マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第22回 さあ、真の大乗の実践を始めよう!


 さて、この特別寄稿も20回を超えました。これまでは基本的に小乗的な修行について書いてきたと思います。それは皆さんにとって今ひとつ物足りないものだったかもしれません。なぜならば我々は、前世から大乗の船に乗った修行者だからです。
 そこで今回の寄稿はこれまでのどの寄稿よりも重要な内容を含みますので、よく読んでください。

 まず、小乗と大乗の違いについてお話ししましょう。小乗というのは、苦を否定して、ニルヴァーナに至る道であり、大乗は苦を否定せず、マハー・ニルヴァーナに至る道です。そして、我々が大乗の実践をしなければならない理由の一つは、ニルヴァーナとは、絶対安定の状態ではなく、再び三グナ(根本煩悩)に強く干渉されると、その状態から落ちてしまう境地であるからです。

 ニルヴァーナ、小乗の修行は、苦を否定します。苦を否定するというのは、より正確に言うと、苦の原因である悪いカルマをシャットアウトする、避ける、逃げると言ってもいいと思います。小乗の十戒を守ることは、悪いカルマを積まないわけですし、人から離れて山奥にこもる小乗の修行スタイルは、煩悩の源から逃げるということでもあり、他から、悪いカルマを受けることを避けることになります。もちろん、イニシエーションなどにより他の悪いカルマを意図的に背負うこともしません。これを苦を否定するといっています。この苦に対する対応法は、ヨーガとしては、ラージャ・ヨーガ的な手法であると言うことができます。
 しかし、その結果得られたニルヴァーナの安定状態は、苦を否定できなくなったら、すなわち、三グナに干渉されると、崩れてしまいます。それは免疫がない者が病にかかってしまうようなものです。すなわち、苦を否定している、わかりやすく言うと、苦を避けることのできる間は、安定しますが、苦を超えているわけではないので、避けられなくなると、落ちてしまうということになります。

では、大乗の修行はどういうものでしょうか。大乗の修行では、苦楽を肯定も否定もしないものです。これは、苦しみが来てもそれに対して心が動かないし、楽しみが来てもそれに対して心が動かないという状態です。この苦に対する対応法はヨーガとしてクンダリニー・ヨーガの手法です。
 さらに高い手法として、マハームドラー、ジュニアーナ・ヨーガの手法があります。これは苦を肯定する手法です。苦を肯定するとは、例えば、大乗仏教の六つの極限にある忍辱の実践や、救済活動によって他の苦しみを自己の吸収する実践をして、意図的に苦を味わうことなどです。そして、その目指すところは、苦楽を超越すると言うことができます。
 
 苦を避けず、安定の状態に至るこれらの教えの場合は、小乗と違って、三グナに干渉されても落ちることはありません。もともと、苦を避けずに到達された安定ですから、苦によって壊れることはないのです。  
 
 これが大乗の修行の必要性です。ニルヴァーナに入っても、そこから落ちれば、またすべてやり直しになります。小乗の修行は、問題の先送りとも言うことができるのではないでしょうか。苦を避けるのではなく、苦を超えない限り、わたしたちに真の幸福、絶対的安定はないのです。

 また、皆さんもご存じのように、大乗の修行者であるグルを求めるならば、自分も大乗の修行をしなければ、グルと一緒に転生することはできません。
 よって、我々には大乗の道しかない、とわたしは確信しています。

 さて、意図的に苦を味わうというと、大乗の六つの極限の忍辱の実践を思い出すかもしれません。これは、一つには、つらいことに耐え、カルマを落とし、意志を強めるという意味合いがあります。しかし、単に自分のカルマを落としたり意志を強めるというのではなく、大乗の修行ですから利他の実践に直結しています。それは、苦の総量は一定であり、自分が苦を吸収するならば、他の苦しみは減るのであるという真理の法則です。ここでの苦とは悪いカルマと言うこともできます。これは、大変重要な教えです。この点を確認する一つの説法があります。

