マイトレーヤ正大師特別寄稿 第32回
四無量心と、法則の目的と手段
(シヴァ大神祭の説法を編集したものです)

 四無量心の教えにもいろいろなものがある。昔ブータンに行ったときに聞かせていただいた秘儀説法では、二つのタイプの四無量心の実践を教えていただいた。まず、一つ目の四無量心では、他人の現世的な長所、例えば容姿・資産・地位さえも称賛する。その目的は、自分が現世的に恵まれた他人に対して嫉妬することがないようにするためである。もう一つは、真理と関係ないものは称賛せず、真理に関係するものだけ称賛する四無量心である(ここでの真理とは、世俗の真理をも含む広い意味での真理・叡智のことではなく、主にカルマを浄化し煩悩破壊を進める、基本的なダルマのことである)。
 サマナの場合は、後者の、真理とか聖者の称賛をよく修習しているかもしれない。しかし、この四無量心の場合、説法にもあるとおり、既に自己の煩悩が浄化された人については全く問題はないが、依然としてプライド・嫉妬心、愛著・嫌悪というものが強く残っている場合、その浄化を同時並行で進めていないとある種のけがれが生じる可能性があるのではないか、と最近考えるに至った。
 また、教団初期に説かれた四無量心の実践では、まず最初に平等心の教えがあり、そして愛・哀れみ・称賛といった教義があった。平等心とは、すべての魂を平等に愛するというもので、それは、嫌いな人の不幸も悲しみ、嫌いな人の良いところも称賛するという瞑想が説かれている。
 この場合、凡夫を含めてすべての人々(および生き物)を平等に愛する実践をすることになる。すると、教団に敵意を抱く者の長所さえ喜び、称賛し、また、その不幸を悲しむということにもなる。平等心を最初に据えたこの教えは、自己の浄化にも役立つ教えであると思う。そして、修行の初期において、グルはこれを相当修習されている。
 一方、後期のものは、本来の意味合いはそうではないのだが、自己の煩悩が弱まっていないと、微妙なゆがみを生じさせる恐れがあるように思う。すなわち、平等心を最初に持ってくる北伝系の四無量心に対して、後期の南伝系の四無量心は、聖慈愛・聖哀れみ・聖称賛・聖無頓着を説くが、それが硬直した形で解釈されると、真理を実践している法友には慈愛を持つが、真理を実践しない悪業多き魂については見下す心を含みながら哀れみ、グル・法・聖者は称賛する一方で、その反動として非聖者は尊重しない、愛さないという結果になる恐れがある。
 これは、下手をするとステージ別に魂を区別することになり、その結果、自分と他人を区別し、プライド・卑屈を生じさせたり、ステージの高い者に愛著する反面で、そうでない者に嫌悪が生じる。
 よって、平等心を含む北伝系の四無量心の実践の良さを見直してみたい。
 まず、平等心。これはすべての魂を平等に愛する実践である。そして、最終的にはすべての魂を自分と平等に愛するという考え方である。すなわち、他と他の間の区別、自と他の間の区別をなくしていく意味合いがある。
 この平等心を支える一つの教義として、すべての魂には真我があり、礼拝に値するという根元的な真理の法則がある。
 また、よく説かれることで、すべての魂が自分を過去世において慈しんでくれた父母であるという教えもある。今現在は実感できなくても、過去世を見ると、無数の魂が、いろいろな意味でわたしたちに恩恵を与えてくれているということである。
 さて、この平等心というものを考えると、ステージの高い修行者とは何かという点について、もう一度よく考え直した方がいいようである。これは教団にとって非常に重要である。
 すなわち、自分のステージが他より上であるということは、他より自分の方が常に正しく、下の者は上に常に服従すべきであるということではなく、自我に対する執着が少なく、より多くの人を自分と同じように大切にして活かすことができ、例えば、他人の良いところは自分のそれと同じように喜べるとか、他人のけがれは自分のそれと同じように受容できるといった要素が、同時に必要になってくるだろう。
 つまりステージが高いということは、他より優れているというだけでなく、一言で言うならば“心が広い”という側面が必要になってくる。より心が広い者がステージがより高いということである。
