マイトレーヤ正大師特別寄稿 第30回
未来ヴィジョンと日々の心構え
(9月17日シヴァ大神祭での説法をベースに加筆したもの)

 今日は、教団と社会の未来ヴィジョンについてお話しします。

1)今後の社会の行く末
 
 今後の社会を予測すると、やはり、色々な意味で行き詰まると思います。一般の人を見ると、心が煩悩に振り回されている状態です。ストレス社会、一億総半病人時代とかいわれています。「煩悩は楽しいじゃない」という人も、自分の心・性格が変えられたらいいと強く思っている人が多いのです。エゴが強くなりすぎて、人間関係など、日々の生活のストレスは増大しています。

 この傾向は、ますます強くなります。なぜなら煩悩を果てしなく増大させる方向に社会が向かっているからです。コンピューター社会は、煩悩情報の氾濫をもたらしかねません。パソコンだけが友達で、人と付き合えないほど、エゴの強い人も増えています。

 子育て拒否、幼児虐待、登校拒否、離婚、少子化、友達ができない若者など、非常に多くなっています。会社内の人間関係にも競争原理が導入されてきました。

 そして、貪りを中心として煩悩に振り回された結果、生活習慣が乱れ、生活習慣病(昔の成人病)が若年層へと広がってきています。昔は子供にはなかったのですが、それが変わってしまったので名前まで変わりました。

 日本人の3大死因は、心臓関係病、脳血管障害、癌ですが、心臓病と脳血管障害には、精神状態や生活習慣が密接に関係する高血圧が深く関わっています。そして、高血圧に関して、煩悩をコントロールしているサマナと一般人の値を比べると、異常率がサマナの方が、10倍から20倍も低い、すなわち、優秀であるという結果があります。煩悩によって体もむしばまれているのです。

2)煩悩主義社会の問題

 煩悩主義が物理的な危機を招く可能性があります。既に、環境問題が悪化しているここ数年自然気象災害が悪化しています。特集を組む新聞・雑誌も増えました。温暖化、異常気象、砂漠化、森林破壊、生態系破壊、種の絶滅、環境ホルモンと生殖機能の異常、そして、資源・エネルギー問題など、21世紀に予想されるのは、人間があまりにも煩悩を追求しすぎるが故に地球もろとも自分たちが危機に瀕しかねないということです。

 これらの問題に対しては、煩悩的欲求を抑制すべきだという考えもありますが、しかしそれが難しい故に、たいていは、技術的な手段で、問題が解決できないかを模索しています。しかし、天才的なジャーナリストで、わたしも対談したことがある、立花隆という人の予測では、技術的な解決法がたとえ可能だとしても、精神に異常を来した人類では正しい選択ができないだろうという悲観的な予測があります。自分も同意見です。すべては心の現われですから。

 もし、アレフのようなライフスタイルが広まれば、地球に過度な圧迫をかけるような煩悩の追求は生じないし、相当なストレス状態にあっても、的確な判断ができるでしょう。

3)現在既に危機的な状態が存在している

 さらに、これは、未来の問題だとは言い切れません。それは途上国にとっては現在の問題なのです。世界の物質的な富のほとんどは先進国に集中しています。先進国の富のうち、わずか0.2パーセントが途上国にODAとして贈与されています。この独占状態が、途上国の貧困、餓鬼を生じさせていますが、この搾取を修正する国連のあらゆる試みは今のところ失敗してきています。それは先進国の国民がわずかばかりの富の再分配にも応じられないからです。日本はGNPが1パーセントでも落ちれば国民が大騒ぎです。だから、1パーセントも下がるのが我慢できないのです。このように、先進国の煩悩・貪りを一因として、途上国は既に、飢餓・伝染病・貧困などで、十分に危機的な状態が存在しています。

4)求められる新たな価値観

 現在の社会は大きく変化する必要があります。これは、知識人が既に提唱していることです。いわゆるパラダイムシフトというのがそれです。それは、物事の見方の大きな枠組みを変えなくてはならないということです。よくいわれているのは、人類が地球と共存していけるような価値観への変更です。