 欲界の苦の総量は一定だから、結局このようにしてわたしに苦が内在したなら、他の人の苦しみは少なくなる。苦しみが少なくなると、その人たちの心というものは透明になる。心が透明になると、その人はありのままに見る力が強くなる。そうすると、解脱しやすくなる。
 このように、だれかが苦しみをしょわなければならないわけだ。だから、如来として存在するならば、苦しみの量を多く吸収できればできるほど、如来としての価値があるということになる。
 例えば、釈迦牟尼の場合どうなさったかというと、何年間も1日に米1粒とか2粒という苦行をされた。これは餓鬼界のカルマを中心に吸収されたのである。それから、いばらの中に何回も突っ込まれて、それによって地獄の苦しみを吸収された。また、それから意図的にあっちこっち歩き回って糞尿を垂れ流されて、無智・動物界のカルマを吸収されたわけだ。

 そして、個々で大切なことは、他人の苦を吸収するということは、自分が苦で一杯になり、煩悩的になるのではなく、苦を昇華してしまうことだということです。その点を確認する説法を以下に引用します。

 受けたカルマは――カルマはプラーナとも言い換えられるのだが、それが昇華して、上にスッスッと抜けていくのである。つまり、生気(せいき)として返すわけだ。(中略)それと同じように、悪業のプラーナもわたしの中に入ってきて昇華され、出ていくときには善業のプラーナに変わるのだ。それはもう、気持ちいいくらいに変わる。わたしが邪気を生気に変える生気製造機となるのである(中略)。
 普通は、プラーナと心が一緒に動く。つまり、悪業のプラーナによって苦を感じる。善業のプラーナによって楽を感じるようになっている。だから、苦楽の総量というものは、悪業のプラーナ、善業のプラーナと同量であり続けるわけだ。ところが、心が動かなかったら、あるいは逆の瞑想ができるなら、苦楽を逆転させることができるのである。だから、わたしがよく、「すべての魂の苦悩がわたくしに内在いたしますように」と言うが、今の説明でもおわかりになったように、わたしが他の魂の苦を取り入れて煩悩的になるというのではなく、その煩悩が完全に昇華されるという意味なのである。

 ここから読み取らなければならない重要なポイントは、他からカルマを受けたとき、それに対して嫌だ、嫌だという、嫌悪の心を働かせてはならないということでしょう。全く心を動かさないか、あるいは逆の瞑想ができるなら、苦楽を逆転させることができるとあります。これは大変重要な真理です。
 他から受ける悪いカルマの本質とは何でしょうか? すべての煩悩の本質は、根本煩悩ないし三グナと言うことができます。つまり、貪り(愛著)、嫌悪、無智(迷妄)です。無智とは、自と他を区別する無智と言うこともできます。自と他を区別し、他の中で好き嫌いが生じ、貪り(愛著)と嫌悪が生じます。
 では、他から、貪り、嫌悪、無智のエネルギーを受けたとき、それを嫌がる、つまり嫌悪したとして、そのエネルギーを弱めることができるでしょうか。嫌悪のエネルギーが入ってきて、それに嫌悪で対処すれば、嫌悪は減ることはないでしょう。逆に嫌悪に対して嫌悪で反応し、嫌悪が共鳴した感じ、嫌悪が定着してしまう感じになるのではないかと思います。
 よって、このときなすべきことは、一つのパターンとしては、説法にあるとおり、心を動かさずに、黙々と修行をするというパターンが一つ。これなら、嫌悪が入ってきても、嫌悪の共鳴、嫌悪の定着は起こりません。

 もう一つは、逆の瞑想と説法で述べられているものです。これについては、具体的なことが書かれていないのではっきりとは言うことができませんが、わたしは、苦しみを喜びとすることであろうと解釈しています。
 すなわち、苦を吸収したとき、普通はそれを嫌がる、嫌悪しますが、喜ぶわけです。どうして喜ぶかというと、苦の総量は一定ですから、自分に苦が吸収されれば、他の苦は減少します。それを喜ぶわけです。

