マイトレーヤ正大師特別寄稿 第28回
さあ今こそ、破戒を破壊しよう!
事件後の総括と新しいサンガの仕組み


 わたしは、去年暮れ、教団に戻ってきて、以前とは違う教団に当惑しました。しかし、今教団は大きな転機を迎えています。すなわち、三宝のマハームドラーの後に、覚醒のチャンスをつかもうとしています。
 まず、過去数年の教団の精神的ステージの低下について、自分なりになした総括を書きたいと思います。
 まず、一番大切なことは、これは初めてのことではありません。これは、グルがいないから起こったことだとは言えません。問題はすべて我々側にあり、我々が解決できるし、しなければならないということです。まず、次の説法を読んでください。
はい、それではこれから、第2回「全国シッシャ大会」を始めたいと思います。
 まず、今回の大きな議題は、シッシャ制度の大幅改革と。いや、言い方を換えるならば、新しいシッシャ制度のスタートということを検討議題とし、進めていきたいと思います。
 というのは、第1回のシッシャ大会ののち、特に、まあ急激なシッシャの増加に伴って、この空間がね、凡夫に近い空間になってしまったと。そして、様々な破戒行為、これが平気で行なわれると。そして、シッシャになった者たちが解脱に対する欲求を持たないと。そして下が上に対する批判が相次ぐと、ね。そしてまあ、昨日、おとといか、まあ一人破門を出したわけだけども、まあ、とんでもない方向に、現世的な方向に、オウム真理教のシッシャ内部がなっていたと。
(中略)ところが、個々の自覚の足りなさ、ね、それが理由となって、どんどんどんどんシッシャのエネルギーが低下していったと。それは少しばかりの透明な水に、濁った水がどんどんどんどん注がれた状態であると。で、これをこのまま放置するということは、わたしがこの世に存在するという意味を見失わせてしまうと。
 凡夫に近い空間になり、様々な破戒行為が平気で行なわれ、解脱に対する欲求を持たない、下が上に対する批判が相次ぐ、現世的な方向に内部がなっていました。これは、まさに事件後教団に起こったことです。
 そしてこの説法は、89年、教団が選挙に出て、サマナが現世に交わったときに起こったものでした。その際、マハームドラーの成就をしたのが、ヤソーダラー正大師とわたしで、その半年後に、大勢のマハームドラーの成就者が出ました。
 
 それは、ともかく、事件後の教団をもう少し、わたしなりに評価すると次のようになります。

 富士・上九一色を離れ、外ワークなどで世俗にまみれた中で、何が起こったか。サマナが、サンガの戒律を実践しなくなりました。
 わたしは、その結果、サマナの煩悩が増大し、愛情欲求、称賛欲求が増大し、その裏腹に、嫌悪、疑念、不満・批判が増大したと考えています。
 それに対して、そういった煩悩的な欲求こそが、苦しみの原因なんだというサットヴァな法則を説く者が少なかったようです。戒を守れない人に対して、サットヴァな法則をもって調御するのではなく、法則は煩悩に厳しいから、そうすれば落ちてしまうと考え、煩悩に妥協する形でフォローしようとしたとも聞きます。人間関係で導こうとし、法則で導かず、悪い意味で優しくなったわけです。
 これは、多くのサマナが、師以上の人から離れ、サットヴァの法則を聴くのが物理的に不可能だったという事情もあります。また、教団の下から上まで、先程述べたマハームドラー的状況の中で、煩悩の増大から自由ではなかった面もあるでしょう。
 そして、97年、98年、再び集団で居住するようになった後も、聖なるサンガが甦ったとは言えないようです。物理的な復活ではあっても、真に精神的な復活ではありませんでした。
 わたしが判断するに、ほとんどすべてのサマナは破戒をしたのではないかと思います。破戒とは性欲の破戒だけを意味しているものではありません。事件後は性欲の破戒さえしなければおとがめなしという、戒律制度の崩壊があっただけです。
 例えば、ワークとは関係のない会話の破戒、煩悩的な会話の破戒、否定的な会話の破戒をなし、互いのエゴを認め合い、貪り、愛情欲求・性欲、嫌悪・批判を増大させなかった人がどのくらいいたでしょうか。
 ある人が、煩悩的な会話を始めると、他の人もそれに応じてしまう。そして、互いに共鳴して、煩悩的な意識が増幅していく。煩悩的な会話の帰結として性的破戒も起こりました。
 貪り、愛情欲求・性欲、嫌悪・批判というプロセスは、「創世期」の落下のプロセスです。意識堕落天の批判と落下のプロセスそのままに、悪口、両舌が増大しました。法友の間の悪口、嫌悪だけでなく、下から上への批判が起こりました。上から下への蔑視(べっし)も起こったかもしれません。
 