 そして、一部の識者の中では、それは、20世紀まで続いた、思想・哲学そして、その背景にある宗教の価値観の大きな変更をもたらす可能性があると主張しています。

 現代の社会に大きな影響を与えているのは、近代哲学です。その中心は、精神と物質、人間と世界を分ける、デカルトなどの二元論です。それに基づいて、近代科学、そして、人間観・世界観が形成されてきました。また、(必ずしもイエス・キリストの教えとは合致しない)キリスト教カトリック教会の思想も絡んでいます。人間は神に似せて創ったという教義や、輪廻転生の否定などがそれを支えています。

 これらの人間中心の世界観、人間と世界を区別した価値観は、他生物・自然・地球の破壊につながった、果てしない自然開発、工業化、物欲の追求をもたらした背景と言うことができます。そして、この価値観が行き詰まりを見せているのは昨今の人類社会・地球の状態から明らかになってきたわけです。

 そこで、国内外の識者の一部では、非キリスト教、仏教やヒンドゥー教的な価値観・哲学が環境問題の解決に役立つとの考えが出てきています。これらの宗教は、人間と世界、人間と他生物・自然との区別が相対的で弱いのです。
 
 このように、未来社会の行方は必然的にアレフ的な価値観、ライフスタイルになるでしょう。

5)内側の開発と人類の進化

 ただ、アレフの未来性はこれだけではありません。これだけなら、原始仏教でもいいし、伝統的な仏教国のような途上国でもいいということになります。しかし、原始的な宗教文明に立ち返ることができるわけがありません。人類文明は、常に何らかの進歩・進化を求めています。昔に戻るだけなら「退化」であり、人類の文明の進化による問題解決以外は起こり得ないでしょう。進化できないなら破滅するかもしれません。

 そこで、アレフのキーワードの一つが、「進化」なのです。つまり、原始的宗教国家にも戻らず、現代的な物質主義的科学文明をも超えて、科学と宗教が合一した、霊的な科学文明を打ち立てることです。

 そのベースは、密教・ヨーガになると思われます。密教のツァンダリーやヨーガのクンダリニー・ヨーガは、人の内側を開発します。これまで人間は外側の開発ばかりをし、外側の喜び・物欲と、外側の空間における自由を求めて、息詰まりました。
 一方、これらの修行は、人の内側を開発し、内側の喜びである空性大楽、内側の感覚である六神通などを開発し、アストラル、コーザルの空間を自在に行き来し、内側からの幸福、歓喜、自由を得る道です。

 ただし、これは単なるベースだと思います。なぜなら、これでは、チベット密教と変わらず、チベットと同じように衰退するし、アレフはいらないからです。

 そこで、アレフの特性として、科学と宗教・密教の融合というのが来ます。そして。これが、前から言っているように、アクエリアスの時代の象位であり、アレフの目指すべきところです。それは、現代科学文明の中から、霊的な科学文明を発祥させなければならないということです。

6)アレフと科学の親和性

 アレフの教えが科学と合一しやすい理由としては次の2点があると思います。
 第1に、その教義が、極めて科学にマッチしやすいという特性です。
 科学と宗教の大きな違いは、その普遍性です。科学の理論は世界中どこに行っても同じです。重力の法則は世界中で同じです。しかし、宗教については様々な宗派が様々な法則を説いて相矛盾しています。よって、科学と合一する宗教を説くならば、その宗派は、宗教はいろいろな宗派がありますが、その根本・エッセンスは一つである、宗教は一つの道であるということを強く打ち出し、主張するものでなければ不可能です。これがまさにアレフの教義体系の特長であることは皆さんよくご存じでしょう。宗派によって、何が正しいかの法則が違ったのでは、科学的な普遍性は打ち立てられません。
 第2に、アレフはその伝統として、科学技術の修行への応用、これはまさにシャンバラの修行体系でありますが、これを積極的に進めている点では、おそらく他の団体の追従を許さないでしょう。そして、それが可能な国、すなわち、東洋神秘思想が根底には存在している唯一の科学先進国である日本にこの教団があるというのも偶然ではなく、選択の結果です。