  これは、自分の体験上も真実です、自分がカルマを受けたとき、嫌だ嫌だと思っていると、苦しみは増大したり、長く続きます。しかし、その嫌悪の想念が苦しみの因だと気付いてそれを止めたときや、一歩進んで、カルマを受けたとき、他を優先に考えて、それを喜びにする思考が生じたときは、サッとナーディーが浄化され、エネルギーが上昇していきます。
 これは、まさに、「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」実践です。この詞章は、単なる自己犠牲の詞章ではなく、苦しみを吸収して昇華し、絶対安定を得る秘技だと思うのです。これによって、苦しみの中に没入しても、本質的には苦しみにけがれず、不動の心の状態ができると思います。

 また、これは、いろいろな経典の真実でもあります。サキャ神賢が地獄に落ちたとき、その中で、他の地獄の住人の苦しみを自分が代わりに背負えるように思念したとき、地獄から解放されたというくだりがあります。グルの体験でも、地獄に堕ちて、他の苦しみが自己に吸収されますようにと念じた瞬間、地獄から解放されたという話をお聞きしたことがあります。

 逆の例が有名な『蜘蛛の糸』の話です。真理勝者が、善業を積んでいたある地獄の住人を地獄から救いだそうとして、蜘蛛の糸を垂らし、その住人が助かると思い喜んで、蛛の糸を手繰り上っていったとき、自分の下から他の地獄の住人も蜘蛛の糸を手繰って上ってくるのを見て、彼らが来れば蜘蛛の糸が切れて自分が助からなくなるという嫌悪の心が生じたところで、蜘蛛の糸が切れてしまったという話です。

 地獄に転生する原因は、怒り、嫌悪ですが、これらの話は、慈悲によって地獄から解放され、嫌悪によって地獄につなぎ止められるということを示しています。つまり、痛みは嫌悪によって生じ、愛によって消えるわけです。これは、他から悪いカルマを受けたときに生じる、苦しみについても当てはまると思います。それを自分に不利益なことだと考え嫌悪するなら苦しみは続き、それが他の苦しみが減少したことだと慈悲の心を持って受け止めれば弱まるということです。
 皆さんの中で、蓮華座を組んで痛みを感じたとき、これによって地獄の住人の苦しみが減少しますようにと思念すると、苦しみが和らぐ経験をされた方が多くいらっしゃると思います。そういう体験を他人から聞いたことがある人も多いと思います。これも、まさに、痛み、苦しみの原因が嫌悪であり、慈悲の心が痛みを消滅させることを示しています。
 以下のマハームドラーの体験談でもこのことが述べられています。

 マハームドラーの修行に入ると、今まで自分が曖昧(あいまい)にしてきたものすべてを清算させられます。そうでなくては、成就はあり得ないのです。この蓮華座の苦痛もその一つでした。足が痛い、組み替えても痛い、詞章が唱えられない、瞑想もできない、集中もできない、眠れない、本当につらい。
 こんな思いで、わたしはギブアップ寸前でした。地獄のカルマが焼けるように足首から下に熱を持ち、「究竟の瞑想」の一時間が、五、六時間にも感じられました。動けば動くほど痛みが増して、どうしようもないような状態でした。ラージャ・ヨーガの独房修行、クンダリニー・ヨーガでの立位礼拝の修行、そして、今回のマハームドラーの修行、どれを取っても自己のカルマの清算で、こんなにも苦しまなくてはならない。自己のなしてきたことだから仕方がないとも思いつつ、涙が出ることを止めることができませんでした。
 しかし、尊師に、「快楽と足の痛みは同じ感覚器官を使っている」と、「楽しみの裏側にある苦しみを理解しなさい」と、さんざん言われました。また、「痛みから逃れようとする嫌悪がより一層痛みを増しているのだ」と。