 さて、まず、改めるべき認識は、戒律の大切さです。言い換えるなら帰依の大切さです。
 性欲の破戒だけが破戒ではなく、ワークとは関係のない会話、煩悩的な会話、否定的な会話、互いのエゴを認め合う会話。それらは皆以前は破戒だったことだと思います。悩みのあるサマナは、原則として、師に相談していました。自分の煩悩に迎合し、増幅し合う可能性のあるサマナとは話しませんでした。
 下から上への批判、悪口が強くなりました。そして、人によっては、こんな教団はいても意味がないと考えてしまい、やめてしまった人もいるようです。
 煩悩の増大は、教団全体に広がった問題だから、上に問題がなかったとは言えないでしょう。しかし、基本的に修行者は、三宝の教えの実践に集中するべきで、他人に頓着したり、批判せず、自分の徳を積めというのがグルの戒めでした。
 そして、わたしが戻ってきていろいろな人を観察すると、愛情欲求・プライド・称賛欲求が強い人が、それが満たされない中で、批判をしたという面があると思います。実際、次のような説法があります。これは阿修羅のカルマとも言えます。
 オウムの批判の仕方を見ていると、例えば自分が認められないから、自分が満足できないからという批判が多すぎる。

 まず憤怒天界へ転生する魂の要素は、口の悪いこと、そして徳はまあそこそこ積むが、他の批判を多く行なう。そして、自分に甘く他人に厳しいと。

 こうして、認められたい欲求、愛情欲求やプライドを背景に批判すれば、当然、自己愛は増大します。そして、自分に甘く、他人に厳しいカルマが増大します。逆に自分に厳しく、他人に優しくなるには、自己の懺悔と他の称賛が必要です。
 また、批判する一方、批判仲間というか、否定的な人の間の悪しき愛著も増大しました。説法にもあります。
 憤怒天界は、お互いがお互いを批判し合い、その裏腹に情というものが大変強い。しかし、その情は謬見解に基づいているから、干渉されればされるほどひどくなるわけである。干渉されない方がましなぐらいの天界である。
 批判仲間というか、否定的な仲間の間の関係は、決して煩悩破壊の考えに基づいていませんから、本質的には人の心を解放することはありません。愛情欲求を満たされないサマナ同士が、上の者に対する批判を共有し、交流・愛着し合っても、互いのエゴを増大させる結果となり、その人たちをかえって不幸にさせる面があります。正しくは、苦しんでいる原因は自己の欲求であり、批判しても、苦しみは取れないことを気付くべきだったのです。
 さらに、批判すると、自分の努力ができなくなり、無智化します。批判しても、徳を積んでいる人は、無知化せず、阿修羅的ですが、積む徳が悪業より少なくなれば、無知になり、動物的になります。
 意識堕落天は、他を批判する、他を否定する(中略)。批判し否定するがゆえに、徳を積まなくなり、修行しなくなると。(中略)つまり、初めは対象に対して批判し、否定し、そして徐々にそのカルマによって自分自身が努力できなくなり、無智化すると。無智化するがゆえに、半分の要素である動物の世界へと転生すると。

 そして、和合ができなくなりました。ポイントは、和合ができないということは、愛著・嫌悪が増大した結果であるということだと思います。そして、「和合せよ」、「批判心を持つな」と言われても、愛著・嫌悪が強くなっているから収まりません。
 和合ができないというのは、それぞれの愛情欲求、プライドが強く、それゆえに、意見の異なる者、批判的な者を嫌がり、面倒くさがる、恐怖する、すぐ怒る、十分な話し合いが持たれなくなることなどから起こるのでしょう。
 悟りを求める人は、他人の粗雑な対応も、「自分のカルマを落としてくれるので得である」と考えたり、「この現象界は無常で夢のようなもの」と考え、捨て去っておれば、そういう心は生じません。
 しかし、多くの人が、すぐ怒り、癇癪(かんしゃく)を起こす。これは、アナハタの愛情欲求・プライド、スーリヤの怒り、スヴァディスターナ、ムーラダーラなどの詰まりでしょう。ですから、闘争に関するヴィシュッダだけの問題ではありません。