7)闘争ではなく進化へ

 今後の方針としては、いろいろな問題を抱える物質主義的社会に対して、阿修羅のようにいたずらな闘争をするべきではありません。智慧と忍耐に優れる神々を見習い、逆境を逆活用しながら、ただひたすら自己を磨くことに集中しなければなりません。落ちる者は自分で勝手に落ちるのがカルマの法則で、欲六界の法則です。
 我々は、個人的にも、批判や闘争で時間・エネルギーを無駄にせず、どうしたら自己を磨くことができるかに集中するべきです。争って、他に集中していても、自己は向上できないのです。それは、下手をすると負け犬のストレスの発散でしかないのです。

8)進化か衰亡か 

 事件前、「戦いか破滅か」というビデオがありました。これからのキーワードは、「進化か衰亡か」です。戦いがあるとしたら自らの煩悩との戦いであって、それは進化のための、自己の内側の戦いです。これは他者との戦いではありません。進化できなければ、教団も人類社会も危ないでしょう。だから、「進化か衰亡か」ということになるでしょう。

 では、次に、未来の話から、皆さんの日々の修行に関することに話題を移したいと思います。

1)人生の意味について

 人生の意味とは、修行のための「道場」だと考えるべきだと思います。説法には、地球が道場だ、真理を実践するスペースだというのがあります。道場とは、カルマを落とし、功徳を積ませてもらい、自己を鍛える場所という意味だと思います。

 皆さんには、いろいろな不満があるでしょう。それは、自分もある、というか、率直に言えば、不満だらけです。理想的な救済団体という視点からすれば、現状は、不満だらけです。しかし、そういう感情は、基本的にあまり長くは続きません。それは、人生、ないし外界を、カルマを落とし、功徳を積む「道場」だと考えることにしているからです。外界を喜びを求める対象と考えれば不満が生じます。しかし、外界というのが、自己の修行の道場なんだとか、救済活動の道場なんだ、自分を鍛える場なんだと考えれば、今置かれている環境は、修行者として、救済者になろうと志す者にとって、まさに天国です。

 しかし、楽を求めれば、途端に、それが逆転してしまいます。天国が地獄になります。愛情、称賛、プライド、地位、特に自分の場合は、救済活動のスムーズな進展にとらわれると、失望、怒り、苦しみが多くなります。不満・批判をし続ける人は、だいたい他人や外界にばかりとらわれ、自分の功徳を極限までは積めません。人は他人を見るとき自分を見ることはできないからです。

 ニつ目の理由は、逆転の発想です。一言で言えば、苦しみを喜びに逆転するわけですが、それは単にカルマ落としと考えるだけではありません。遭遇している困難が、何か具体的な修行上ないし救済上の利益にならないかと考えるのです。

 例えば、今年の末くらいまでには、おそらくこの横浜を出て行かなくてはならないと思われます。そういう判決が出ました。しかし、それは救済活動においてはプラスになるだろうな、ひょっとすると画期的な改善になるかもしれないなあと思っています。そういったいろいろな障害の裏に、発展の可能性があるのではないかというのが、自分の信念になっています。

 このように、苦しみの裏の喜びを見つけたとき、外的環境に関する不満、嫌悪、怒りというものは消滅します。すなわち、自己の苦しみを喜びにするという教え、これを具体的に日常生活に当てはめる修習をしています。
 
 ところが、この実践は愛情欲求とかプライドといったものがあるとやりにくいものです。それが、自分の進化・発展を妨げることになります。しかし、もうみんな、子供じゃあるまいし、愛情欲求などいらないでしょう。そういったものは捨てましょう。子供のサマナも、愛情欲求はできるだけ早く捨てましょう。

2)批判の多い人の実態
 まず、ここ数年多くの批判というのがありました。それについての自分の分析結果は、批判する人を見ると、これは、その人にとっては非常に受け入れ難いことかもしれませんが、批判の多い人を見ると、その人自身、自分が他について批判しているのと同じ要素を有しているのです。

