マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第26回 阿修羅を脱却し、救済を成功へ


 前々回あたりから始めた大乗の法則のお話ですが、その中心にあるのが利他の実践です。そして、利他の実践をするためには、まず身近な人に、それを当てはめて実践することが欠かせません。すなわち、教団としては、全教団がしっかり和合して互いを尊重し、最大限協力し合うという状態がその実践になると思います。

 現在の教団は、それが、一歩一歩進み始めている面が確かにあります。それは、とても良いことだと思います。しかし、それをもっと進めていかなくてはならないと思います。

 というのは、教団には前生の流れからして、阿修羅のカルマの人が多くいることはご存じのとおりです。この阿修羅は自己向上欲求が強く、人間のような愛著からは離れているし、科学、論理、智性に優れており、阿修羅から神聖天に至る道筋があります。加えて、我々は、グル方に与えられた修行者の種子がありますから、特別の阿修羅の一派です。

 とはいえ、阿修羅のカルマの悪い部分もやはり引きずっており、今、それを完全脱却していく時期がやってきたというのがわたしの確信です。例えば、去年のオウム騒動については、見通しのない対立関係と、内部の和合の欠如といった、阿修羅のカルマの悪い部分が出てしまった面があります。そして、その騒動が、阿修羅のカルマを落とすきっかけになり、今、それから脱却し始めています。

 サマナの状態も、人それぞれとはいえ、事件以来、ないしは、去年以来、意識堕落的な面があったと思いますが、タマスしていても苦しみは抜けないし、やっぱりしっかり上向修行に向かわなければいけないなと思う人が出てきているように思います。

 後で詳しくお話ししますが、わたしは、阿修羅は闘争モードのときと、タマスモードのときがあるように思います。そして、教団全体の流れとしては、闘争モードの後に、タマスモードに入り、今、その双方から脱却し、阿修羅の良い面である自己向上欲求によって、神聖天に向かっていくきっかけをつかみつつあると思います。ラジャスからタマスそして、今サットヴァへということです。

 それでは、阿修羅のカルマの問題を丁寧に見ていき、自己のカルマの証智と捨断について考えることにしましょう。まず、@わたしたちに阿修羅のカルマがあることと、Aそれを超えることが救済の成功につながることです。
 


 なぜ、意識堕落天と三十三天界が闘争しなくなったかというと、それはわたしの十の戒め、三つの布施等がその意識堕落天に浸透し、そしてその教えを実践している人が多いからである。(中略)だからよくオウム真理教の人たち見てごらん。確かに戯れ堕落天の人たちもいるけど、意識堕落天の人が多いよね。(中略)それは、その生でわたしに帰依した人たちが生まれ変わってきているわけだ。だから彼らは否定的であると。まあオウム真理教が発展しないのは、その意識堕落天の魂の悪影響によって発展しないとも言えるわけだけど。救済には二つの目的があるよね。(中略)一つは弟子たちを成長させること。もう一つは多くの人に真理の法を広めること。そうでしょ。(中略)だから、意識堕落天の魂も当然救済されなければならない。よってそれはそれでいいと。

 そして、次に、阿修羅のカルマの概要を見てみましょう。

 この意識堕落天の世界は、大変科学が発達している。ここで要求されるものは、純粋な論理性であり、そして自分自身の観念の中において認められるものに対してのみ、積極的に生きる姿勢である。

 この意識堕落天の世界は、わたしも何度となくその世界の王として君臨したことがあるからよくわかるわけだが、そこに住む魂は、否定的であり、そして排他的である。しかし、自分の得意分野に対しては、大変優れた才能をそれぞれが持っている。

 今の意識堕落天は、大変宗教性が発達し、特に密教や仏教が大いに発達している世界なのである。しかし、ここの魂は他人を尊敬することをせず、そして、自分の担当する役割にだれかが干渉しようものなら、即闘争を挑む。よって、ここの世界を闘争の天界と呼ぶこともある。例えば、後期『旧約聖書』などの世界における天の描写は、まさにこの意識堕落天ということになる。