 これは、ステージの上下というと、だれかがだれかより上であるという上下関係のイメージですぐできてしまうが、本当は、他にまでより愛が広がるという水平関係のイメージがなければならない。
 わかりやすく言うと、ステージが高い人が自分の周りに多いということは、上がたくさんいるので、それに劣った自分はなかなか昇格できないというのではなく、他にまで愛を広げてはぐくみ育てようとする人が多いので、誰が権限を有するかは別にして、皆がステージをあげやすいということになる。
 この視点からすると、ステージが上であり、そのため周囲に称賛される場合には、他の称賛に自分が錯覚しないようにしなければならない。「わたしは偉いんだ、上なんだ」ということに執着したら、慢を形成し、軽蔑・嫌悪も生じてしまう。
 そこで、自分を客観的にありのままに見る努力が必要だ。自分の成功、功徳は多くの魂の協力によって得られており、一人の力ではないことなどを考え、称賛されたら称賛や感謝を返す努力をすることも大切だ。
 さらに自分の内側においては、慢を捨断するために、努めて自分と他のサマナを平等に扱う努力が必要となる。これを極言してしまうと、「高い地位にありながら、自分は普通の人である」といった見方・視点も必要になってくる。普通の人と思うことで自他の平等を修習するのである。
 もちろん、師・正悟師・正大師が、一般のサマナの前で「わたしとあなたは同じだ」と言い出せば、それは逆に当惑されるケースもあるだろう。頼りにしているのに、見放された感じを受ける人もいるかも知れない。また、より意識レベルの高い者がグループをリードしなければ、全体が正しい方向に導かれなくなる恐れもある。
 よって、わたしがここで言っているのは、あくまでも自分の内側において、慢などの煩悩を捨断するために、常に平等心を修習しておき、ステージの上下に区別なく善いところは善しとし(喜び称賛し)、悪いところは悪いとする(悲しみ哀れみの実践をする)こと等ができるようにしておくということである。
 平等心の修行に関連しても、重要な実践は、先程言ったように、好き・嫌い、愛著・嫌悪の双方の捨断である。人は皆、好きな人・嫌いな人がいる。教団においては、たいてい「認められない、大切にされていない」と考えて、周囲の人に否定的な感情を抱き、嫌悪・恨み・憎しみにまで発展することがある。
 これを取り除くのが平等心の瞑想だ。そして、ではどのように嫌悪の対象と愛著の対象を平等に見ることができるだろうか?
もちろん瞑想法として、説法にもあるとおり、マントラのように「あの人とこの人は平等だ」と唱えることもできる。
 しかし、思索することによってそれを理解するとしたら、苦しみの裏側に喜びがあり、喜びの裏側に苦しみがあるということを理解しなければならない。これは、好きな対象があるから嫌いな対象が出てくるということである。愛著の裏に嫌悪があり、苦楽が表裏であることが理解できれば、いかなる現象も皆平等であるという認識が生じる。
 それではまず、苦しみの裏に喜びがあるという点について考えてみよう。
 その端的な実践が、カルマ落としというものである。「苦しみはカルマ落としであり、浄化であるから良いことなんだ」という修習である。
 ただ、単にそう言われても、なかなか納得できない人も少なくないようだ。例えば、「カルマ落としだ」と言われたとき、卑屈を修習していると、「あなたのカルマは悪く、カルマが悪いから、傷つけられて苦しい思いをするのも仕方がないんだ」と言われていると感じるのかもしれない。すると、「どうせわたしのカルマは悪いですよ」と思うのかもしれない。
 さもなくば、「傷つける人が悪いんだ、間違っているんだ」という憎しみ・恨み・嫌悪が生じる。すなわち、自己嫌悪するか他人を嫌悪するかになる。しかし、この二つは本質的にあまり違いはない。そのどちらもその人を救わないし、苦しめるものである。
 本来、カルマ落としという法則は、もっと積極的で前向きで発展的なものである。まず、「苦あって信あり」という言葉を思い出そう。現世に執着している魂が、どうしたら真理の実践、煩悩破壊に向かうことができるだろうか?
