マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第20回 アシュラから神々へジャンプしよう


 今回は、一見、教義にのっとっているかのようで、真理の法則に反している見解に関する部分をいくつかお話ししたいと思います。これは、オウム・アレフの信者の精神構造に一定の影響を及ぼしているのではないかと思っています。

1)平等心と魂の二極化

 基本的な法則として、四無量心の中の平等心というものがあります。これは、オウム真理教の創始期の機関紙である『シャンバラ新聞』、『超能力秘密の開発法』、『イニシエーション』、『マハーヤーナ』などに掲載されています。つまり、かなり初期の段階で説かれた法則です。

 平等心とは、好きな対象と嫌いな対象をなくしていく修行ですから、自分の愛著と嫌悪・嫉妬を浄化する修行だと言うこともできます。平等心を含む四無量心の瞑想において、最初に平等心が来るのは、愛著と嫌悪があると、その上には、広大な四無量心は育たないという考えがあるからだと思います。

 基本的に、すべての魂は真我を有しています。経典には、象に対して、その真我の存在があるがゆえに、礼拝するという話もあります。また、すべての生き物は自分の過去、未来の姿だと考え、その幸福と喜び、不幸を悲しむ、カルマ・ヨーガ、四無量心の実践があります。

 ところが、間違って解釈されるとこの実践を阻む概念があります。例えば、今生は魂が二極化されるという考え、真理の実践者と凡夫という区別、そして、アメリカ、マスコミ、警察は、マーラの手下といった概念などです。これらは、間違って解釈されると、私たちと彼ら、善と悪、味方と敵といった形で世界が二つに分けられてしまいます。

 魂の二極化については、すべての魂は仏性、真我を有し、真理勝者方によってマハー・ニルヴァーナに導かれる以上、二つのグループの違いは、時期の違いでしかなく、すなわち、二つの区別も無常であり、三悪趣に落ちる魂に対する悲しみ(聖哀れみ)が必要です。また、他人が自分に対して行なうことは、すべて自分のカルマの返りであるという基本的な法則を意識しなければなりません。

 また、アメリカ、マスコミ、警察などに関する概念は、それらが、現代の煩悩主義的、物質主義的社会の支えている中心的な存在である故に、それを批判的に見て、宗教的な表現で表わしたものにすぎないと思います。

 マスコミは、スポンサーの利益の関係上、提供する情報が物質主義的になるとか、情報を警察に依存する体制のため、警察情報をチェックなしに垂れ流すことは、第三者によっても指摘されていることですし、警察もマスコミも、自分の組織の利益や、世論や上層部から課された目的のために、何かにつけ教団をたたこうとする現状があることは否定できません。

 しかし、一人一人の記者や警察官がマーラにマインドコントロールされ、結託して真理に陰謀を働くという概念は行き過ぎであると思います。彼らは彼らなりの欲求、義務などに基づいて動いているだけでしょう。記者も警察官も、元はといえば、オウムの信者と同じく、一般の日本人であり、警察官やマスコミ関係者で、信者になった人もいますし、私の場合は、自分の高校の同窓生や、大学の同級生もいました。彼らと我々の間に、明確な境、明確な区別はないというのが事実です。

 それから、個々の魂にその価値の違いがあるという説法があります。これが、間違って解釈されると、嫌悪の源になってしまいます。つまり、ステージの高い魂には愛着するが、一方、他の魂は嫌悪、軽蔑するというのは、法則にかなっていないと思います。そもそも、ステージが高いとは、より広大な愛(慈愛)があるということで、嫌悪や軽蔑とは正反対なものです。

 仏教的に言って、魂の精神的、霊的ステージに違いがあったとしても、その違いが無常であり、すべての魂の本質は、シヴァ大神、全ての真理勝者、グル方と同じように、絶対の真我であり、現在は、単に一時の汚れに曇らされているに過ぎないという見方が基本になくてはなりません。

 凡夫を哀れむという言葉にも注意が必要です。聖哀れみと、一般の日本語の哀れみにはニュアンスの違いがあります。凡夫の汚れを自己の過去の姿であるというように、カルマ・ヨーガに基づいて見れば(カルマ・ヨーガによれば、自分が他人に見せたけがれを他人から自分に見る)、その結果は、他人の苦しみを自己の苦しみのように悲しむ、すなわち、聖哀れみになると思います。そして、自分も真理を知らなかったとき、他から法則を与えられて修行を始めたのだから、今修行していない人に法則を伝えることは、なすべき恩返しであるという謙虚な姿勢が必要だという説法があります。

 しかし、カルマの法則をはずしてしまうと、嫌悪、軽蔑が生じます。その心の状態で、「彼らは哀れだなあ」と言う場合は、たいてい、相手を蔑視した高慢な心の働きが生じている可能性があります。自分の苦しみのように悲しんではいないわけで、相手を引き上げることにはつながりにくい面があります。


2)教団内にも進入する嫌悪

 凡夫と修行者を区別し、そこで凡夫に対する嫌悪、軽蔑が生じる場合、それは教団の中の法友に対する嫌悪、軽蔑にも、結局はつながると思います。例えば、だらしないと思う対象、自分を傷つけたり、納得がいかないことをする対象に対してです。その人の心が、教団の内と外を区別し、カルマの法則で見ないならば、そのため、教団内の人間関係においても、自分と他人を区別し、カルマの法則で見ずに、嫌悪、軽蔑が生じることは避けられないと思います。