  嫌悪が痛みをつくっている、痛みから逃げようとする嫌悪が痛みを増している。これは非常に重要な悟りであると思います。
 わたし自身も、痛み、苦しみから逃げようとする心を断って、「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」という詞章を意識したとき、激痛から解放された経験があります。苦しみ、痛みは、心のつくり出す幻影なのです。

 また、肉体的な視点から考えると、他人のカルマで詰まったナーディーを浄化するには、熱が必要なのですが、嫌悪、怒りが強ければ、熱(→五行理論の火、心臓に関係、心臓の送り出す血流)を作り出す源(→五行理論の木、肝臓)が弱まります。肝臓に関係するスーリヤは怒りによってけがれてしまうからです、さらに、嫌悪、怒りを発散させれば、それが直接的にエネルギー、熱のロスにつながります。一方、慈悲の心が大きく、寛大であるならば、カルマを浄化しやすい肉体的状態と言うことができます。これは、肉体的な面から見ても、慈悲の心がカルマの浄化を助けることを示しています。

 今まで述べたことは、「到達真智運命魂としての決意」にも同じ主旨の修行が記されています。

すべての苦しみは自分自身の幸福を求めることから生じる
ところで、完全な覚者は利他心から生まれる。
よって、自分自身の幸福を他の苦しみと完全に交換するのが
到達真智運命魂の修行である
(到達真智運命魂としての決意 11)

 生活の糧を奪われ、いつも他人に軽蔑され
 ひどい病や悪魔に苦しめられようとも
 すべての生き物の悪業と苦しみが
 自分の中に投影されているのだと認識し、その不幸・苦しみを喜ぶことが
 到達真智運命魂の修行である
 
(到達真智運命魂としての決意 18)

 こうして、大乗の修行者は、他の苦を吸収することになりますが、まさにその心の働きこそ、苦の根本原因(嫌悪、愛著、無智などの根本煩悩)を消滅させることにつながるという、非常に深遠な真理を見いだすことになります。これは秘儀中の秘儀ではないかと思います。苦しみを避けるだけとも言えるニルヴァーナに比べて、他から苦を吸収しながら、それに動じないこの境地は、まさに絶対的な安定であり、何と崇高な道であることでしょうか。

 また、自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする人は、同じタイプの人の和に入り、それによっても、自分の背負った苦しみ、カルマから解放されるということがあります。これは、大乗の実践をしている者が、上位アストラル世界などの極めて高い世界に生まれ変わるということも意味していると思います。この点については次の説法が明解です。

 そして、――これは秘儀中の秘儀だよ――他の苦しみを自己の苦しみというふうに理解するんではなくて、それが体得できるようになったとき、その人は、本当の意味で苦悩から解放されます。なぜならば、他の苦しみは幻影であることに気付くからだ。そして、それによって自己の苦しみも幻影であることに気付くからだ。これは秘儀中の秘儀です。
 逆の言い方をすれば、自分だけいい人生を送りたいと。自分だけいい生活をしたいと。自分だけ云々と言っている人は、いつまで経っても幸福になれないと。なぜならば、そういう人は、そういう人たちの輪の中に入るからだ。そうすると、数少ない喜びというものを多くの人が取り合う結果となると。そうすると、そこで当然闘争が起こり、あるいは力関係によって敗れてしまい、そこで苦悩が生じると。
 ところが、「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」環境に、もしその人が身を置くならば、そういう人が集まると。そこで、例えば苦しみというものが生起したとしてもね、生起というのは、そこで生じたとしても、苦しみが起きたとしてもだよ、ね、それを周りの人がいち早く取り除いてくれると、ね。あるいは、ね、他が苦しんでいるとしたら、自分に余力があればいち早く取り除くことができると。そうすると、苦の総量というものは一定だから、その中の人というのはほとんど苦しまなくて済むと。これが理想だね。
 そして、その苦しみというものは、経験によって落とすことができるから、当然、一方では苦しみの総量は減っていくと。ところが、もう一方の空間は、単に喜びだけを求めているから、願望だけをかなえようとしているから、当然、そこには負担が生じてくると、ね。そうすると、そこの功徳の量というものは、喜びの量というものは一定だから、ね、どうなるか。そうすると、例えば十人で分け合えるものを、例えば一人が独占することによって、九人は苦悩しなきゃなんない。

