マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第18回 今、どのようにして、帰依と布施を実践をすべきか?
    未来のブッダの皆さんへ


 今回は、サマナの皆さんが、多かれ少なかれ気に掛けたかもしれないと思う、デリケートな問題に立ち入りたいと思います。それは、グルとの物理的コンタクトがない状態で、何が三宝への帰依であり、何が真理への布施であるのかという問題です。

 帰依というものを考えるとき、物理的にコンタクトができるグルがいない場合、どうやって実践できるのだろうか? また、布施についても、グルが具体的に使い方を決めるのではないから、どうしたら、真理への布施を実践できるのだろうか? この問題は95年以来、96年の体制の変化を含めても、実質的には、教団に存在していました。

 今回は、それを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

 では、まず、説法を追っていくと、グルが物理的に離れているときの修行について、明確な示唆を得ることができます。


 わたしが、このような話を君たちにしているということは、実は今わたしは癌にかかっていて、特に肝臓癌で、まあ、今から十日ぐらい前には、半年ぐらいで死ぬんじゃないかといわれていて、で、今は、1年ぐらいは持つかもしれないといわれていて。勝てるか負けるかは、すべてシヴァ大神および諸々の仏陀の加護であるとわたしは見ています。そして、そのために弟子の信というものがどの程度あるのかと量ったら、ほとんどの、ね、弟子どもは修行しないと。それどころか煩悩がどんどん出てきて、自己の本性に振り回されていると。もしこれが、きちんと三宝に対して帰依をなしているならば、そのような現象は起きないはずである。

 つまり、わたしが存在しないとき、そこには、当然経典が存在している。経典をグルとして見るべきである。あるいは、自己よりも修行の進んでいる師の教え、つまりここでいう修行の進んでるというのは、その修行者が煩悩を滅尽しようと向かっているかどうかがポイントになるわけだが、その向かっている者を見本として、自分を立て直すべきであると。ところが、立て直さず、凡夫の法を振り回していると。



 三宝帰依を説く点では、次の説法も同様です。



 仏典にもサキャ神賢は在家の弟子に対して、「一つの法則を実践せよ」と説いていらっしゃる。それは仏陀――ここでいう仏陀とはサキャ神賢を指すが――「サキャ神賢を記憶修習せよ」と説いていらっしゃるのである。なぜならば、その当時サキャ神賢は生きていらっしゃり、そしてサキャ神賢を記憶修習するだけで在家信徒は救われたからである。

 ところが、『大完全煩悩破壊経』になると、「三宝を敬わせるようにしよ」と言ってらっしゃる。つまり、グルであるサキャ神賢、そしてサキャ神賢の弟子たち、そして経典である――あるいは教えである。これは、グルがいない状態においては、その法則の伝達者である弟子、あるいは法則のウエートが重たくなることを表している。つまり、イメージによるグルでは仕方がないのである。



 しかし、グルに対する帰依と、法則や弟子に対する帰依というのは、同じではないし、ともかくピンと来ないという点があると思います。その点については、このような質疑応答があります。



(Q)「帰依の対象となるのは、グルだけである」と聞いたことがありますが、それとサンガに対する帰依とは、矛盾しないのでしょうか。

(A)あなたの質問は、確かに正しい質問です。

 つまり、一つの法則を実践するとき、そのときには、当然グルを記憶修習すべきです。しかし、三つの法則を実践するとき、そのときは当然、グル、そして真理、そして向煩悩滅尽多学男女の記憶修習を行なうべきです。これは、どういうことでしょうか。

 まず、一つの法則にしろ、三つの法則にしろ、グルは固定ですから、グルは除外し、次に真理に帰依する。というのは、グルの説いた法、あるいはグルの表わす真理の法則、これに帰依するわけですから、結局「グルの言葉に帰依する」、イコール、「グルに帰依する」ということになるわけです。

 また、向煩悩滅尽多学男女に帰依するということは、グルの説き示した道、つまり真理に帰依し、グルの言葉に帰依し、それを実践している人々に対しての帰依ですから、結果的には、グルの前生や、グルの前々生や、あるいは、はるか昔のグルの生に対して帰依をする、つまりグルに帰依をすることと何ら変わんないわけです。よく理解できましたか。



 まず、この説法で言われている法則とはグルの言葉であるからグルへの帰依であるというのはわかりやすいと思います。

 一方、向煩悩滅尽多学男女への帰依もグルへの帰依という点については、基本的にこの説法は、在家信徒に対して、向煩悩滅尽多学男女に従って修行しなさいと説いているのであって、私たち、向煩悩滅尽多学男女の間では、お互いをどう考えればいいのでしょうか。

 サマナの間のステージの違いをどのくらい重視するかは人によって意見がまちまちで難しい問題ですね。しかし、一つだけ確かで重要なことは、ステージが上だろうと下だろうと、向煩悩滅尽多学男は、それぞれが皆、グルの前生の姿であり、未来のブッダであるという認識を持つことではないかと思います。これがあれば、サマナの間の嫌悪の問題は完全に解消するでしょう。説法には次のような一節があります。