ある人はこの問いに対して、「カルマが良ければ、功徳があればそうなるだろう」と言うだろう。
 それは確かに正しいが、真理に入っていき、煩悩破壊していく意味で“カルマが良い”というのと、現世的な快楽を享受できる意味での“カルマの良さ”は別のものである。後者の場合は、良いカルマ=功徳の消耗の後は、現世的に不幸な状態が現象化し、例えば老・病・死で苦しんだり、悪趣に転生する。
 前者の、煩悩破壊に至れるカルマの良さとは、煩悩の楽だけでなく、その裏の苦しみを理解し、苦楽表裏、一切は苦(ないし一切は空)であることを理解できるカルマが必要である。よって、苦しみの多い不遇の時代を経験しない成就者は存在しない、ということになる。
 よって、身体に障害や貧困などを経験し成就するグルや、サキャ神賢などのように、他人に生老病死の苦悩を見て自らの意思で苦行の生活に入るグルがいる。また、グルと巡り合って、いわゆるマハームドラーを経験し、その苦しみから煩悩破壊していく弟子もいる。わたしの場合は、出家前の現世ではあまり苦しみがなかったので、出家後に、導かれて苦を経験しなければならなかった組である。
 もともと煩悩の喜びの裏に苦しみがある。苦しみは煩悩・執着がある故に存在する。よって、苦しみを経験するということは、煩悩の裏側を教えてくれていると言うことができるのだ。
 ここに、チベット・ニンマ派の伝説的なグル・ロンチェンパの言葉に、次のようにとても味わい深い詞章があるので紹介しよう。

     傷めつけられて初めて、真実の教えと巡り合うことができた。
     解脱の道を示してくれた、あだなす者たちよ、あなた方に感謝しよう。
     苦しみを味わって初めて、真実の教えと巡り合うことができた。
     心に静寂を与えてくれた苦しみよ、あなた方に感謝しよう。
     魔の仕業で初めて、真実の教えと巡り合うことができた。
     恐れを知らぬ心を与えてくれた魔の者たちよ、あなた方に感謝しよう。
     込み上げた瞋りのおかげで真実の教えと巡り合うことができた。
     利他の道を教えてくれた悪意の者たちよ、あなた方に感謝しよう。
     恐るべき悪縁に出合い、真実の教えと巡り合うことができた。
     不動の道を教えてくれた悪縁よ、あなた方に感謝しよう。

 もっと強く言えば、苦がなければ信も解脱もないであろう。苦しみを与える人には否定的な感情を抱くのが人情であるが、真の幸福を得ようとするならば、苦しみの経験を自分の煩悩を弱める動機として活用して、自分の利益・喜びにしないのは全く損である、というのが事実である。
 ところで、サマナ諸氏の苦しみの一つとして、他人に認められないということがあると思う。もしあなたがそうだとしたら、現世無常と考え、称賛を捨断するのも一手だが、真に大きな称賛を後から得るために、今の環境を、目先の称賛にとらわれないための訓練の絶好の機会として喜びにする、という考え方があるだろう。
 よく考えてもらいたいが、あなたが称賛にガツガツし、批判されるといつまでも落ち込んでしまうとしたら、他人の目にはあなたがどのように映るだろうか?