 この説法は何と意味深いものでしょうか。ポイントをまとめましょう。

1 他の苦しみを自己の苦しみと体得できるようになったとき、その人は、本当の意味で苦悩から解放される。それは、他の苦しみは幻影、自己の苦しみも幻影であることに気付くからである。
2 自分だけいい人生、自分だけ云々と言っている人は、いつまで経っても幸福になれない。なぜならば、そういう人は、そういう人たちの輪の中に入るからである。

3 自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする環境では、
 1)苦しみが生起したとしても、それを周りの人がいち早く取り除いてくれる。苦の総量というものは一定だから、その中の人というのはほとんど苦しまなくて済む。
 2)さらに、苦しみというものは、経験によって落とすことができるから、苦しみの総量は減っていく。

 特に、他の苦しみも、自己の苦しみも幻影であるという点と、それと関係したことですが、苦しみというものは経験によって落とすことができるという点が深遠であると思います。つまり、大乗の修行者が、苦に対して強いのは、もしくは、苦に対して嫌悪がない背景は、それが幻影であり、落とすことができるということを体得しているからでしょう。そして前に引用した説法がそのやり方をいくつか述べていたわけです。

 さて、では、日々の救済活動の心得としてはどういうことになるでしょうか。我々は救済活動によって悪いカルマを吸収することは避けられません。しかし、吸収したとき、嫌悪の心が生じないように努め、心を動かさずに、ないしは、「到達真智運命魂としての決意」にあるように、「これで他の苦しみを吸収でき、他が幸福になった」という慈悲の心をもって対処すべきだということになります。
 また、受けたカルマを浄化する修行をするときは、自分がけがれたことが嫌だからするというのではなく、もっと救済活動ができるように、もっと他の苦しみを吸収できるようにと思念し、救済活動の準備として(ないしは救済活動の一部として)、修行をすると、浄化が早いのではないかと思います。なぜなら、救済しようという慈悲の心は、受けたカルマと正反対の性質を持つからです。
 こう考えると、わたしたちは、救済して、救済の準備をして、とこの二つだけを繰り返せばいいことになります。特に修行するときも、それがさらに救済するための準備なんだと考えれば、ワークも修行も一切が救済、他のためのものということになります。

 日々の生活の一切が、救済のために、他のために、という心で行なわれることは、非常に重要な秘儀だと思います。なぜなら、人は自分のことを愛し、自分のことばかり考えて苦しむからです。常に他のことを考えていれば、自分のことで苦しむことはなくなります。
 よって、淡々と救済活動のみを実践し、自分のことは考えない。そして死ぬ、そして、また転生して救済する。これが、わたしが理想としている意識の状態です。そして、これが最も幸福な状態です。
 自分がこう思うようになったのは、それほど前のことではありませんし、常にそう思えているとは言えません。しかし、いろいろな形で、苦しみが生起しても、ある段階で、今まで述べたような思考が働き出し、それによって、苦しみから解放されます。
 この記憶修習が進んだ一つの理由は、自分が置かれた社会的環境が、自分で言うのは嫌な面がありますが、やはり客観的に見て、尋常ならざる厳しさであったという点があると思います。つまり、自分のことを考えたり、愛したりすれば、まさにそれ(=自分)が日本中から、誹謗中傷されたり、いろいろ言われたり、普通にはない扱いを受けているのですから、心は全く安定しません。というより、おそらく即ノイローゼになってしまうのではないかと思います。