 昔は「和合せよ」などとは言いませんでした。単に、「カルマ落としとして喜ぼう」、「煩悩破壊しよう、エゴを滅しよう」と言っていました。外側に一切頓着しない、不動の心を求めておれば、周りの人がどうであるかなど関係ありません。いや厳しい環境こそマハームドラーとして歓迎されていました。
 また、少なくとも、ステージの高い者については、ライバル関係(切磋琢磨(せっさたくま)する好敵手)はあっても、共にワークできないなんてことは聞いたことがありませんでした。それは、単に、真剣に法を求める心を失い、堕落しただけです。


 また、上から下への蔑視も起こったかもしれません。また、男性による女性の蔑視が起こったかもしれません。確かに少なくない女性について、愛情欲求が表面化していたのでしょう(もちろん男性もそうですが)。しかし、それは、教え・戒律を守らないからそうなっただけで、女性が本質的に駄目なのではありません。男女が無駄話をしないという戒律を破り、煩悩的な会話にふければ、性欲の破戒に行き着くだけです。逆に、男女が戒律を守れば、女性が行き着くところは、男性と変わらぬ「絶対の真我」です。

 すべての問題は、自分自身の日々の身・口・意の破戒の修習が原因でした。本当の意味での帰依がなかったのです。法則の理解がなかったのです。しかし、多くの人が、それを人のせいにしました。そうして、嘘、悪口、無智のカルマを積みました。
 「尊師がいないから修行が進まない」というのは、嘘です。尊師の教えを実践していないから修行が進まなかっただけで、それを懺悔すべきでした。実際、修行して、体験が深まった人も少なからずいます。
 「上が悪い」というのも、無意味な悪口でした。尊師の教えを実践していれば、上がどうでも修行は進むわけで、実際、そうしている人はこの期間でも修行が進んでいます。よって、多くの人が、新たにステージ昇格となりました。このような体験談はホームページでも、テレビ放送でも出していきたいと思います。
 ここで、修行していなかった人は、卑屈になってはいけません。他人を嫌悪できなくなると、卑屈という形の自己嫌悪に陥るのは、努力すれば他人も自分も変わるんだという真理の法則の否定です。努力し始めることが大切です。

 また、上の人との関係では、自己の愛情欲求・プライドといったけがれを取り払ってみれば、ステージが上の人の方が確かに優れていることがわかるのではないかと思います。教団に戻ってきて何人もの、上を批判するサマナの相談を受けました。確かに彼らの言うことに一理ありました。教団全体が意識低下したのですから。しかし、上と下を客観的に比較してみると、やはりその心の強さは大きく違うことが、この期間の観察を通してわたしは確信しています。
 特に正悟師、師もステージの高い人は、特にそうです。一方、批判している人は、自分が批判している内容と同じことを他人から批判されることが多くあります。つまり、自分を正確に見れていません。自分に甘いのです。そして、その人自身が、プライドを形成し、批判に非常に弱くなっている傾向があります。これは説法でも述べられている内容です。
 よく、師が正悟師の批判をする。しかしわたしが今回感じたことは、ステージの順番で、やはり五蘊は浄化されてるなということであった。つまり、正悟師・正大師は、平然と今回の旅行を受け止め、師は悪戦苦闘したと。それは、腹痛、下痢、熱等によって悪戦苦闘したと。しかし、一般の流れにおいては、師から正悟師を見た場合、あるいは正大師を見た場合、批判の要因があるかもしれない。しかしわたしに言わせると、その心の強さというものは、ステージに応じて全く別のものである。そしてその心の強さは何を意味するかというと、個の完成ではなく、救済のときに大きくその現われが出てくるわけである。そこにデーヴァダッタは気付かなかったわけである。

 六神通のプロセスも大切だけど、もう一つは心がね、どれほど成熟してるかだ。
 例えば今の大師方は、わたしがもし、強烈なマハームドラーをかけて、いじめたとしてもだ、つぶれることはほとんどないだろう。しかし今のシッシャは、もしわたしが本気でマハームドラーをかけたら、3分の1になってしまうだろうね。それほど心の強さが違うってことだな。そして、輪廻転生を行なうとき、必要なのは心であると。