 そしてこの意識堕落天は、交わった剣、その周りに炎という象徴で表わされている。


 これらの阿修羅のカルマが、教団活動のどんなところに当てはまるか、例を挙げてみると、例えば、部署間の協力が乏しいという点が挙げられるのではないかと思います。今後、どのくらいサマナの間、部署の間の相互協力ができるかが、阿修羅のカルマを脱却する一つの指標になると思います。それぞれの部署が、自分の部署の活動のみにとらわれず、教団全体への奉仕・協力を考えることによって、その部署の精神性と徳が向上していくと思います。事業や財施をしているサマナと、支部で信徒対応をしているサマナの垣根は全く不要です。

 財施をしているサマナでも、精神的に安定していて、意欲があれば法施の功徳を積み、信徒対応の人と目的を共有することができますから、師の人と相談すればいいでしょう。

 信徒対応サイドの成就者も、財施をしているサマナの教化を助けることができるでしょうし、自分の担当地域を超えて他地域の担当者と協力し合うことができるでしょう。与えた者は与えられます。

 内ワークのサマナは、自分のワークの縄張りの中で現状に満足して堕落せず、どうしたらより功徳が積めるのか、どうしたら教団の救済活動にもっと貢献ができるのかを考えるとよいと思います。すると自然に、教団全体と和合することになります。また、部署内に十分徳を積む機会がないなら、全体のことを考えて、支部や財施関係に回って徳を積む方がいい場合もあるでしょう。

 このようにして、教団が和合・協力という形で利他の実践を深めるならば、教団全体としての力は強くなり、皆が利益を受けることになります。説法にも次のようなものがあります。

 第2番目の「和合」というのは、これはまさにエネルギーが漏れているか漏れていないかのチェックである。もし、内側で争っていれば、結局そこでエネルギーのロスがある。エネルギーのロスがあれば、繁栄がないということになる。大体、(中略)、阿修羅が弱いのはそこなのだ。もともと阿修羅というのは、第二天界より力を持っているのだが、「俺が俺が」「我が我が」という感じでぶつかり合って和合がないから、内側でエネルギーを消耗してしまうのだ。

 これは非常に面白い説法だと思います。結局一人の力は限られており、一人がどんなに頑張っても、和合による全体の力には勝てないということでしょう。一人のスーパースターがいても、他は活気のないチームより、チームワークのとれた全員野球の方が強いというのはよく聞く話です。

 自分の能力に自信のある人は、プライドによって、いたずらに、自分のやり方にこだわり、他と闘争することがありますが、実は、他をフルに活かすことを心がける者こそ、真の智慧者、煩悩に対する勝者と言うことができるのでしょう。

 また、もう一つ別の話として、意識の広がりとステージの関係についての教えを紹介しましょう。まず、一般に、阿修羅が自分中心に物事を考え、第二天界の魂は、自分のグループのことを考える心の大きさがあり、さらに第四天界から、すべての魂に対する慈悲、四無量心が芽生えていきます。自分のことのみ考えている人、自分のグループのことを考えている人、教団全体および社会のことを考えている人、といった順でステージが上がっていくわけです。よって、特にリーダーの方には、教団全体を考える広い心を培うようにしていただきたいと思います。そういう人が増えるほど、救済活動は進むでしょう。

 さて、少し話がそれますが、今後、天界と阿修羅の逆転現象があると思われます。つまり、今まで阿修羅だった者が天へ昇るわけです。そして、その天界の流れがこの世に投影されてくるのですから、この世に存在する我々が、阿修羅のカルマを脱却し、神々の意識に至ることが、救済活動のポイントであるとわたしは考えています。

 そして「天の権力者」。この天の権力者は(中略)、今この世の中を見てわかるとおり、ただひたすら荒廃をし続けている。この、ただひたすら荒廃をし続けるこの時代というものは、明らかに今の天の支配者が堕落していることを表わしているのである。(中略)つまり、今天界にいる魂というのは維持、享楽の維持を根本としている魂が天界を支配しているのだ。しかし今、意識堕落天にいる魂は、(中略)解脱することを意図している魂が存在しているのである。よって、ここで逆転現象が起きるのである。逆転現象が起きることによって、この地球だけではなく、すべての世界のエネルギーの流れが変わり、欲望から、欲望を超えたものへと移行していくのである。