 ある人において、社会に対して生じる心の働きは、その人の心は一つですから、教団内にも当然働くと思います。実際、ここ数年には、社会との対立関係だけではなく、教団内にも、嫌悪・不協和があったように思います。それはいろいろなトラブルで明らかになりました。対立関係の背景にあった心の働きが、慈悲の心ではなく嫌悪や闘争心に基づいていた面があったのではないでしょうか。

 「到達真智運命魂としての決意」にも、「内側の嫌悪という敵が調御されていないのに、外側の敵を調御しようとすれば、敵は増加する。よって、聖慈愛、聖哀れみ(中略)によって、自分自身の真我を調御するのが到達真智運命魂の修行である」というのがあります。

 これまでの経緯から判断すると、今、我々は、自分の心のけがれを清める基本的な教えの実践を重視しなくてはならないのではないでしょうか。

3)アシュラと天界の違い

 ちょっと、横道にずれますが(本質的には関連しているのですが)、闘争心の強いアシュラの話をしたいと思います。というのは、我々にはアシュラのカルマが強いと皆さん感じられているでしょうから、日々の行動における反省になればと思うからです。では、アシュラ=無明意識堕落天の歌から引用しましょう。


※意識堕落天は、知謀、誹謗、蹴落とし、そして堕落の世界である。
 したがって、天界といえども捨断すべし。

 戦い疲れ 功徳を漏らし 天への道を 一人閉ざす
 策略は 鏡のよう
 真理を知らず ただ立ち向かう
 功徳の力は すべてを超える
 持戒を保持し 布施をなし 真理の教えだけがすべて
 戯忘天 快楽は うらやみの 心起こす
 戦い 陰謀 誹謗 蹴落とし だけが すべて 力
 知謀 力 布施が この世界
 破戒 快楽が 戯忘と違う
 戒実践なすなら 戯忘をしのぐ
 戒実践なすなら 神聖天へ
 さあ パンチ 両舌 悪口が カルマ落とす
 我慢が ジャンプ力 悪業落とし 神聖天
 持戒を守れば 真理を学べば
 はるかに高い天へといざなう
 知謀だけが 頼りなんだ 功徳だけは 積んでもいい
 戒律は まっぴらだ 制約は ゴメンだね
 俺はカルマを信じない カルマの力で また悪趣


 アシュラは、才略、陰謀、誹謗、蹴落とし、知謀、力などに頼り、最高の兵法であるといわれる、カルマの法則=真理は信じない、ないし知らないで、ただ相手に立ち向かうということになるようです。

 さて、アシュラと天界の違いは何かというと、忍耐と智慧の違いのようです。チベットの今後の在り方について、次のような説法があります。

 「意識堕落天的(阿修羅)な闘争ではなくて、やはり戯れ堕落天的(天界)な忍辱の修行、これが必要じゃないかなと思う。ひたすら忍辱し続けて、そして修行し続けると。それをやることによってのみ、チベットは中国から独立できるんじゃないかな、というのがわたしの印象だね。」

 上の歌詞にも、「我慢が ジャンプ力 悪業落とし 神聖天」というのがありますが、カルマの法則を理解し、カルマ落としに耐える忍耐があるかないかが、アシュラと天界の大きな違いのようです。

 アシュラと定期的に闘い、勝利する有能神の特長に関しても、「有能神は愛欲天界の王といわれている。彼は智慧に長け、そして耐える力が優れている」という説法があります。

 最高の法則はカルマの法則ですから、攻撃されても、そのカルマ落としに耐え、自分では悪業を積まず、善業をコツコツ積み上げ、功徳において優位になれば、その功徳の力で、おのずと道は開けるという考え方は大切だと思います。

 忍耐についても、カルマの視点から見ると、自分がカルマ落としに耐えている間は、自分のカルマは良くなり、一方、攻撃する側のカルマは悪化していき、そのうち自壊していく場合が多くあります。非暴力非服従でインドを独立に導いたガンジーの成功例もこれに当てはまるでしょう。

 歴史上の偉大な人物でも、忍耐に優れた人物こそ大きなことを成し遂げています。「鳴かぬなら、鳴くまで待とう」、「人生は重い荷物を持って長い道を行くがごとし。不自由を常と思えば不足なし」といった言葉は重みのある言葉です。

 物事をなす上で大切なこととして、天の時、地の利、人の和(ないし人の徳)といいます。これからしても、徳を積み、他との和合を図りながら、天の時を忍耐して待つことが大切であると言うことができると思います。

 ところが、サマナの一部にはアシュラの要素があると思わざるを得ません。カルマ落としへの忍耐が不足し、着実に善業を増大させ、自分の意がかなう時期を待つということを怠りがちです。つまり、粘り強さ、我慢強さがなく、観念的、否定的。積み上げた功徳によって願望をかなえるのではなく、闘争、悪口、両舌に走る。他人との和合、協力が少ないため、当然真に大きなことをなすことはできない。いろいろな不満、嫉妬を常に持っている。カルマの法則がわかっていないから、失敗がカルマの浄化であり、成功の元であるという、逆転の発想、忍耐と智慧の実践ができず、失敗、挫折にもろい。これは皆アシュラの特性だと思います。

 一人一人の信者も、教団全体にもこれは当てはまると思います。カルマの法則を信じ、カルマ落としに耐え、善業をコツコツ積むならば、時間はかかっても、そのうち、自分の願望がかなう功徳の状態が形成されるはずです。


 戒実践なすなら 戯忘をしのぐ
 戒実践なすなら 神聖天へ
 さあ パンチ 両舌 悪口が カルマ落とす
 我慢が ジャンプ力 悪業落とし 神聖天
 持戒を守れば 真理を学べば
 はるかに高い天へといざなう