 スワミ、大師は別にしてね、シッシャに聞こうじゃないか。批判するとき、心は強い状態であると思うか弱い状態であると思うか。どうだ。強ければ批判すると思うか。しないと思うか。
(一同)しない。
 そこを理解すべきだ。いいね。
(一同)はい。
 そして君たちは、わたしの弟子になったということは、心を強くするために、そして成就するためになったわけだから、そうでしょ。そういう自己にマイナスになること、悪友に接することをなしてはいけない。いいね。
 さらに、他人を否定すると自分も向上できなくなります。これもかなり教団、サマナの意識の低下につながっています
 もし君たちがだよ、わたしに至る途中の過程の大師を否定するとしたならば、君たちは結果的にはわたしも否定することになるよね。どうだそれは。わかるかな、言ってることは。(中略)つまり過程だということだ。そして、人間が解脱していく、解脱というのは、何かというと智的な進歩、ね、智的な進歩とは何かというと、知識ではなくて、その人の持っているキャパシティーね、能力、この、能力の増大といってもいいかもしれない、神通もその能力に入るからね。その能力の、増大そのものを否定するとしたら、君たちは落下するしかない。そして、落下して行き着く先は、三悪趣だ。(中略)もし、大師の中で、納得できないようなことがあったら、それは、ケイマ大師に上げるか、あるいはわたしに上げなさい。検討しよう。(中略)君たちは、まだ、無明の中にいる。無明の中にいるということは何かというと、何もわかってないってことだ。何もわかっていない状態で、人を批判してはいけない。批判をすることによって、君たちはまた新しいカルマを積み、そして、真理から遠のいてしまう。それを意識しなければならない。いいね。(中略)。

 わたしは、師以上の者のすべてを肯定しろとは言っていません。しかし、良いところをまね、悪いところは自戒の材料、反面教師にすればいいと思います。
 組織として大きな問題があれば、冷静にまず質問すればいい。質問してもわからなかったら、上のまた上に上げればいい。それで駄目だったら、忍辱して、自分がその状態で積める善行の実践をひたすら積み上げればいい。否定的になっている法友にもそう説けばいい。「外界は関係ない。すべては自分の徳。カルマで決まるんだ」と。
 そうすれば必ず三宝の祝福があるでしょう。なぜならそれが徳を積んだ者に対するカルマの法則ですから。徳の増大の結果、環境の方が変わるときもあるし、環境を受け止める貴方の意識レベルが変わって、地獄に見えたものが天国に変わります。ときには、意識レベルが急激に変化するマハームドラーの体験をするでしょう。
 マハームドラーというのは立体的なヨーガであると言うことができる。したがって、例えば単純に記憶修習すれば、それで達成できるのかというと、そうではない。その記憶修習されたものが身において、言葉において、心においてどのような形で立体的に表現されるか、また逆にそれを見るために支部活動を行なわせてるわけだ。
 例えば(中略)批判した。これはグルの意思と違うからまずいと。それは正しいだろう。しかしその批判というエネルギーのロスによって逆に自己の集中しなければならない部分に対して集中できなくなったという欠点がある。つまり何を言いたいか。周りはどうでもいい。まずグルが言ってること。例えば(中略)サマナを修行させる。そして自分自身はひたすら救済活動を行ない、ボロボロになるまで頑張ると。悪条件であろうと、いい条件であろうと関係ないと。絶えずベストを尽くすと。これを、もし(中略)達成できるようになったならば、一つの衣を脱いだことになるだろう。
 マハームドラーとは王の道であり、そしてボーディサットヴァの道であり、そして真理勝者の道である。以上だ。