 では、この向煩悩滅尽多学男女に対する帰依は、どういう恩恵を与えてくれるのでしょうか。それは、皆さんの心を、煩悩滅尽に向かわせるという方向に向けてくれるわけです。少なくとも出家をし、そして煩悩滅尽に向かっている魂、これは立派に帰依の対象になり得ると思います。そしていずれは、この向煩悩滅尽多学男女は、成就し、成就者となり、そして最終的には仏陀となるわけですから、その価値は、帰依の価値は甚大です。

 我々の法友は皆、グルの前生、未来のブッダなのです。そのように考え、慈愛をもって法友に接することが大切だと思います。これは、グルの法則に基づいた法友の見方ですし、グルが未来のブッダに導く法友を大切にするわけですから、グルを大切にすること、グルへの帰依の一貫だということにもなるでしょう。

 一方、一部のサマナに見られる、法友への慈愛の欠如は、未来のブッダとしての法友の偉大な価値を見損ない、今の現実にのみ心がとらわれ、近視眼的な評価しかできない状態にあるからです。大乗の法則においては、すべての魂には仏性があるとか、すべての魂に礼拝するとかいう教えもあります。仏性、真我があるだけでなく、今既に煩悩破壊に向かっており、かつ、グルとの縁を有する、わたしたちの法友の価値を認めないのは無知であるというほかはありません。例えば、法友の欠点について、それを指摘するときも、法友の価値の否定ではなくて、未来のブッダとしての、法友の偉大な価値を認めた上での行為でなければならないと思います。

 そして、この法則に基づけば、自然と出家教団は和合することになりますし、私たちはそうするように努力しなくてはなりません。

 次に、帰依というよりは、布施の対象としての、法則と向煩悩滅尽多学男女の問題について考えてみたいと思います。

 時々、「今の教団に布施する気にならない」と言う人がいます。しかし、それは法則を理解していない可能性があるのではないでしょうか。今の教団には、物理的にコンタクトできるグルがいないとしても、グルの教えは存在します。アレフでは、事件に関係したといわれるヴァジラヤーナの教えはその教学システムから排除しました。しかし、その他の膨大なグルの教えは維持、修習しています。

 それだけでなく、教団は、グルと縁があり、グルの前生と同じ道をたどっている、多くの向煩悩滅尽多学男女がいます。彼らは未来のブッダです。この多くの法則と多くの向煩悩滅尽多学男女を抱える教団に布施し、未来のブッダの修行を助け、順縁を形成することを否定するのは、法則の考え方に合致しているとは言えないと思います。

 ただし、向煩悩滅尽多学男女への帰依については、もう一つ重要な問題があります。それは、その人が、本当に煩悩滅尽に向かっていないならば、帰依の対象としてはならないということがあります。次の説法は、在家信徒用の説法ですが、この点を説明しています。

 確かに、「向煩悩滅尽多学男女に対する帰依はしづらい」と、お考えになるかもしれません。
 しかし、サマナ、つまり出家修行者には、二つのタイプがいます。
 その第一は、先程述べた、向煩悩滅尽多学男女です。
 そしてもう一つは、単に出家生活をしてる者です。
 そして、後者に対して帰依をする必要はありません。必要なのは、向煩悩滅尽多学男女に帰依をすべきなのです。


 これについて、何点か大切だと思うことを書きたいと思います。

 まず、今のサマナのごく一部には、煩悩の滅尽に向かって努力していない人たちがいるかもしれません。例えば、出家教団にいる方が、在家より楽だからとか、教団を利用して煩悩を満たそうとしている、堕落した意識を持っている人がいるかもしれません。そのような人は、基本的に在家信徒以下の功徳しか積めていない状態になるおそれがあります。

 そういう人たちは、だれが、その人のサマナの地位を認めたとしても、サマナの徳は積めません。その人が煩悩滅尽に向かって全く努力せずに徳を積まず、一方で、在家信徒や他のサマナの供養を受け、徳を消耗している限り、そのカルマが在家信徒以下にさえなるおそれは否定できません。このカルマは必ず本人に返ることになります。ですから、そういう面が自分にあると思う人は、初心に帰り、少しでも努力を始めるべきです。

 次に、向煩悩滅尽多学男女とは、必ずしも今現在のステージが高いかどうかではなく、出家し、煩悩滅尽に向かって、今現在努力しているかどうかが最大のポイントであると思います。

 現状の教団を見ると、現在の成就者以外にも、今のステージは低いけれども、こつこつ努力している人たちがたくさんいます。その中には、潜在意識の煩悩が出て、悪戦苦闘し、他人には尊敬されていないけれども、煩悩滅尽に向かって努力している人たちもいます。この人たちを軽視するのは愚かなことであり、自己のプライドでしかありません。

 努力をし続ける限り、その人たちは、未来のブッダであり、縁を深めるに値する人たちだと思います。今のステージが高い人を称賛することは大切ですが、努力していることを称賛することは、もっと大切なように思います。なぜなら、慢に陥り努力しなければ、神々でも落下するからです。