 さて、これまで述べたことは、どちらかというと、阿修羅の闘争のカルマでしたが、もう一つの阿修羅の要素は、動物的な要素です。これは、意識堕落、否定的な要素とも関係があると思います。

 例えば、大変優秀な人で権力に執着している、しかしもう一方では、動物的要素、苦しみを嫌がる要素を持ってる人は、意識堕落天へと転生する。そして、耐える力が大変強いと、しかし性愛の喜び、食べ物の喜び等を求めている人は、戯れ堕落天へと転生するのである。

 これには半神、つまり semi devine being という意味が存在している。では、semi devine being とは何か。これは、半分神という意味なのである。では、もう半分は何なのかと。これは動物的要素を持っているということなのである。よって、この阿修羅は、緑と白で表現されるのである。

 権力という点については、出家教団の上下関係はもともと強いですから、十分な下への気配りが必要になるでしょう。あれこれ指示するだけでなく、下の人をよく理解する、知る必要があると思います。粗雑な行動が多くなると、威厳よりプライド・傲慢さと受け止められることになるからです。

 また、権力の独占にとらわれなければ、部下をよく理解し、熱心に育てる慈愛の実践をすることができます。一人の力には限界があり、組織は、多くの人の力の結合で活性化すると思います。また、威厳は必要ですが、単に強圧的だと、周りが萎縮したり、有能な人が去り、イエスマンしか残らないという結果になるでしょう。

 一方、自分が下の立場に立つと、動物的なカルマの自己保全・恐怖によって、上の指示に疑問・疑念がある場合などに、相手を理解しようとしっかりと質問をするのではなく、陰で悪口・両舌をなすケースがあるように思います。この場合、直接上を批判すればいいというのではなく、批判はせず、理解するために質問するということでいいのではないかとわたしは思います。また、説法によると、これで解決しない場合で、かつ、法則の限界を超えるような重大な問題があれば、批判はしないまま、もう一つ上に上げるべきだとされています。

 こうしてみると、阿修羅のカルマによって、上が下に壁を作って、下が上に壁を作ってしまうことがわかります。これは、上の人も下の人も一致して取り除くべきカルマだと思います。一言で言えば、上も下も互いに対する理解を深め、お互いに対する慈愛の実践が必要なのです。

 次に、阿修羅の否定的な、意識堕落のカルマについて考えてみましょう。

 しかし、その前に、原則としては、阿修羅は、自己向上欲求が強いし、まじめなので、その点で修行に向くのではないかとわたしは考えていることを強調したいと思います。実際、今の阿修羅の世界は、仏教・密教が大変よく発達しています。ですから、阿修羅は修行者としての素質があると思うのです。

 ただし、阿修羅の要素の中で、積極的な修行を阻む面もあると思います。

 というのは、修行の道も救済の道程も、基本的には、未知のことでいっぱいです。修行では、今まで経験していないことを経験していく連続です。また、救済活動においては、教団を取り巻く現況を切り開いていく積極的・肯定的な心の働きが必要です。

 しかし、阿修羅は経験の構成にとらわれていますから、挫折の経験をすると、それにとらわれて、否定的になる人がいるのではないかと思うのですがどうでしょうか? そして、いったん、否定的になると、阿修羅の別の要素である、動物的な要素、苦しみを嫌がる要素などが表面化してきて、タマスになってしまうように思います。

 しかし、失敗しない人などいません。わざと失敗するのはカルマになりますが、カルマがある以上、まじめにやっていても失敗することはあります。そして、失敗イコール絶対悪ではありません。カルマ落としの苦しみは、浄化であり、喜びの始まりであり、失敗は成功のもとなのです。というより、真剣にチャレンジし、失敗と成功をできるだけ多く経験して智慧を増大させ、自分を高めていくことが、最高の生き方のように思います。説法にもこうした肯定的思考の大切さが出ています。