 つまり自己に甘く、他に厳しいのです。最悪、自分は正しい、他が間違っていると思い込んでいて、外から見ると、自分がまるで客観的に見えていないのです。人間は皆、自己優位でありますが、他の批判ばかりしていると、自分の欠点を見つめ、それを直したり、他の優れている面を称賛し、見習うということができなくなります。時間は24時間しかないですから、そうしているうちに、知らない間に、えらくプライドが高くなってしまいます。果ては、だれも自分のことを理解してくれないという形で、孤立します。そういった例をあちこちで見ました。本当にあちこちです。何十人もいます。

3)皆で一から出直す勇気を持とう

 そういう人が本当に一皮むける、心が解放されるには、基本的に、批判の裏には、外界への執着といった欲求があることを悟り、懺悔し、プライドを捨て、一から出直す決意をしたときでしょう。

 プライドは失いますが、それはナーディーの詰まりを失うだけで、得るものは大きいのです。ここには、智慧と勇気が必要です。
 そして、一から出直す勇気というのは、この教団全体に必要なことです。
 皆で一からやり直す勇気を持ちましょう。  

4)救済は自己の改善から

 また、救済のため、他の悪いところを批判するという人がいます。

 これについては、慈愛をもって意見することはいい。しかし、批判に終始している人を見るとその人には他人を救う力は非常に乏しいのです。なぜなら、自分の欠点を見つめ乗り越えていないから、他人を導けないのです。他人と自分には同じような欠点があるから、自分の欠点の解消が、真の救済の道です。救済は自己の改善から生まれます。

 それから、自己の浄化に専念する人は、ステージも上がり、権限も与えられ、それまで他を批判していないから、自分が上になっても批判されずにスムーズに救済活動ができます。

5)体調と持戒の実践

 2番目にお話ししたいことは、戒律の遵守こそが心身の浄化の道ということです。

 ご存じの通り、教団にはしばらくの間健康ブームというのがありました。サマナの体調が悪いと言う人がいて、そのためにいろいろな改善をなすべきだと主張されました。お供物の改善、備蓄食糧の回収、健康センターの設置、スタミナドリンクの採用など。

 それはそれでよかったと思っています。教団としてはそれはなすべきことでした。

ただ、体調の回復という視点からは、どうもそれは本質的な対策ではないように最近感じているところがあります。
 まず、サマナの体調不良は、普通の人の病気と少し違うところがあるのではないかなという印象があるからです。つまり、クンダリニーを覚醒して、風を活性化していると。その状態で、持戒ができていないと、心身に障害が出るというくだりがあります。

 確かに、クンダリニーが覚醒しているにもかかわらず、戒を厳密に守っていないと、ナーディーが詰まり、ルン・トラブルが起きてしまいます。ともかく、科学的に何の問題も検知されなくても、何かしらの体調不良を訴える場合が多いのはこういう面があるのではないかなと。だとすれば、サマナの体調不良というのは、ある意味でサットヴァなのでしょう。というのは、身・口・意の悪業を積むとすぐに体調の不良を感じるということだからです。
 ある東京本部のサマナですが、彼女が健康センターにいるときに一度話したことがありました。その時、自分が話したのは単に精神的な問題で、彼女は肝臓が悪いと言っていたのですが、肝臓が関係するストレスや怒りの背景には愛著があるというような話をしました。それによって、自分の内省が進み、心が軽くなり、そのあとワークに出たのですが、健康センターにいるときよりワークに出ているときの方が体調がいいと言います。そして、信徒対応でカルマ受けるのは嫌だなと思うと駄目で、逆に慈愛をもって接するといいと言います。これは、完全に心の働きが影響しています。ワークのときの心の働きが健康センターのときより良く、信徒から逃げる心より、慈愛の実践をしているときの心の働きがいいからです。

 そういう意味もあって、健康センターは名称を変え、光音天三和として、もっと、修行を重視した、心の浄化を重視した方針に変えました。
 体調が悪い人は、真の慚愧の念が必要だと思います。自分の苦しみを他のせいにせずに、自己の心のけがれを徹底的に懺悔する必要があります。怒り・恨み・嫌悪・愛情欲求・貪り・プライド・破戒などが、自分の心身をけがしているんだということに確信を持つべきです。