魅力的で称賛したくなるだろうか。それともちっぽけで器量の狭い人間に見えるだろうか。
 戦国時代を制した徳川家康の忍耐力はとても有名だが、それは彼が少年時代、人質として幽閉されるなどの不遇に遭ったことが幸いしていると自分は思う。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。不自由を常と思えば不足なし」という彼の言葉に、条件・環境・境遇に対するとらわれが少ない彼の性格が示されている。これは、若いときの不遇の時代に、忍耐力を鍛えた結果だとわたしは思っている。
 とはいえ、この法則は、自分が苦しんだり傷つけられたりしたときに、自分の心を浄化するために第一に使うべきものである。それとは別に、あなたが他人を苦しめたり傷つけたときに、「彼(彼女)のカルマが落ちたのだからよいのだ」と考えるならば、自己の邪悪心を反省できずに、自己正当化によるプライドを増大させる恐れがある。
 ここで、少し、カルマ落としという教化方法について言及したい。
 カルマ落としというのは確かに救済手段としてあるが、これをだれにでもするとどうなるか、という問題がある。準備ができていない者にカルマ落としをすれば、逆効果である。説法によれば、まず十分に法則を与え、適切な称賛を与え、修行に勢いが付いて、信頼関係ができた後にそれを行なうというプロセスが説かれている。
 また、あまりカルマ落としを繰り返すと、下手すると相手の善業を活かすという発想がなくなるかもしれない。カルマ落としという考え方は、悪業を落とす、短所を取り除くという意味合いがある。しかしその一方で、相手の長所・功徳を拡大する、すなわち相手の良いところを活かすという発想が必要だろう。これは、上記のように段階に応じて選択されるべきであるし、各段階においても、どちらか一方だけというものではなく、バランスの問題でもあるだろう。
 また、自己のカルマ落としに巻き込まれないようにしなければならない。カルマ落としと思って叩いているのだが、そうするうちに行動に心が巻き込まれて、自分でも気付かないうちに邪悪心・怒りの虜になってしまい、やたら怒っている状態になる場合がある。
 よって、常に自己を浄化する基本的な実践を重視すべきであろう。基本的な実践の一つには、財施・法施だけでなく、安心施、他に安心を与える布施、他の苦しみを聞いて和らげてあげる布施がある。これは忘れられがちな実践である。
 こうすると、まだ高い成就に至っていないならば、「自己には厳しく他人には優しく」というのが無難な方法である。自己が傷つけられたときは、カルマの法則を当てはめて自分の煩悩・エゴに対して厳しく対処し、他人を誤って傷つけたときには、カルマの法則で自己を正当化したり弁明をすることは避けるべきだろう。
 とはいえ、この法則についても自己正当化に使わないでほしい。あなたがカルマ落としの名の下に叩かれた経験があったとしても、「わたしを傷つけたあの人の行為は、間違ったカルマ落としだったんだ」と改めて思い直し、邪悪心を確定するなどすれば、それは法則の間違った適用である。このような場合はむしろ、カルマ落としをしてくれた人に、「自分はカルマを落としても大丈夫なステージにあると思われていたんだ(信頼されていたんだ)」というくらいに思った方がいいだろう。実際、きめ細かな配慮がなくカルマ落としをする人においても、例えば、相手が真理から外れ下向してしまうことを希望し、そうする場合などは全くない。そうはならないと思っている。その見込みが外れた場合は、その人自身がひどく落ち込むのが常である。
 あらゆる法則は自我執着を弱め、他を愛するために使わなければならない。それができず、自我執着を強め、他への嫌悪を強めるならば、法則の根本的な目的と逆行しながら、うわべだけ法則を適用しているということになる。
 さて、苦しみの裏に喜びがあるように、同時に、喜びもその裏に苦しみがある。
 例えば、自分を誉め、認めてくれた上司、ないし同僚がいて、幸福なときがあった。その人がいなくなり、性格の違った厳しい性格の上司、ないし同僚に変わり、苦しみを感じて、「前の人はよかった、今の人は悪い。あの人が戻ってくればすべて良くなる」という話が、ままあるようだ。
 しかし、実は、この幸福と苦しみは表裏一体である。幸福を与えてくれたように見える前の人が、その後の苦しみをつくる一因に実際にはなっている。それは、その人が与えたアナハタ・チァクラなどの喜びのため、それに対するとらわれが増大した状態になってしまったからである。