 さらに、思念を受けやすいというタイプの人の場合は、日本中から敵対的思念を受けると大変でしょう。しかし、その思念で自分に苦しみが生じても、苦しみの総量は一定である故、それが他の苦しみの減少を意味しているんだと考えたり、逆縁でも縁が生じ、真理に導かれますようにと考えれば、嫌悪ではなく、慈悲の心が生じ、嫌な気分も晴れるものです。苦と楽が幻影であり、転換可能なように、逆縁も順縁も幻影で、転換可能ではないでしょうか。
 こういう自分の体験を通して、自分のことは考えるべきではないと思うようになったのです。自分のことを愛する、考えるから、苦しむ。人の苦しみは、すべてそれによって生じていると思います。
 そして、説法の中にもこの考え方が正しいことが確認できます。

結果的に人間は自己を愛するがために苦しむのである。
 そして自己を放棄したとき、そこには光り輝く自分自身が存在する

(『シンセ音楽をたのしもう』より)

 そうですね、なるべく自分のことを考えないようにする、ということでしょうか。大乗の発想のなかにある「自己を捨て去る」ということができるかどうか。それがわたしの課題です 。

(雑誌での対談より)

 自分に関する思考がなくなったら怖いと思う人がいればそれは邪見解です。もともと、我々が目指しているサマディとは、思考が停止した状態です。第2サマディ以降は無熟考無吟味です。また、マハー・ニルヴァーナには思考はありません。それは誤った観念です。
 自分(自我)に関する思考が弱まることは修行の成就の兆しであることは、聖者の言葉でもそれを確認できます。

自我への執着と煩悩と思考が弱まっていくことが、あらゆる修行に共通する、達成の徴なのである。

(『虹の階梯』より)

 「私」とか、「私のもの」とかいうものに固執した、険しい心持ちが消えていくことになるので(なる時)、忍耐の完成がしっかりと実現されることになる。

(『虹の階梯』より)

 一方、今のサマナの中には、常に自分のことを考え苦しんでいる人がいます。卑屈、プライド、闘争、嫉妬、あれこれ。自分のことを愛し、考えるから、途方もない苦しみを背負っているのに、なぜ自分のことを考え続けるのでしょうか。それは、膨大な時間とエネルギーのロスであり、その代わりに利他の実践をすることが、功徳を高め、真の幸福の道であることは明らかです。

 さて、今までの話に関連して、六つの極限の実践について少し述べたいと思います。
 皆さんは、大乗の修行者として、布施、持戒、忍辱などの実践をしています。日々のワークとしては、財施、法施、ないしは奉仕をし、いろいろな形での布施の実践をしています。極限で行なうこと、これが大乗の道です。
 ところが、極限でやると、自分がつぶれてしまうのではないかというサマナ、そして、信徒さんがいるようです。それで救済活動に腰を引いている。ないしは、それを口実に、自分の限界までもやろうとしていない。
 しかし、その考え方は法則にかなったものではありません。もちろん、カルマを浄化するための修行はしなくてはなりません。修行せずにワークだけせよと言っているわけではありません。

 しかし、修行は救済活動の準備、すなわち救済活動の一環であると考えるべきだと思います。つまり、救済活動でけがれたから、自己を浄化するために修行をするという自己保全的な発想ではなく、もっと救済活動を進めるために修行するという心の持ち方が大切だと思います。修行も救済活動なのです。
め、他のためでなければ、(真に極限の)修行はできないよ}というものがあります。
 そして、前に述べたように、そう考えた方が、受けたカルマは早く浄化できると思います。なぜなら受けたカルマこそ、自己保全のカルマだからです。
 わたしが以前個人的に受けた説法の中では、「救済のため、他のためでなければ、(真に極限の)修行はできないよ}というものがあります。