 次に、卑屈にならず、前向きに肯定的に努力することが大切です。自己に因を求めた結果、卑屈になるのではいけません。肉体の苦しみを含めた、一切の苦しみは、ステージを上げるための神の御使いあると前向きにとらえるべきです。自己嫌悪に陥ると、それが心身をけがす因になります。

 自己のけがれ自体も無常なのですから、自己嫌悪の必要はありません。早くけがれに気付いて、真理を深めることができるというのは、修行者として素晴らしいことです。

6)情と慈愛の取り違え

 教団に帰ってから、揺れているサマナの人への妥協に関する話をよく聞きました。厳しくすると落ちてしまうと。しかし、注意しなくてはならないのは、他人の煩悩を肯定する形で、優しくしてあげても、その人のエゴが増大して、苦しみが増える方向に行くということです。

 そこで、我々に必要なのは、情ではなく、慈愛。真の慈悲でしょう。それは、真理にのっとって他を慈しむこと。その人の苦しみは皆その人の煩悩が唯一の原因だと確信し、全身全霊を込めて、真理の法則・煩悩破壊の法則を説くべきです。

 貴方の苦しみを取り除くには、教えを実践するしかないんだと。そうできるかがポイントです。真に教えを実践し幸福になりたいと考えている人はそれで悪い方向には行かないでしょう。教えとの縁がない人は駄目でしょう。

 ところで、相手をフォローすると言いながら、自分に愛著があって話すのも似たパターン。自分に愛著があるかなと思う場合、外から見たらめちゃくちゃ愛著があります。愛著以外の何ものでもありません。そういう関係からは真理にのっとった苦しみの解決は生じようがありません。

7)ステージ制度について

 ステージというのはそもそも無常です。その人が形成する良いカルマ、悪いカルマによって上がったり下がったりします。だから、ステージは、昇格降格がなければ、カルマの法則と、教団システムが合致しません。よって、今回の変更になりました。

8)周りの人がステージアップしたら自信を持て 

 周りの人がステージアップし、自分がアップしなかったから、自分は駄目だと卑屈になるのは、謬見解です。周りがアップしたということは、自分もアップできるという証明なのです。周りの人がアップするということは「あなたもアップできるよ」という神々の示唆なのです。他人がアップするのと、しないのと、どちらがアップしやすいか? サンガは、わずかなタイムラグはあっても、皆がアップするか、皆がアップしないかです。

9)人のせいにせずに自己を見つめろ 

 また、自分は理解されていないからステージアップしないと言う人があれば、それは完全に謬見解です。今回のステージアップは、正悟師の会合、そして、師の全体会合を経て決めています。つまり、何十人の人の目でクロスチェックしているんですね。それで評価されているという重みは、それはそれとして感じて欲しい。

 よって、まず、真剣に自分を振り返って欲しい。他人に不満を言うのは簡単です。しかし、それは、自分を高めるためにはマイナスになります。
 昇格できなかった人の中で、わたしは正しく理解されていない、と考える人がいたら、それは間違っています。なぜなら、教えは、常に自分に慚愧の念を持ち、自分の善法増大、悪法減少だからです。

 また、経典にも自分が正しく理解されていない場合は、自分の修行の至らなさを反省せよというのがあります。

 実際、真の慈愛の実践をなしている者が、周りに恩恵を与えている者が、最終的に評価されないことがあるでしょうか。もちろん、多少のタイムラグはあると思いますよ。だから、コツコツ慈愛の実践をしていれば、最終的には結果は出ます。

10)候補制度の意味合い

 候補に挙がった人と挙がらなかった人に違いがどの程度あるかというと、それには、微妙なところがあります。それは、候補とはまだ認定ではないからです。

 わたしは、マハームドラーの3番目の成就者でした。ただ、1年前の下馬評では、自分よりも何人も上の人がいました。これ自体がマハームドラーだったのです。

 また、90年も多くの人が、「マハームドラーの成就の当確」とされました。つまり、すぐにマハームドラーを成就するだろうという意味です。でも、その中で成就しなかった人もいるし、現在の正悟師の中では、その中に含まれていなかった人の方が多いのです。