 もちろん、称賛は必要なことである。しかし、先にも述べたとおり、本当の幸福・真理に導きたいならば、誉めるだけでなく、法則を十分に与えて修習させ、徐々に外的なものにとらわれない方向に導く必要がある。さもなければ、自分がいなくなった後に、相手は愛著の対象を失い苦しむか、別の者が現われたとしても、死ぬときに必ず苦しみ、高い転生が阻まれるだろう。
 このように、愛著の対象も嫌悪の対象も表裏である。これを心に留め、好き嫌いを薄めていくことが、心の安定のためには大切だろう。
 そして、そういう人が本当に幸福になるのは、他人に何かを求めるのではなく、他人に与えて、他人を幸福にすることが自分の喜びであるという真実を感じ取ったときであろう。
 ここで大変重要なことは、我々の本質には、他人の幸福を見て喜びを感じる力があるのということだ。すべての人に真我がある。
 今までの嫉妬のけがれによって、真我の意識が現在はそれほど現象化していなくても、日々正しい心を修習するならば、その心は徐々に強まっていくだろう。
 一方、他に求めるならば、それは愛著と嫌悪、期待と失望の苦しみをいつまでも繰り返し、互いに対して愛を求め合うばかりの人々の中で、愛の奪い合いの戦いが続くだろう。
 他に求める愛著・嫌悪の心から、他に与える慈愛の心に変化していく課程では、前者の心の働きでは、自分も自分の周りの人も苦しみが増大する経験があるのではないかと思う。それを深い意識から証智し、それに基づいて自分を修正していくのだろう。
 これは、マハームドラーを成就する一つのパターンとも言われている。すなわち、愛著から慈愛への昇華である。
 平等心の次に、愛(聖慈愛)について考えてみよう。これは、他をはぐくみ育てる心である。皆さんがよくご存じのように、これは相手に見返りを求めず愛する心で、愛著とは違う。愛と愛著とは違うという教えである。
 また、これは通常、真理の法則にのっとってはぐくみ育てることである。芸能人として育てたとしても、他人の名声に嫉妬しないという意味で、それを称賛するという四無量心の実践はあるが、自分をはぐくむ場合は、やはり本来の真理の法則にのっとって、精神性と霊性の向上に向かって他をはぐくむことが最高である。 
 さて、はぐくみ育てる愛の実践の奥には、すべての魂が、基本的に精神的に成長する能力があるということへの信がある。すべての魂に真我があり、マハー・ニルヴァーナに入ることができる魂だという、基本的な教義への信がある。成長する、解脱する能力があるから、はぐくみ育てることに意味があるのである。
 それと反対に、凡夫の人は悪業が多くてけがれた魂、信徒もステージの低いサマナも同じという妙な固定観念にとらわれれば、基本的な法則から外れてしまう。大乗の発願では「すべての魂をマハー・ニルヴァーナに入れよう」と発願しているのに、それは口ばかりで、法友さえ愛せなくなる。「地獄の住人まで救済する」と言っているのに、法友が愛せないなら、それは他人の見方の枠組みを修正しなければならない可能性がある。
 そして、そういう人が多くなると、教団全体も良くならない。教団が良くなるかどうかは、その構成員の心の総和が決定する。すべては心の現われである。
 だから、「個人も教団も成長し、良くなるんだ」という、肯定的な意識の人が多くなればなるほど教団は良くなる。一方、すべての魂に真我があるのに、いろいろなちっぽけな口実を設けては「こんな教団は……」と思う人が多くなればなるほど、教団は悪くなる。一人ひとりの心が教団をつくる。自分でつくっておいて自分で批判すれば、不幸な輪廻の道を確定してしまう。
 よって、一人ひとりが「教団が自分に何をしてくれるか」ではなく、「自分が教団に何ができるか」を考えてもらいたいと、去年のシヴァ大神祭でお話ししたことがある。
 次に、哀れみ(聖哀れみ)の実践について。これは他の苦しみに対する悲しみ、哀れみである。また、現在苦しみを感じているいないにかかわらず、苦しみの原因となる悪業をなしている者への哀れみも当然含むだろう。
 しかしこれが、相手を見下す、高慢・軽蔑・嫌悪の原因にならないようにするのが大切だ。そして、見下したときに救済することもできなくなるのではないかと思う。
 そのためには何をするべきか?