 そして、特にサマナ以外の人と接する人の場合、ワークはけがれるものだから嫌だという考え方を持つこともよくないと思います。ワークとは、それを正しく認識するならば、心を浄化するもののはずです。なぜなら、財施にしても、法施にしても、やればやるほど救済が進むわけですから、やればやるほど他を救済していることを喜び、慈悲の心を記憶修習すべきです。極限の財施や法施は、自分の心をできるだけ多くの人を考えるように広げよう、大きくしようとするものです。そのように認識し、この目的を意識して、極限をすることが大切です。そうすれば、ワークも心を浄化する修行となると思います。
 一方、ワークはかなりやっても、それが他の救済のためではなく、自己のプライド、闘争心を満足させるものだとしたら、ワーク中の心の浄化はあまり進まないでしょう。この点、例えば、財施をしている人は、お金を布施すれば身の功徳にはなりますが、その活動の目的として救済をしっかりと意識して、心の功徳の方にも気を付ける必要があります。
 また、極限の大切さは、四無量心との関係から明らかです。わたしたちは四無量心を体得することを目指しています。すべての魂を救済することを目指しています。とすれは、今の条件で極限をなさず、救える人を救わなかったならば、四無量心を目指していることにはなりません。自分が極限をすれば救えるのに、極限をしないなら、慈悲の心が深まる道理があるでしょうか?

 苦しんでいる人は無数にいるのです。

 また、現実世界で極限の救済をせず、口だけで四無量心を語るのは、偽善以外ではないでしょう。四無量心の瞑想をしながら、現実世界で極限をしないつもりなら、その瞑想はほとんど効果がないでしょう。説法では、瞑想は実践の準備であり、実践できれば瞑想はいらないとされています。四預流支も思索から実践に至り完結します。極限の実践が四無量心の道であることは明白です。

 こうして見ると、行法などの形ある修行も救済活動の一環であり、逆に、ワークなどの救済活動も自己の心を浄化する修行となります。大切なことは、何をするにしても、自分の幸福と他人の幸福の区別がなくなることが重要なのです。修行は自己のため、ワークは他人のためというのは、自他の区別が生じているわけです。利他の実践イコール利己の実践、他の幸福イコール自己の幸福ということが真実なのです。

 なお、この点に関連して、財施している人の中で、お金を稼ぐことが救済と結び付きにくいという人がいましたので、教団がどのように、真理の法則、イニシエーション、向煩悩滅尽多学男女や帰依信徒のために支出していることを説明しました。皆さんの財施は、それをすればするほど、救済が拡大します。法施については、言うまでもなく、やればやるほど救済につながります。

 また、激しいワークで、カルマがたまり、自分がぼろぼろになったという感覚を抱き、それに不満を持っている人がいるようですが、そういう人は、自分の邪見解を懺悔しなければなりません。もともと極限以外に心の成熟の道はありません。それがグル方の道です。そして、カルマを受けたときに、正しい心の働きで対応し、修行しないが故に、カルマが昇華できないのです。そして、極限を嫌がっている自己保全の心が、カルマを受けたときにそれを昇華できない原因の一つにもなっているわけです。よって、極限をなし、その中で苦しみを経験し、それを喜びとして苦を超えていくことが正しい修習であると考えなくてはなりません。このプロセスは一朝一夕には身に付かず、真理勝者になるまで完全にはならないのでしょう。
 そして、一時的にはカルマを受けすぎて失敗することもあるでしょう。しかし、それで腰を引いていては修行が止まってしまうだけです。失敗が成功のもとになるように、反省し、さらに自分を強くする工夫、努力をして、立ち向かって行かねばなりません。それ以外に道はないのです。

 さて、貴方が、成就していないのに、苦しみがないというのであれば、それはまだ極限ではないからにすぎません。六つの極限の中には、忍辱が含まれています。財施、布施、奉仕の極限をすれば、当然、それ以外にわき目を振らないわけで、持戒の極限につながります。そして、布施と持戒の極限は、当然、忍辱の極限につながります。そこで、苦しみの経験をなし、自分のカルマを落としたり、他から吸収した苦しみを超えていく修行をする機会が与えられます。こうして、六つの極限という真理の法則は美しいほどの整合性があるのです。
 そして、忍辱には二つの実践があると思います。これは自己の苦しみを喜びとする実践に、二つの種類があるということでもあります。厳密に言えば二つは分けられないのですが、分けた方が皆さんには分かりやすいと言った方が正確かもしれません。