 (中略)何かオーダーしたとき、決してそれを否定することはしない。初めから「それを結果として出しましょう」と、そこから入ると。この肯定的思考というものは、この現代教育を受けた者にとってあまりなじみがないかもしれないが、これはまさにボーディサットヴァの智慧の経験の構成なのである。つまり、もしわたしたちが過去世において経験の失敗を繰り返しているとするならば、それは否定的になり、そして結果を出さない方が自分自身の名誉を傷つけないという判断に基づき、それによって否定的な返答をするようになる。しかしボーディサットヴァとはもともと、智慧の増大、四つの偉大なる覚醒を土台とする智慧の土台を根本としているから、決して否定はしないのである。

 例えば今わたしが置かれている環境、――ま、わたしは今回また、死・生のプロセスを経験したわけだが、――これら、つまり相手の攻撃にもめげず、死なずにこの世に生きていることそのものが、わたしの肯定的思念によって現象化されていると言わざるを得ない。

 阿修羅の人は、過去の失敗があると、その失敗を生かし自分が成長するという発想があまり強くないのでしょう。自分というものは、カルマによってできた無常なものであり、よって、努力すれば過去の自分とは違う自分をつくることができるというのが真実です。過去の経験が自分の可能性のすべてだという考えは間違っています。わたしたちは、この経験の構成にとらわれるというカルマに十分気を付け、常に肯定的な意識、前向きの意識を持って、修行と救済活動に取り組むべきだと思います。

 しかし、これに関連して、もう一つ注意しなくてはならないことがあります。つまり、先の説法にあった苦しみを嫌がる動物的要素です。これがあると、過去の失敗の経験を超えて、成功の源にするために必要な「努力」というものを嫌がるようになってしまうからです。

 例えば、失敗して、卑屈になり、やる気がなくなり、「わたしはどうせ駄目だから」と言い、他人の批判ばかりしている人がいます。このタマスモード阿修羅の人は、自分ができないのでもなく、他人が悪いのでもなく、努力を嫌がっている、意識堕落の状態であることに気付かなくてはなりません。いや、ほとんどの人は気付いているのかもしれません。

 しかし、真の聖者・救済者になるためには、一生をかけた、いや何生もの、こつこつとした修行が必要です。コツコツとした努力は必ず報われます。すべての努力には果報があります。それがカルマの法則ですから。

 ところが、例えば、「救世主がいないからどうせ努力しても無駄だ、成就しない」というカルマの法則に反した口実によって、怠惰を貪っている人がいるように思います。

 また、他人、上長に不満を持っている人の中にも、現在自分を取り巻く状況が自分のカルマであることを認識せず、コツコツと自己の善業を増大し、悪業を減少させる、徳を高めることによって、自分の理想を実現するという息の長い努力をできない人が少なくないように思います。その代わり、闘争、批判に偏ったり、それで成功しないので、タマスになり、陰で、不満、恨みつらみを言います。

 いずれも、基本的に、考え方がインスタントで、短期間の努力で、成就や成功が得られないかという考え方で、その裏には、無智、怠惰、努力嫌いがあるでしょう。バルドの色で言うならば、阿修羅の色の一部に、緑の色があるという説法を引用しましたが、その緑の色が濁りがあると、このような堕落した意識状態になります。

 この光を放つ濁った緑は、強烈なエネルギッシュな活動力を表わし、また否定的であり、堕落した意識状態を表わす。

 このタイプの人は、もともと大成功し、そして幸福になる可能性があるのだが、限界を試みるという習性が乏しく、特に努力という二文字については嫌悪の対象であり、全く無縁なことが多い。

 したがって、この色を好む人と恋愛をすることは楽しいのだが、結婚する場合、相手の性格を完全に限界まで努力させるような教えの実践をさせない限り、幸福な結婚はあり得ないだろう。

 ところで、この濁りは煩悩を表わし、特に性的な触覚における快感を貪る人に多い。また、この色を好む人は心変わりが早く、昨日泣いたり叫んだりしていたかと思うと、今日はもう笑っているといったタイプである。