 と、まあここまでは、いいかな、普通のパターンだ。これからより一歩進んで、高度な修行を望む者は、次のことを実践しなければならない。それは何かというと、人は人、自分は自分と。これは、エゴイスティックという意味じゃなくてだよ。自分の目標としなければならない者はグルであるから、グルの教えとはどこにあるのか、そしてグルの意思とはどこにあるのかを考える。そして、批判するところは見ず、その人の称賛すべきとこだけを称賛し、淡々と積極的に自分のワークを行なうと。そして、説法をより深く理解する時間を持ち、より深く理解すると。そして、その法の精髄を、ね、理解した法の精髄をしっかりと説き明かす訓練をしていくと。
 というのは、わたしたちはね、1日24時間しかないわけだよ。そうだね。24時間しかないのに、そのない時間を、例えば嫉妬とか、闘争とか、ね、あるいは批判とかいうような下劣な時間に当てていたのでは、時間がなくなってしまうと。

 しかし、もう一つのタイプの出家修行者がそこに存在している。それは、自己の煩悩を見つめ、捨断し、(中略)教えを記憶し、実践し、堕落した教団内の者に対して目もくれず、批判することもなく、淡々とその現象を見つめると。そして、自己のなすべきことをひたすらなし、堕落した教団の者に対して哀れみの心を修習すると。このような出家した弟子は、必ずや煩悩の滅尽へと向かう。つまりこれこそが、ビックであり、あるいはビクニなのである。

 その第1はだ、自己の心を磨き上げる、あるいは、自己のカルマを浄化することこそ価値があるものであって、ね、他のカルマを見つめたり、あるいは他を批判することは全く無価値であるということの話を一つしたいと考えている。(中略)
 まずね、これは、この前もちょっと話したと思うんだけども、ねえ、あなた方が車を1台ずつ持ってるとしよう。そして、あなた方の周りの人もだ、同じように車を1台持っているとしようじゃないか。そして、自分の車はけがれ傷ついていると、ね。そういう状態にあるにかかわらずだ、隣の人の車は、あそこはけがれてて汚いと。ねえ、あそこに汚れが付いていて汚いと、あるいはあそこに傷が付いていて汚いと、ね。あるいは、あの車の色は好きじゃないと、ね。こういうことを言っている人がいるとしたならばだ、その人は何らかの利益を得ていると思うか、思わないか。どうだ?
 師以上の者を否定せず、肯定しろというのは、彼らが解脱の状態に向かう「過程」にあり、最終的にその状態に行く能力があるということを肯定すべきだということだと思います。そうしなければ、自分の向上する能力も否定されることになります。しかし、批判している人は、実際は、嫌悪によって、「あの人は駄目だ」と、その対象の能力を完全否定してしまうのです。
 批判・悪口によって、意識が堕落し、無智化した人の中には、「わたしはできない」という人が出てきました。これは先ほど説法にあった、阿修羅から動物のプロセスです。卑屈・無智は動物のカルマです。
 つまり、自分でもわかっていないかもしれませんが、「できない」というのは嘘で、「できるようになるだけの努力はしたくない」というだけのことです。または、「他人よりもうまく早くできないからプライドが満足できず嫌だ」というだけのことです。
 よって、「わたし」はできないということになります。真理を求めているなら、他人と比較するのは無意味ですが、愛情・称賛を求め、プライド・卑屈に引っ掛かっているから、「わたしはできない」という話になるだけなのです。
 実際、必死になって努力すればできないことなどあるでしょうか。単に真剣な求道心が欠けているだけなのです。その裏に、今の怠惰が、将来の激痛、悪趣につながることを理解しない、無智、怠惰があるわけです。
 また、「誰々さんに傷つけられた」という人が多く出ました。そして、そういう人たち同士で、「わたしもそうよ、貴方もそうなの。本当にあの人はひどい。むかつくわよね」という形で増幅し、場合によっては、直接対決にさえ至りました。
 しかし、「傷つけられた」という言葉は昔の教団にはありませんでした。それは傷つけられることがなかったからではありません。むしろ、多くの師の方は、「今のサマナは昔のサマナのようには叩けない、優しくするしかない」と言います。
 傷つくのは、自分に愛情欲求があるから傷つくのです。これは、自作自演なのです。また、傷つけるから傷つけられるわけでこれも自作自演です。厳しい言葉で言えば、真の幸福を求める修行者なら、「傷つけられた」などと言うことは、愛情欲求を隠すこともできない修行者と言うことができます。