それは、簡単に言うと他を深く理解することである。例えば、相手の苦しみ、悪業の背景にあるもの、悪業の原因を理解することであろう。そうすると、よく「自分も過去にもそうだった」、ないし「自分にもそういう要素がある」という認識が生じやすい。尊師自身が、「他の魂が自分の過去とだぶって見えてきて、大乗の実践の動機となった」とおっしゃっている。これは、カルマ・ヨーガの実践と言うことができる。
 ここで重要な法則は、一見理解できない悪業を積む人でも、すべての場合において、その人なりの背景、つまり理由・正当性・経験の構成がある。それを理解できていないから、反発・嫌悪を感じるのである。これをどうにか理解して共有できれば、反発は消える。
 そして、「自分がその人と同じ立場にあれば、同じになるだろう」という共感、ないし「自分も昔はそうだった」とか、「自分にもその要素があるな」という共感が生じる。こうして、自分と他人の区別が弱まると、他の苦しみを自己の苦しみと感じて、それを取り除こうという気持ちも強まる。
 これが、本当の哀れみの実践であると思う。そしてこれが、「他の苦しみを自己の苦しみとする」という苦の詞章の哀れみの部分の、一つの意味合いだと思う。
 そして、他の苦しみの全体、特にその原因が理解でき、かつ強い哀れみがわくので、他を救済する力も強まる。
 少し話はずれるが、他への反発・嫌悪は、他が与える苦しみを喜びとするか、苦しみを与えた他の背景を理解し、自分と他人の区別がなくなることによって消えると思う。これはまさに苦の詞章である。
 すなわち、(他が与えている)自己の苦しみを(その裏を見て)喜びとし、他の苦しみを(その背景をよく理解して自分の中にも見いだし)自分の苦しみ(と同じように考えること)とするのである。苦の詞章は、恨み・憎しみからの解放の究極の手段である。なぜなら、苦楽の区別(愛著・嫌悪)と自他の区別(迷妄・無智)の三つしか、人の苦しみの根本原因、すなわち根本煩悩はないからである。
 最後に、喜び(聖称賛)の実践について。
 他人の善業を自分のことのように喜び、称賛することであろう。これについて、教団では、帰依の対象やステージの高い者を称賛するというのは、それなりに修習されてきた。
 しかし、喜び(聖称賛)の実践が必要なのはそのときばかりではない。
 まず、自分は個人的な説法中で、「自分と同等のステージの者、ライバルと思う者を称賛せよ」と言われたことがある。これは、称賛が嫉妬心を取り除く実践的な教えであるからだ。もちろんグル方とは違うから、その人の優れた部分を称賛すればいいと思う。
 また、自分よりステージの低い者に対する称賛の必要性も、よく考えてほしい。もちろん教団では、他が慢を持たないように、無秩序に称賛しないようにという教えがある。それは確かに正しいし、精神的に完成していない人の全人格を称賛するのは明らかに間違いだ。
 しかし先程述べたように、修行の段階において、その人の長所を見いだして適切な称賛をしなければ、その人が成長しづらい場合もある。称賛して、長所を伸ばす意欲を増大させるとか、自分を受け入れさせる人間関係をその人と形成するとかがある。
 また、導く側においても、上に立って、自分が称賛されるだけで下を全く称賛しない場合は、前に述べたように高慢になる恐れがあるだろう。どんなステージの人の功徳や功績も、その人を支える多くの人の協力によって得られたもので、その人のものだけではない。
 このように、喜び(聖称賛)の実践は多様なものであることが望ましい。
 もし称賛の実践が硬直化し、上については自分が認められたいから、いたずらに称賛ばかりし、横や下についてはその必要はないから称賛をせずというふうになると、煩悩捨断と逆の方向に行く心の働きを形成するかもしれない。いくら上の人を称賛すれば引き上げてもらえるといっても、自分の心の働きを自分で浄化する自力の部分を全く無視してはならないだろう。
 このように、四無量心やカルマの法則(カルマ落とし)といった法則の実践においては、その目的と手段を取り違えないように常に努める必要がある。
 法則の目的は、自我執着の捨断であり、煩悩破壊と四無量心の獲得である。
 この法則の目的に資するように、様々な法則を個々のケースに適用して実践しよう。
 諸々の法則をお与えくださった三宝に感謝いたします。
 わたしたちを過去世からはぐくみ育ててくれた、すべての魂に感謝します。
 わたしたちの修行の功徳が、すべての魂の覚醒の手助けとなりますように。