マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第24回 今、なぜ大乗の実践なのか
(8月7日 説法会の説法に加筆、編集したものです)



1.今、なぜ大乗の実践が必要か?

 これまで教団は、皆さんに行法セミナーを開催し、行法を正確に修習する機会を提供したり、光音天を作り、イニシエーションを伝授したり、部署によってはテレポーターによるイニシエーションを始めてきた。これらの流れは、どちらかというと自己の浄化をその中心的な目的とした、行者的な、小乗的な修行である。これは、一種の基礎固め、土台固め。

 その結果、行法は相当修習したし霊的体験をした人もいたので、それはそれでよかったと思う。しかし、そろそろ、より徳を積む実践、大乗の実践に入るべき時が来たと考える。それは、小乗の教えは土台としてなければならないが、大乗の実践なくして、わたしたちが本当に幸福になることはないからだ。

 そもそも現代人は、小乗では高い世界には行きにくい。人々のカルマが良い時代は、徳を積まず瞑想修行に入っても、その結果、過去世の清らかなデータ・功徳が現象化して、高い世界に行くことができた。それは、それらの魂が高い世界から落下して間もなくの状態であり、少しの悪いカルマを浄化すれば、本来の良いカルマが現象化してくるからである。一方、現代は悪業優位である。欲六界を何度も転生して今生に至っている。よって、悪業を落とし、善業を積み上げる修行が必要だ。そのために大乗の修行がある。

 さらに、現代人は、特に在家では社会から離れることができない。また我々も、救済ということを考えると同様である。よって、苦から離れる(逃げる)ことができず、小乗の修行の前提が満足されない。そして、苦を超えず、苦から離れる小乗の修行の到達点であるニルヴァーナは、再び三グナに強く干渉されると落下してしまう。よって、グルは大乗に導く。大乗のマハー・ニルヴァーナ以外は真の安定はない。

2.利他の実践こそ幸福の道

 日々の心の安定のためにも、自分の煩悩を満たさず、他のための行為に没頭しているときの方が煩悩が減少し、功徳が増大するがゆえに幸福になる。逆に言うと、人は自分を愛するがゆえに苦しむ。これを正確に言えば、本当の自分、絶対自由・絶対幸福の自分である真我ではなく、苦しみの原因である自我を愛するがゆえに苦しむ。

 例えば批判されたときの苦しみ。批判されるのではないかという恐怖。失敗したときの後悔。失敗するのではないかという不安。他より劣っていると思うときの苦しみ――。人は常にこういった事柄で悩んで、多大な時間とエネルギーをロスしている。

 しかし、これは何の得にもならないし、逆に苦しみを招き寄せるという事実に気付くべきである。まず、人は悩んでエネルギーを漏らす。時間とエネルギーを無意味に費やす。これは苦しみ一般にも言うことができる。苦しみはカルマ落としではあるが、一方、心が動くからエネルギーが漏れるのも事実である(煩悩的喜びを満足させているときほどエネルギーの漏れが大きいわけではない)。

 そして、悩むということは美徳でも何でもない。なぜならその背景には、ひたすら自己をかわいがろうとする心の働き、自己保全がある。悩みながら、ひたすら自己をかわいがる修習をしている。どんどん自己愛が肥大し、苦しみが続いていく。また、自己を傷付けた者を心の中で嫌悪し恨めば、そのカルマでまた傷付けられる(そのような他人の意識を引き出したり、嫌悪・恨みの多い人の輪に入っていくカルマの法則の働きである)。

 失敗を悔やんでばかりいては、時間とエネルギーをロスし、失敗を成功のもとにする前向きな反省と努力ができない。人は、今現在にしか努力できないのだ。悔やむことによって、現在の時を過去のために浪費する。その結果、下手をすると同じ失敗を繰り返す。

 いたずらに未来に不安を持つと、その不安でエネルギーをロスし、不安による否定的な想念が生じ、現象がうまく動かず、下手をすると、不安の的中を自分で招き寄せる。肯定的・積極的な人は成功しやすく、否定的・消極的な人は失敗しやすいのは、自己の因である。よって、不安が生じたら問題の原因を分析し、対策を立てることに集中し、あとは悩まない方がいい。果報は寝て待てである。

 他に対する劣等感に悩み、エネルギーをロスし、自分のことばかり考えていると、当然人格が暗くなり、利他心は培えず、ますます自分の能力も評価も改善しない。

 こうして人は、あれこれと無意味に自分のことで悩んでいる。もっと正確に言えば、自分を愛して悩んでいるのだが、それによって逆に自分で自分を駄目にして、悩みの因をまた増やす。