 しかし、性格的根っこは大変深く、楽しいことや幸せな感覚はすぐに忘れるのだが、人生における暗い部分や、批判的なことは大変よく覚えている。そして、オートリバースのテープレコーダーのように、過去のわだかまりを一つのパターンにしたがってグチるのである。

 したがって、このタイプとのつきあいにおいては、こちら側が相手のグチを受け流すだけの大きな度量と、長い時間をかけて性格を改善させる努力をたゆまずやり続けることのみが、恋愛や結婚における成功のただ一つの秘訣ということになる。

 もし、この色を好むタイプの人が限界までの努力を始めたら、光を放つ透明な緑を好む人の状態になるのが早い。光を放つ透明な緑と、光を放つ濁った緑の違いは、限界まで努力することと、上昇志向が存在するかしないかである。つまり、光を放つ濁った緑は現状維持型なのである。したがって、この色を好む人の適職は、労働組合のしっかりしている会社のサラリーマンということになろう。

 これを脱却するために必要なことは、まずは無智と怠惰を取り払うことです。今楽をしていれば、そのつけは必ず後にやってきます。過去に失敗があったとしても、乗り越えるしか、幸福への道はありません。また、成功・達成の道のりが遠く見えても、コツコツ努力していくしか道はありません。

 そして、大切なことは、その努力を先送りして、タマスになっている間、堕落した意識を記憶修習し、自己の煩悩は増大して苦しみは増え、失敗を乗り越えるのも遠くなります。最後は阿修羅から動物界に落ちることになりかねません。その逆に、努力を嫌がらず、今できることをコツコツ行なっている人の方が、最終的には、ずっと苦しみ少なく、早く成功することができるのです。

 さらに、阿修羅を否定的にさせるもう一つの原因があります。それは、嫉妬心・害心です。つまり他の成長・進化を嫌がる、否定する心の働きが、カルマとなって自分に返ってきて、自分の成長・進化についても否定的になるのです。

 これに対しては、他の魂の善業・進歩を見つけたら、その点について称賛するように心掛け、「自分も善業を積み、進歩するぞ」という決意をすることが大切だと思います。称賛が苦手な人も、サマナは皆、未来の真理勝者と縁があり、未来に仏陀に導かれる魂ですから、それを尊重する心で観察すれば、必ず正しく称賛できるものです。

 ここで、「容易に称賛する場合は相手に慢を生じさせるのではないか」という考えもありますが、相手の全人格を称賛するのではなく、真に法則に合致する部分を称賛するように努めればいいと思います。大体において、法則に反する部分はすぐ批判し、合致している部分は称賛しないという、批判優位になりがちなので、自分を振り返り、称賛の量が、不足していないか考えると、おのずと方向性は明らかになるでしょう。

 さて、以上の阿修羅のポイントを確認する説法を少し引用しましょう。

 では、次に「経験の構成」「意志の遂行」で引っ掛かる魂、これはどこへ転生するのかと。これは動物と意識堕落天が中心であると。それはなぜかというと、この経験に対するとらわれというのは、例えばある経験があって、その経験が一つの結果を出すとするならば、その一つの結果を出す、いいかな、一つの結果を出すその形を自分の中に内在した以上、その他のことをおかすことは危険であると考える魂、つまり、その他に対して否定的な意識を生じさせる魂、これは、どうだ? 意識堕落天だよね。
 つまり自分の専門に対しては大変強いが、それ以外のことを一切シャットアウトし否定すると。これは意識堕落天の特徴だからね。だから、スペシャリストというのは意識堕落天へ転生する可能性が高いんです。

 なぜならば、意識堕落天という世界は、このような形でその世界から落下するのである。つまり、これを言い換えるならば、せっかく例えば教学や、あるいは功徳や、あるいは善の実践や、あるいは法則を知ることによって、三つの心の本質、わたしたちを苦しめる三つの心の本質、つまり、迷妄・邪悪心・愛著という三つを弱めたがために、ふと出てくる過去世の、例えばわたしの弟子である生のデータ、崇高な綺麗な心や、あるいは言葉や、あるいは身の行ないのデータが、本来はそれに任せればいいものを、意識が堕落してるがために「それはわたし自身ではない」と考え、そして自己を落下させる方向へと導く。
 第5番目の害心。この害心、人を傷つける心、これは間違いなく意識堕落天の心であり、これを修習することにより、自分自身の順調な能力の発達や智慧の発達が見られなくなる。よって、この害心も捨断しなければならないのである。