 こうして、候補になった人もならなかった人も、既に、神々のマハームドラーが掛かっているんだと思った方がいいと思います。候補制度自体が、この教団の伝統のマハームドラーです。

11)病人の人

 ところで、病人の人がステージアップしないのかという話がありましたが、わたし自身は、そんな話はしたつもりはありません。説法では、病気のために、資格を与えると、その義務によって逆に苦しませねばならない場合そうします。病人でも各々ステージの基準に合うならば問題はありません。同時に、病人だからといって特別の配慮をするつもりはありません。甘い認定をするつもりはありません。心の浄化が進めば、その分、必ず体も良くなるし、心の浄化が遅れれば、体は良くならないでしょう。

12)アップした人は、感謝と恩返し

 それから、ステージアップしたら、それを助けた三宝と法友に感謝し、恩返ししなければという気持ちをもってほしい。そうしなければ、慢・蔑視・嫌悪により徳を消耗したり、周りに嫉妬されて前のように徳は積めなくなります。慢を持つどころか、なすべきことは恩返しです。その徳によって、更にアップする。これが法則です。

13)極限の意味合い

 極限のワークを嫌がる風潮が一部にありました。最近だいぶ減っているようですが。
 極限というのは、意味合いはニつあります。
 一つ目は、徳を最大限に高める。
 二つ目は、集中です。

 説法にあるように、我々現代人は瞑想修行に集中することは苦手です。しかし、ワークには慣れており集中がききやすいという面があります。

 それは持戒にもつながります。戒律を守って、エネルギーを余計なことに漏らさず、ワークに一点集中する訓練をなすわけですから。

 これが、そのあとの瞑想修行の準備になります。瞑想、サマディとは集中です。集中の訓練と徳を積む訓練の二つは、サマディのよい準備です。

 昔は20時間ワークの伝統がありました。瞑想修行をする前に、そのワークだけで既に、体はビリビリとエネルギーに満ちてきて、ツァンダリーが起こったり、意識が体から抜けていく、化身の体験をすることがよくありました。

14)決意

 さて、出所して以来、5年のブランクのために、教団に広がる、意識構造のゆがみを理解するのに時間がかかりました。しかし、それはある程度理解することができ始めたのではないかと思います。

 そして、最近、神々の祝福で、サマナの中で意識が大きく変化した人が少なからずいるようです。昇格した人に限らず、いろいろなところでそういう例があります。

 そのために、MIROKUについても、大きく変化させなきゃなんないだろうと思います。そのための体制の徹底した変更を、そのうちしなければならないと思います。それは年内に行なわれるでしょう。

 それは、これからますます進むと思います。今後は、一人一人の法友の心の働きに関するより深い理解に努め、大乗のヨーガの本来の意味である、法友の解脱・悟りのお手伝いを実践をしたいと思います。

 サマナの意識が向上していくにはいくつかの道筋があるように思います。

 一つは、コツコツ教学・修行しステージを上げていきます。

 もう一つはマハームドラー的なプロセス。神々の祝福で、煩悩が表面化するような環境が形成され、煩悩の苦しみを経験します。そこで、煩悩の苦しみを真に理解し、煩悩破壊します。

 もう一つは、集団、すなわち教団全体の意識レベルが上がり、それによって、ある程度の煩悩破壊が当たり前になってしまう。

 あと期待しているのが、新しく開発されるいくつかのイニシエーションです。これは、まだ皆さんには明かしていないものもあります。

 自分の決意としては、今年のラスト3カ月、教団の真の精神改革を進めるための新しい体制づくり、そのための自分の修行をなさねばならないなと思います。

 そして、少なくとも、10人の準師、20人くらいの徳師補が来年までには誕生するように、そのお手伝いに全力を尽くしたいと思います。控えめな数字かもしれないけれど、皆さん全体の努力が相乗効果を呼び、加熱してくれば、もっと多くなると思います。