 法友が傷ついているときも、この真理の法則を説かねばなりません。なぜなら、これがわかり、自我執着から解放されない限り、法友は解放されないからです。なあなあでは教団は凡夫の社会と同じになってしまいます。
 とはいえ、それは他人に悪口を言ってもいいというのでは決してありません。自分は、悪口に耐え、忍辱と聖無頓着の実践をし、他には悪口を言わず、慈愛を持つのが、修行者の徳です。こういうと、「なぜ他人はよくてわたしだけが」と考えるとしたら、教学不足です。なぜなら、そうすることで、苦しみの本当の因である、自我執着、自己を偏って愛する心が弱まるからです。何が、本当に、徳(得)で何が損なのかをよく理解しましょう。
 また、「グルは好きだけど、あの師は嫌だ」などというのは、帰依ではありません。それは、外界に対する愛著・嫌悪であり、邪悪心に基づく言葉であり、悪口の破戒です。その人が帰依しているとは言えません。教えに背いているのですから。

 そして、「マーラのサイバー教団」が登場しました。煩悩的な綺語と悪口が、インターネット、メール、携帯電話などで駆け巡る。「破戒データウイルス」に、教団中が感染してしまったようです。もともとワーク以外の会話は破戒でした。このグルの教え・戒律をバカにしてはいけません。そこからマーラが侵入してきます。

 これは推測ですが、福岡事件も我々の堕落した意識の現われではないかと思います、それを外に原因があると考えると解決しません。すべては心の現われなのですから。アナハタに何かが降りてきて云々というのも、愛情欲求・プライドでアナハタを詰まらせていればそうなるかもしれません。
 すべては、自己の心の現われですから、人のせいにするのはやめましょう。
 そして、自己の努力は必ず実ります。なぜなら、すべては自己の心の現われだから。
 さて、ここまでで過去の分析は終わり、次に、これらの出来事の意味合い、総括をしたいと思います。
 まず、ここで大切なことは、どのような出来事、経験にも絶対的な善悪はなく、すべてはそれをどのように心が処理するかです。例えば、失敗は成功のもとであり、苦しみは喜びとすべきであるということです。

 ここで重要なことが、苦しみは信と帰依のもとであるということです。
 苦あって信あり。これはマハームドラーの極意です。
 事件以来、教団システムの中で煩悩を抑制してきた我々は、それから放たれ、自分に潜在していた煩悩が吹き出しました。そして煩悩の苦しみを味わいました。戒律を守らないことの苦しみを味わいました。教団全体が味わいました。
 これは、弟子に潜在する煩悩を表面化し、その苦しみを経験させ、煩悩を捨断するプロセス、すなわちマハームドラーなのです。集団マハームドラーです。
 我々は、祝福の苦しみをバネにして、今こそ真剣に煩悩破壊に向かうべきです。煩悩を満たせば、戒律を破れば、苦しみしかありません。それを超えるには、煩悩破壊を目指し、教え・戒律を守るべきです。皆でそれを認識し、集団的なマハームドラーによる覚醒、意識のジャンプを実現すべきです。

 実際、それは、もう既に、個人単位で起こっているのです。わたしがかなり関係している「慈愛」では、担当の師や、今回、徳師補、徳サマナ長に認定された人の中に、真剣に悩みながら、マハームドラー的な意識の変化を経験している人がいます。
 現実世界の経験や、苦しみをベースに、真の法則の理解が生じる。そして、意識が大きく変わる。愛著・嫌悪から、プライドから、自己優位の考えから、解放される。ナーディーが解放され、迷いがなくなり、心身が安定する。人によっては、一瞬で変わる。まさに意識の移し変えです。
 わたしは、複数の事例が続いているため、三宝の祝福による、煩悩破壊の伝家の宝刀、マハームドラーが、教団に戻ってきた感じを持っています。