 こうすると、阿修羅を超えるためには、

@否定的な経験の構成にとらわれないで、カルマの法則に基づき、努力し続ける。
A努力を嫌がる背景には無智があるから、それは苦しみを増大させると修習する。
B他人を嫉妬、否定せず、正しく「称賛」することで、自分も上向する徳を得る。
ということになると思います。

 そして、何より大切なのは、皆さんの本質は、タマス阿修羅ではありません。それは、自己向上欲求に燃え、人間世界の愛著から出離し、前生から修行者の種子を与えられた特別な阿修羅の一派であり、阿修羅から神聖天界に至る道筋を有した聖なる出家修行者なのです。これが我々のカルマの本質です。

 それが、事件以来、または、去年の騒動以来、いろいろな挫折を経験し、そのため一時的にタマス阿修羅になり、苦しんでいる人も多いのではないかと思います。しかし、今後は再び上向の道を歩みましょう。

 今までの失敗の経験は成功のもとにし、今までの苦しみは、法則以外で解決しないのですから、信に結び付け、すべてを逆転させて、高いステージに至りましょう。失敗が深いほど、あきらめず活用すれば成功も大きくなる。苦しみが多いほど法則への信は強くなり、解脱への欲求は強くなる。そう考えて、上向にきっかけをつかみましょう。

 さて、最後に、口のカルマについて加えておきたいと思います。

 阿修羅の口のカルマは闘争を呼び、和合を阻みます。これは明らかで、称賛が少なく、陰口、悪口が多ければ必ずそうなります。わたしは、和合ができていないのは口のカルマが多く、持戒が守られていないからだと思うのです。

 また、阿修羅が神々のように神秘的でないのは、口のカルマでエネルギーが漏れているからだと思います。アンダーグラウンド・サマディを行なう前に、よく、口からエネルギーを漏らさないようにと言われましたが、聖者のポイントはエネルギー保全であり、そのポイントは口だというわけです。

 そして、当たり前のことですが、ぺちゃくちゃと、綺語や悪口を言う人は、神秘的に見える道理がありません。神秘力を付ける前には、少なくとも、何か普通の人間とは違う神秘的な要素、雰囲気が出てくることが必要です。神秘的な要素がないと、支部活動などの成功は難しいでしょうから、これは救済に直結した課題です。
 
 それでは、今まで、書いてきた阿修羅のカルマとその捨断をまとめるとどうなるか。それは、「六つの極限の実践」ということにほかなりません。口のカルマを捨断し、闘争せず、和合することは持戒の実践ですし、困難にあっても耐えて前向きに努力をし続けるのは、忍辱と奮闘努力の実践だからです。

 説法にもあるとおり、阿修羅は、布施功徳は何とかできるけど、持戒以上が苦手なのです。それは阿修羅のカルマが、持戒以上の実践を阻んでいる面があるからでしょう。もちろん、持戒以上ができないので、布施の極限も完成はしません。

 この点についても、繰り返しますが、阿修羅のカルマがあるとはいえ、我々は、前生から、六つの極限の実践をしてきた魂です。しかも、阿修羅の良さである自己向上欲求が六つの極限に向けば、大変なジャンプ力があります。ですから、肯定的な意識を持って、前向きに六つの極限に入りましょう。

 前回お話ししましたが、21世紀、アクエリアスの時代を前にして、宇宙のエネルギー、神々の祝福は、皆さんに注がれることでしょう。サマナの皆さん一人一人の幸福のためにも、教団の救済活動のためにも、阿修羅から神聖天界に行く道を上っていくときが来たように思います。

 今、覚醒の時代が始まろうとしています。

 最後に、真理の法則を実践することのできる皆さんの偉大な功徳を称賛するとともに、その功徳をお与えになった、シヴァ大神、すべての真理勝者、そしてグル方に心からの感謝の意を表します。