある程度の段階にあるサマナに対しては、自分の指示でそのワークをすべて仕切るというのではなく、そのサマナに機会を与え、自分で考える能力を培えるようにして、育て上げることも考えなければならないだろう。そうしなければ、自分と同じステージに引き上げることはできない可能性もあるのだから。
 この実践の背景には、すべての魂が平等に真我がある、仏性があるという思想を置くといいと思う。すべての人々、法友に、ステージの違いに関係なく、基本的には、その真我の現われ、功徳、善業、長所というものが存在する。悪業しかない人は存在しない。
 もちろん、人によってはなかなかその部分が現象化せず、潜在的に存在するだけの場合がある。よって、その部分を引き出そうという心構えが必要だし、それが慈愛の実践の一つだと思う。何でもかんでも相手を大切にすれば、相手の悪業の部分を拡大してしまうだろうから。しかし、ここで強調したいのは、どんな人でも潜在的には、善業を有しており、真我が内在しているということを前提に他人を見て、その成長の可能性をできるだけ活かしてやる心構えである。
 しかし、この原則に反して、ステージが上だとされている人が、普段から慈愛の実践、育み育てる実践をしないならば、下の人に対して、権限・権力を行使する場合などにトラブルが生じるだろう。こういうケースが全体ではないが部分的には教団の中にも存在するようだ。権力・権限の裏には義務・責任があり、権力の喜びの裏には、義務の苦しみがある。この意味でも苦楽表裏なのである。
 これは、自分と他人を平等に見ていれば起こらない。もし、自分と他人を平等に見ず、上は下を支配するべき、服従させるべきものである、といった心にとらわれれば、それが生じるだろう。これは愛著の一形態だと考えられる。
 さらに重要なことは、逆もまた真なりということである。すなわち、上から下の問題だけでなく、下から上への問題がある。
 現在のサマナは、95年までと比べれば、上下関係というのが相対的なものであるという意識が強くなっている。すなわち、グルではないのだから、ステージが自分より上だといっても、常に正しいとは限らないのではないかという考え方だ。
 これは現実的な見方だろう。成就者は神ではないのだから。ステージが高いというのは、総合的に、相対的に、優れているというだけで、常に正しいとか、常に従うべきであるというのとは違うだろう。
 しかし、上下関係が絶対であれば生じない義務が、上下関係を相対化したならば生じるということも認識する必要がある。つまり、上を絶対とするなら、指示に従うだけでよく、上を気遣う必要はない。なぜなら、完全な者を気遣う必要はないからである。
 しかし、相対化したならば、相手も自分より少ないとはいえ、苦しみを有した人間なのである。だとすれば、あなたとの対応において、万一間違いを犯したとしても、それを許さねばならない。実際、上の人だからこそかかる様々な重圧、責任がある。いろいろな困難、ストレス、苦しみがある。それを理解して許さねばならないし、理解した上でなら、うまく付き合えるように巧みな対応をすることができるだろうし、それが必要になる。
 しかし、上に常に不満を言うサマナは、上を相対化して従うことはしない一方で、上の苦しみを気遣うことはなかなかしない。指示に従わない部分では、成就者への疑念を持ち出す一方で、成就者が困難を内側に抱えていても、成就者なのだから自分が気遣う必要はないと考える(か、全く気付いていないか、気付こうとしていない)矛盾に陥りがちである。対応が自己優位である限り、人間関係はうまくいかないのである。場合によっては、予想に反して上の方が傷つきすぎて、ワークを離れてしまうというケースさえも、ここ数年の間に少なからずあった。
 これらの問題を解決するのが平等心である。平等心はすべての魂を慈しむ心である。しかし、上下関係というものによって、上が下を慈しまずに支配のみしようとしたり、下が上を慈しまずに反抗のみしようとするなら、教団全体が愛著・嫌悪の世界になる。よって、上下関係にとらわれることなく、上も下も、すべての法友を慈しむことが大切だ。
 そして、教団における一部の上下関係の問題については、だれの責任でもないと考えるべきだと思う。教団の問題は、当然のごとく上の人に責任がある。しかし、責任というのは現世的な観念であって、上を気遣わない下のカルマによって、下を気遣わない上が生じているという側面もある。