 一つ目は、自分が過去に誤って積んだ悪業が落とされるときの苦しみ。これに対しては、この苦しみを、自分の悪業が浄化されたんだと喜び、苦しみを喜びに変えるべきです。もう一つは、自分が意図的に背負った悪業の苦しみ。この場合は、他の苦しみが減少したんだと喜び、苦しみを喜びに変えていくべきだと思います。わたしが考えるに、これ以外の苦しみのパターンはありません。ですから、この二つのパターンに対応できれば、すべての苦しみを喜びととらえる記憶修習が可能となります。

 そして、忍辱の極限と言っても、それはむやみやたらに苦しみ、苦しみ一杯になってつぶれてしまうのが目的なのではありません。極限を行ない、苦しみを経験する中で、苦しみも喜びも幻影であり、苦しみを喜びに変えることを体得することが、この修行の最終的な目的だと自分は思います。

 最後に、この道以外に真の幸福はないと思います。というのは、極限をしない方が最終的にははるかに大きな苦しみを経験することになることです。極限をせず、自己を保全する人は、エゴこそ、苦しみの原因ですから、いつまでも苦しみは続き、逆に拡大していきます。いったん自己を保全しようとし出すと、自己保全が徐々に増大します。楽を始めたら、楽を求める心が徐々に増大し、いくら楽をしても、苦しくなるでしょう。これは、エゴが拡大するからです。そして、たとえ、ニルヴァーナを目指しても、いつかまた落ちてしまいます。これは完全な袋小路で、これがまさに、欲六界に何度も何度も転生し、途方もない苦しみを経験しなければならない背景です。
 昔は極限をしていた人が、それをやめてさぼり始めたのだが、なぜか前よりも苦しくなったという経験をするのはこれが原因です。ですから、真に苦しみから解放される道は、苦しみから逃げずに極限の実践をなし、その中で、苦しみを超えていく以外にはないと思います。
 まとめると、極限は、四無量心への道であるとともに、苦の超越の道なのです。そして、自分のことを考えず、利他の実践をすることが真の幸福の道なのです。

 最後に、今まで述べたことを聖者の言葉で確認しましょう。


 すべての苦しみは自分自身の幸福を求めることから生じる
 ところで、完全な覚者は利他心から生まれる。
 よって、自分自身の幸福を他の苦しみと完全に交換するのが
 到達真智運命魂の修行である

 (到達真智運命魂としての決意 11)


 生活の糧を奪われ、いつも他人に軽蔑され
 ひどい病や悪魔に苦しめられようとも
 すべての生き物の悪業と苦しみが
 自分の中に投影されているのだと認識し、その不幸・苦しみを喜ぶことが
 到達真智運命魂の修行である

 (到達真智運命魂としての決意 18)


 結果的に人間は自己を愛するがために苦しむのである。
 そして自己を放棄したとき、そこには光り輝く自分自身が存在する

(『シンセ音楽をたのしもう』より)

 自我への執着と煩悩と思考が弱まっていくことが、あらゆる修行に共通する、達成の徴なのである

(『虹の階梯』より)

「私」とか、「私のもの」とかいうものに固執した、険しい心持ちが消えていくことになるので(なる時)、忍耐の完成がしっかりと実現されることになる

(『虹の階梯』より)

 そうですね、なるべく自分のことを考えないようにする、ということでしょうか。大乗の発想のなかにある「自己を捨て去る」ということができるかどうか。それがわたしの課題です

(雑誌での対談より)

 大乗の法則はつくづく真理だなと思います。
 そしてわたしたちは真の大乗の実践を始めなければなりません。