 そういえば、新しい東京道場ができたとき、珍しいほど大きな鮮やかな虹がかかったそうです。これは人間界と天界を橋渡しする吉兆だといわれています。修行者のたどる道筋を、そのバルドの色に関連づけて虹の階梯ともいいます。カール・リンポチェが転生したときも虹が出ました。
 また、名古屋の道場ができたときには、道場の真上で、大きな雷が鳴り響いたそうです。雷はシヴァ大神の祝福です。雷電の生命体ですから。
 ともかく、わたしは教団に対する三宝の祝福に確信を持つことにしました。
 シヴァ大神は破壊神といわれます。煩悩を、カルマを破壊する神だからです。
 今、シヴァ大神が望んでいるのは、破戒の破壊です。
 さて、苦しんでいるサマナに対して、煩悩が苦しみの因だということを説かずに、単に優しく交わっても、エゴは肥大するだけです。肥大化したエゴは新たな苦しみの因になります。
 それは安心施ではありません。説法にあるとおり、安心施とは、法則で、他の苦しみを取り除くことです。よって、法施の一部なのです。
 そもそも煩悩破壊する以外は真に幸福になる道はありません。煩悩に妥協したい者が、互いのエゴをいたわり合っても、長期的には苦しみが増すばかりなのです。
 煩悩破壊しか幸福の道はない。そう確信し、真の慈愛を持って、法友に対応するべきです。煩悩という麻薬中毒にかかっている人が、麻薬を与え続けられたら三悪趣という廃人になります。

 もちろん、すぐに煩悩中毒がやめられない場合はあるでしょう。段階を踏むことはテクニックとしては正しいでしょう。しかし、「厳しいことを言えば相手は離れてしまうから、妥協し優しくするしかない」と言う人には疑問があります。
 人は自分を本当に愛してくれている人からは離れないと思います。嫌悪をする人から離れるのです。厳しい言葉であっても、それが、だらしない相手に対する嫌悪によるものか、本当に心から相手のことを思ってのことかで、大きく違ってくるでしょう。
 それは、あなたの意識が、相手の意識を変えるからです。理屈はなく、あなたの心、データが相手に移入されるからです。相手の心は、言葉を超えて、貴方が本当に相手のことを思っているか、単に法則で拘束しようとしているかを感じるでしょう。

 ここで、ポイントとなるのは、あなた自身が煩悩破壊の価値を信じているかです。自分に何らかの確信や体験がある人は、それに基づいて説けばいいでしょう。自分に準備ができてなければ、上のステージの人に任せればいいと思います。無難なのは、師の人に任せることですね。 
 同様に、貴方自身の悩みについては、基本的に貴方よりステージの上の人、師以上の人に上げるべきです。そうしなければ、煩悩を増幅するだけになるおそれがあるからです。
 次に、我々は煩悩破壊をしなくてはなりません。まず、煩悩破壊できるんだと考えるべきです。なぜなら、煩悩破壊は基本的には簡単なことです。そうグルから聞いたことがあります。なぜなら、ただ捨てればいいからだと。一切を捨てればいい。全力で捨てればいい。全力でやればできないことなどありません。
 ここで言いたいことがあります。わたしの直感的印象では、今後、全力で煩悩破壊に邁進(まいしん)するに違いない多くのサマナがいるということです。彼らの中には今はステージの高くない人も少なくありません。しかし、相当のエネルギーを持っています。彼らは急上昇してくるだろうと期待しています。煩悩を増大させる阿修羅の闘争はごめんですが、煩悩破壊ならガンガン競争して欲しいと思います。