 逆に、自分のことで悩まず、他を利する実践をして煩悩の増大を抑え、徳を漏らさず徳を積むことによって幸福になる。すなわち、自分の幸福を求めず、他の幸福を求める者が真に自分も幸福になる。

3.皆で注意したいこと

 ところで、「小人閑居して不善をなす」ということわざがある。暇があると、法則から外れた考え、否定的な考えや悩みにふけってすぐ心の悪業を積んでしまう人は、かえって自分のことで悩む暇もないほどワークに没頭した方がいい場合が多い。特に、利他を意識して、三宝を意識してワークに没頭すれば、エゴは最小化していくことに疑いはない。

 少し心配しているのは、サマナの一部に、六つの極限の真実を忘れてしまい、怠惰を修習し、エゴを増大させているがために、ひどく苦しんでいる人がいるように思える。そういう人は、怠惰によって楽になると思っているが、一瞬一瞬はそう錯覚することがあるかもしれないが、怠惰に陥ると、それが際限なく増大するから、苦でなかったことが苦になってしまう。そして、徳を積まず消耗するので少しずつ暗くなり、逆に苦しみが大きくなる結末にしかならない。

 実際、わたしは何人かの人と話したが、「去年忙しかったときに比べて、時間にゆとりがあるのに前より苦しい」という人が少なくない。また、サマナフォローをしている師に聞くと、よくワークでぼろぼろになるという人は、忙しいからぼろぼろになるというより、自分の心の中の精神的問題でぼろぼろになるように見えるという。怠惰は苦しみの道であり、六つの極限は至福の道である。これが真理の法則だ。

4.大乗の法則の実践へ

 よって、そろそろ大乗の実践、利他の実践を中心的な課題に据える時期が来たように思う。そして、サマナに伝授されるものも、光音天などの施設・アストラルテレポーター・行法といった物理的・エネルギー的なものよりも、より精神的で微細なものになっていくと思う。大乗の実践は、精神的な面が大きなウエイトを占める。霊性の向上もさることながら、精神性の向上に重きを置くからである。そして、これは、皆さんの過去世からの偉大な功徳の現われであり、それを大いに称賛したいと思う。そして、皆さんも、大乗の決意・発願を改めてし直したらよいのではないかと思う。

5.出家教団を支える六つの極限

 ほかにも、サマナが大乗の実践をとおして、もっと徳を積まねばならないことがよくわかる現象がある。それは、教団経済が赤字状態であるということだ。それは、現在の出家教団を支えるに足る徳を積めていないことを示しているのではないかと思う。我々は、その問題を解決し、真理の法則とイニシエーションの維持・充実に努めなければならない。そのためには、財施・安心施・法施の功徳を増大させるべきだろう。

 ところで、在家信徒で六つの極限の実践、特に布施の極限の実践をしている者がいる。大阪のある信徒は、サマナよりはるかに質素な食事で布施の極限の実践をやっているそうである。それは、言葉で表現するのを躊躇してしまうほどである。担当の支部の師が、「サマナの備蓄食糧を安く分けてあげられないでしょうか」という話を持ってくるほどだからだ。しかし、それらの信徒の心は軽い。彼らは大乗の極限の実践に没頭し、貪りを含めたエゴから離れているからである。

 我々サマナ・出家教団は、在家の上に立っている。我々の本来の徳からして、在家信徒以上の実践ができるとわたしは確信している。出家する徳というものは偉大なものであるから、それが六つの極限の実践を助けてくれるはずだ。

6.ワークも利他のために

 ワークに没頭するとき、それが自分のプライド・闘争心を意識してのものではなく、利他であることが大切である。表現を換えれば、すべての魂を救済しようとする、シヴァ大神・真理勝者方・三宝の救済活動のお手伝いを意識していなければならない。

 現在の状況に当てはめれば、財施の極限が、教団をとおして多くのサマナ・信徒を利する、法則・イニシエーション・サンガといった三宝の充実につながるんだと意識することである。法施をする場合は、これは直接対象を利することが明確であるからわかりやすいと思う。

 そして極限をする場合、その動機として利他を記憶修習すると心が浄化されていく。その意識付けがなされていないと、身の功徳は積めても、心の功徳は積みにくくなる。

7.四無量心の持ち主は悪いカルマに強い

 ワークで、他のカルマを受けてけがれるという人がいる。しかし、人によってその受け方に違いがある。というより、受けたときの強さに違いがある。それは器の大きさ、四無量心の違いだとよくいわれる。そして、これについてよく検討し、自分の器を増大させるにはどうしたらいいか考えなくてはならない。