 真理の法則はすべてが相互依存によって存在していると説く。カルマの法則も、傷つけられる場合も、傷つける人のカルマと、傷つけられる人のカルマの双方が存在するのが、その現象が生じる条件である。よって、この問題を解決し、教団全体を良くするには、上と下の双方が協力して、各々が改善の努力をする必要がある。もし、この問題に関して、上か下かのどちらかを、犯人扱いし、敗者の烙印{らくいん}を押すならば、勝者となった人が、また同じ罪を犯すだろう。現世では、前の権力者の間違いを批判して権力を取った者が同じ間違いをよく繰り返す。すべてがカルマの法則で生じているのが真実なのに、自他を区別する心があるならば、だれが上に立っても、永久に理想の組織・世界を形成することはできないだろう。
 よって、上下関係の問題は、双方に平等に責任があると考えるべきだ。また、あらゆる人間関係の問題は、すべてのサマナの責任だと考えるべきだ。そして、その解決も、平等心に基づいた慈愛の実践によってのみ解決することができる。
 仏典の有名な言葉として、
 憎悪は憎悪によっては終わらない。慈愛によってのみ終わる。
という言葉がある。
 嫌悪・憎しみの対象は、自分の嫌悪・憎しみのカルマがつくり出している。よって、憎しみの関係を終えるには、見返りを求めない愛・慈愛の実践しかないということである。
 あなたが慈愛の実践を始めれば、それはあなたの周りの人のカルマが変わり始めるという流れをつくる。よって、怒りを感じた法友に対して慈愛の実践を始めることが大切だ。
 教団はここ数年間、いろいろな問題に悩まされた。上下を問わず、物理的にグルを失ったというストレス、社会的な圧力によるストレスがあり、一般のサマナは現世に出なければならないストレス、上層部は教団維持しなければならないというストレスなど、様々なストレスがあった。そのために、上下左右において、いろいろなぎくしゃくがあった。
 その際に生じた、憎しみ・恨み・怒りといったもの、これを完全に終わらせるべきときがそろそろ来ている。そのためには、すべての人が、憎しみを忘れ、慈愛の実践を始めるべきである。
 今回の内容は、今年の教団の一つの大きな課題である。そして、今年は精神的に充実する年となる。これまで一定の実践に成功した下位チァクラの浄化に加えて、上位のチァクラの浄化が進むだろう。そして、今年の終わりには霊的に充実することになるだろう。
 そして、その実現は、誰の力でもなく、他ならぬ皆さん一人ひとりの慈愛の実践にかかっていると思う。




付記
 さて、慈愛の実践のためには、心の持ち方、考え方を変える以外にも、いろいろした方がいい工夫がある。慈愛の実践のためには心の安定が必要だから、しっかりイニシエーションを受け、心を安定させることも一つだ。それから、もう一つは、食事をバランス良く取ることだろう。
 ビタミンB群が不足すると、神経の働きが不正常になり、精神状態が悪くなる。
 例えばビタミンB1が不足すると、体がだるく疲れやすくなったり、動悸・息切れがするようになる。精神的には、憂鬱・イライラ・気難しく消極的で不安定な状態に陥る。
 アメリカのメイヨー・クリニックのビタミンB1を不足させる人体実験では、1週間目には、人間として共同生活ができなくなる状態となり、3週間目になると、身体的な脚気{かっけ}症状(だるい・疲れやすい・動悸・息切れなど)が出てきたそうだ。
 また、ビタミンB3(ナイアシン)が不足しても、精神不安定や胃腸が弱くなるなどの症状が出る。
 また、腸の調子が悪く、ビタミンの吸収の悪い人は精神的に障害が出やすいと思われるので、その場合はヨーギー・カレーを取り食物繊維を取り便通を良くしたり、サンカプラクサラーナ・クリアを1週間に1回やったりして、腸の調子を良くする必要があると思う。
 そして配布されているマルチビタミンを取り、不足しがちなビタミンを補う必要があると思う。そして、パン、メイト、ラーメンは小麦粉を使っていて糖分が多いため、ビタミンB群が不足しがちになるので、ご自由などを貪らないことが必要だと思う。
 ビタミンCは多くの働きがあるが、精神的な面ではストレスに耐える力に関係している。ビタミンCは副腎に多く存在していて、副腎皮質ホルモン・副腎髄質ホルモンというストレスに対抗するときに分泌されるいわゆるストレスホルモンを作るときに消費される。またビタミンCはたんぱく質をもとに神経伝達物質を合成するときに必要なので、ビタミンCやたんぱく質が不足するとそれらがうまく合成されずバランスが悪くなり、精神不安定・躁鬱{そううつ}・精神病などになる。
 以上のことからたんぱく質の不足もビタミンCの不足も精神と肉体に影響を及ぼすので、例えばみかんを一度に3日分供養してあとの2日間は供養しないというようなときは、ビタミンCの不足になってくると思う。
 だから、バランスよく取るのが無難だと思う。同様に豆乳も2日で1本だが、1日で1本飲んで翌日飲まないとたんぱく質の不足になり、その影響を受けると思う。
 以上からお供物をバランスよく取ることがいいと思う。
 正しい心の持ち方、イニシエーション、正しい食事などを組み合わせ、神々の世界の魂の関係である、慈愛の世界を現出しよう。