 そして、非常に大切なことは、煩悩破壊の最大の手段は、「サンガ」であるということです。あることが常識の集団の中では、それをなすことは非常にやさしいという事実があります。
 アメリカで英語を話すようになることは非常にやさしいが、日本では英語は難しいというのもその一例です。昔の教団は、皆に煩悩破壊が当然だという観念が支配していましたから、皆があまり苦労なく煩悩から離れていました。
 煩悩破壊に対して否定的な観念が少なく、煩悩的な行為をしたらすぐ否定されました。聖なるデータがその空間に満ち、高いエネルギーレベルが存在していました。サンガの、聖なる常識こそ、我々の取り戻すべき教団なのです。
 さて、今回の状況はグルがいないから起こったのではなく、似たようなことが、89年などにも起きたことを書きました。ですから、問題は我々の側にあります。
 それは、我々が我々の問題を解決すればいいということでもあります。そのときに倣って、教団は抜本的な改革を行ないましょう。89年のときは、新しいステージ制度、教学・論議の修行など導入されました。今回もそうしたいと思います。
 さあ、もう否定的な心は捨て、否定的な会話、交友は断ち、向上することだけを考えましょう。選挙のときの説法の続きを引用します。
 よって、大幅なシッシャ制度の改革をしようと。ここで落ちる人がいたらそれはしょうがないと、ね。というのは、現世にいて生活したら、どっちみち地獄・餓鬼・動物なんだからと。それがシッシャになり、そして、ね、シッシャ生活がちゃんとできて初めて、人間・阿修羅・天界、あるいは優秀の人はブラフマン、あるいは光音の世界へと生まれ変わることができるはずであると。
 ところがそうではなくて、もしこのシッシャ生活の中で、本当にぐうたらぐうたらとして、ね、生まれ変わったとしたって、せいぜいが動物であると。そしてまあ、このシッシャの中にも、動物のカルマを持っている人はたくさんいると。こんな動物のカルマをわたしが野放しにするということは、グルとしてわたしは、大変な汚名を背負わなきゃなんないと。(中略)
 そしてそのシステムを持つことが大切であると。よって今回の大幅なシステム改善になったと。(中略)システムの大改造をしない限り、オウム真理教のシッシャ制度、内弟子制度そのものが、太刀打ちできなくなってきてるんだ、ということに気付いていたから、大改造する時期だなと思ってたわけだね。
 よって、今回の第2回のシッシャ大会の、まず提言は、「下を見るな、上を見よう」と。簡単な言葉だけどね。「下を見るな、上を見よう」と、ね。そして、「悪趣を見るな、天を見よう」と。「下を見るな、上を見よう。悪趣を見るな、天を見よう」と。これをスローガンとしようじゃないか。
 これは仏典では、「善き友と交われ」と、「悪しき友と交わるべきではない」という内容のことが書かれている。そして、別の表現ではこういう詩がうたわれてるね。「カルマの悪い者は、船に浮かぶ木片のように、ね、海面を漂流し、そして悪しき者と交わり、その重みによって沈んでしまう」と。意味がわかるね、これは。
 つまり、シッシャが400名にもなると、悪しき友も相当数いると考えていい。その人たちを引っ張り上げる、絶対に自分は引っ張り上げるという百の自信がない限り、そういう者と交わってはならないと。交わるというのはセックスではなく、お付き合いしてはならないということだ。男性にしろ女性にしろ同じだ。そういう人と交わるということは、単に心が乱れ、単に動物・餓鬼・地獄の世界へ生まれ変わるんだよということを認識すればよろしい。いいね。
 下を見ずに、上を見るために、今後なすべき教団の改革を次のとおり提言します。

 まず、皆が何をすればよいか十分にわかるように、徹底的に説法を行なう予定です。直接の説法に加え、ホームページ寄稿、テレビ放送、テレビ電話装置を使う予定です。
 次に、大きなシステム改革を行ないます。
 まず、改革理念としては、修行を進める四つのポイントである、瞑想・功徳・教学・決意(継続的向上欲求)を採用します。これは、瞑想を禅定、功徳を戒律(禁戒・勧戒)、教学を智慧と対応させると、戒・定・慧という仏教・テーラヴァーダの大原則と同じです。

 第1に、継続的な向上欲求を持つ上での手助けとして、「アレフ新ステージ昇降格制度」を導入します。そして、以下の功徳・戒律・瞑想・教学・論議の実践を昇格の基本的条件とします。

 第2に、功徳・戒律については、過去の戒律を厳密に再生するために、「アレフ徳法」を制定します。新たな戒律用の奥儀書を作って、「受戒式」を行ない、持戒の決意を新たにするのはどうでしょうか。

 第3に、光音天修行を含めた日々の瞑想修行を徹底します。特に、真に極限の修行である「到達真智運命魂修行」を導入し、「ピラミッド・イニシーション」を伝授します。今の修行プログラムはまだまだ甘いですから、この修行で多くの体験が起こるでしょう。89年の後も多くの成就者が出ました。

 第4に、「アレフ教学システム」に加え、新たに「アレフ論議システム」を作ります。これによって、法則を単なる知識ではなく、真に煩悩破壊に活用できる智慧とし、他人の調御にも使えるようにします。
 新制度を励みにして、ステージをどんどん上げてください。

 そして、ここ数年間の流れは、祝福のマハームドラーだと考え、前向きに未来のことを考えましょう。
 21世紀、アクエリアスの時代も目前です。性愛・破戒の魚座の時代は終わろうとしています。やってくるのは、人が神々になるアクエリアスの時代です。
 偉大なる三宝のマハームドラーに感謝致します。すべてのサマナが覚醒へと至りますように。