 まず、注意しなくてはならないことは、修行には二つの修行体系があるということだ。説法にあるように、一つはエネルギーのヨーガ。これはクンダリニー・ヨーガである。これは煩悩を物理的に破壊する。ナーディーの詰まりを浄化する行法、ツァンダリーなどの瞑想法がそれである。一方、精神的なヨーガがある。これは、マハームドラー、ジュニアーナ・ヨーガの修行である。これは煩悩を分解する思索を中心としている。

 よって、正しく思索しながら、もう少しわかりやすい表現に換えると、正しい利他の心の持ち方でワークと行法を行ない日々過ごすのと、利他心なくワークと行法を行なうのとでは、浄化のスピードは大きく違う。いや、それは浄化のスピードに限ったことではない。いろいろ列挙すると次のようになる。

 四無量心の持ち主は、カルマの法則によって四無量心の持ち主に出会ったり、会う相手の四無量心の意識を引き出す。そして、四無量心の持ち主は悪いカルマを受けても、それを取り除いてくれる四無量心の持ち主に会うカルマが強い。また、四無量心の持ち主は、悪いカルマを受けても、悪いカルマの本質である貪り・嫌悪・無智といった、自己優位(自他を区別する)のエネルギーに対して、利他心、自他の幸福を区別しない四無量心を持って対処するゆえ、悪いカルマが分解・昇華されやすいと思う。

 それに比べて悪いカルマを受けて回復が遅い人、それでよく騒ぐ人は、神経質な人が少なくない。これは、その人の中の嫌悪などの悪いカルマが、悪いカルマの人、ないし会う人の悪いカルマを引き出すとともに、受けたカルマと自分の嫌悪などの煩悩が共鳴してしまい、それを取り除きにくくなる。

 加えて、肉体的にも、嫌悪が多く神経質だと、肝臓・腎臓の機能が低下する(スーリヤを詰まらせるのは、怒り・ストレスなど)。これらの臓器は、中国医学的に言うと、受けたカルマを浄化するために必要なエネルギーの源で、それが損なわれてしまうのである。

 まだほかにも理由があるが、結論としては、ワークをするにも行法をするにも、正しい心の持ち方がカルマの浄化に最も重要な要素であるということだ。正しい心を持つという最も本質的な修行を忘れて、行法を少しやっても効果が高いとは言えない。

8.救済を意識してすべてをなす

 これは、行法をせずワークだけやれというのではなく、行法をするときも、三宝の救済のお手伝いのために、すべての魂のためにそれを意識して行なおうというものだ。煩悩という自己優位のエネルギーを浄化するために最も有効なのは、それと正反対の四無量心である。

 これは君たちにとって、何も初めての法則ではない。回向文を我々は日々修習している。修行の功徳を他に回すのである。なぜなら、形だけの修行をしても、「自分はこんなに修行をしたんだ」という自己満足に陥ったり、「自分は(自分のために)これだけ修行し功徳を積んだ」といったような、プライドや自己保全といった自己優位の心の働きを生じさせないようにして、せっかくの修行が損なわれたり、修行をきっかけとしてプライドなどの悪いカルマを積まないようにする目的がある。だから、ここで言っているのは、「常に回向文の精神を意識しながらワーク・修行に励もう」ということで、何ら新しいことではない。

 よって、「他の魂のため」という意識を持ってワークと行法に励むべきだ。すべての行為は救済のためである。そして、その結果、他のための行為と自己のための行為の区別がなくなるだろう。救済活動のワークも、自分の心を浄化する四無量心の修習である。他人に接しない行法も、明日の他の救済の準備である。ワークも浄化、行法も救済なのだ。

9.自と他の区別の滅尽から真我の体験が起こる

 真理の法則が最後に語るものは、自分と他人の幸福には区別がないということだ。その悟りの結果、四無量心があり、自他の区別が認識されないマハー・ニルヴァーナがある。自分の場合も、真我を体験したと感じたときは、自分と他の区別が消滅したとき、極限の救済を意識したときに生じたので、これには実感がある。利他こそ真の幸福の道、六つの極限こそ幸福の道、これを記憶修習しよう。

 最後に、大乗の真理の法則に巡り合った皆さんの、過去世から積み上げられた偉大な功徳を称賛します。そして、その偉大な功徳の教えを与えてくださった、偉大なる三宝に感謝いたします。我々の大乗の実践による功徳が、すべての魂の覚醒につながりますように。