 また、自分のワーク上の能力が他に比較して低く、他ほどワークができず、他ほど布施ができないとかいったことによって、気に病むことは何もありません。最も大切なことは、煩悩滅尽に向かって努力しているか否かという、心の問題だと思います。

 もちろん、豊かな才能は功徳の現われです。それは称賛に値します。しかし、功徳は多面的なものです。財施の功徳、安心施の功徳、法施の功徳、持戒など、六つの極限の功徳を考えてもいろいろな功徳があります。財施や、奉仕の才能のみが、その人の功徳の現われだけではありません。

 そして、最も大切なことは、三宝と呼ばれるに値する、煩悩滅尽に向かって努力する姿勢だと思います。六つの極限もすべて煩悩滅尽に関係しています。努力していることの大切さ、功徳は計り知れません。過去に積んだ功徳は無常であり、慢によって徳を消耗すれば、来世は、才能豊かな人どころか、三悪趣の住人に生まれ変わるやもしれません。今努力している人とあっという間に立場は入れ替わるわけです。

 さて、次に、真理への布施について考えてみたいと思います。現在、どのような布施をなせば、真理への布施となるのでしょうか。

 布施は基本的な帰依の実践であり、功徳の実践です。帰依の対象は、そのまま、教えを学び、奉仕し、布施する対象だからです。

 また、帰依の対象として、三宝帰依の説法を引用しました。そして、三宝帰依が最高の功徳であるというのがサキャ神賢の法則であることは皆さんがよくご存じのことです。

 そこで、三宝の一つ、法則への帰依について考えてみましょう。



(Q)三宝帰依の「法に対する帰依」というのは、具体的にどのようなことを言うのでしょうか。

(A)これは、真理の法則、つまりこの現世的なものの考えではなく、わたしの説き示した法則、あるいは今から2600年前のサキャ神賢の説き明かされた法則等に従い、そしてそれを記憶し、考え、実践するということを指します。



 この説法からすると、法則への帰依とは、法則を記憶し、考え、実践することです。そこで教団は、皆さんから受けた布施を、例えば、次のようなものに使っています。

1 様々な修行法を伝播し、研究する、光音天と分室、健康センターの施設とスタッフ
2、様々な修行法の研究をするアクエリアス研究所の研究費やスタッフ
3、法則を迅速に広めるインターネット、ホームページの運用
4、成就者の説法を遠隔で届けるテレビ電話装置の導入とメンテナンス。

 これらは、サマナと在家信徒の法則の帰依の実践を助けることで、教団が、法則への帰依の実践をなそうとしていることを表わしています。その教団に布施することは、真理への布施の功徳を積むことになります。

 このことがはっきりと布施する皆さんにわかるように、教団は、今後、月1回のリーダー会で、皆さんの布施が何に使われたのかについて、大まかに説明を受けることになるでしょう。それによって、皆さんの教団への布施が、いかに真理への布施になっているかを自分で判断することができると思います。

 それから、教団では、相当な額のお布施がイニシエーション関連に使われています。光音天などで成果を上げているので皆さんもよくご存じだと思います。今後は、大きな部署には、専用のイニシエーション関連設備を配置していく予定です。例えば、具体的には次のような事例があります。


1 音のイニシエーションを光音天以外にも配置
2 火のイニシエーションを光音天以外にも配置
3 甘露水イニシエーションを日常の飲食にも使えるように増産予定
4、携帯用パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーションの研究開発
5 携帯用テレポーターの

研究開発
6 コンピューター・グラフィックスによるリアルな秘儀瞑想イニシエーションの研究開発

 このイニシエーションについては、功徳との関係がありますから、単に増やせばいいというものではないと思います。ですから、その使い方については、現在、師、正悟師との会合で、慎重かつ、深い検討を進めています。

 今のところ、単にイニシエーションを受けっぱなしにするのではなく、それを、自分のカルマ、すなわち、功徳と悪業の果報を証智する機会にできるような、指導を行なう方向で検討しています。そうすれば、イニシエーションをきっかけにして、より多くの功徳を積みやすくなり、それが、さらに多くのイニシエーションを受ける準備となります。

 先日、在家信徒のセミナーにおいて、音のイニシエーションの改善版である、ピラミッド・イニシエーションを伝授しました。その結果でわかったことは、しっかりと、修行や功徳の実践に励んでいる人たちほど、いい体験をするということです。良きにしろ、悪しきにしろ、自分のカルマを証智するためには、このイニシエーションは極めて有効のように思います。

 そこで、現在、サマナの人にもそれを受ける機会を用意することを検討しています。

 さて、このイニシエーションについて、興味深い説法があります。



(Q)帰依の実践といいますと、具体的には、どのようなことをすればよろしいんでしょうか。

(A)まず、経典を記憶するということ。そして、その経典を理解するということ。そして、生の法話を理解するということ。それからもう一つは、わたしの発しているヴァイブレーションを吸収するということ。こういうものが、ね、あるいは、大師のヴァイブレーションでもそれはいいです。こういうものを含めて「帰依」と言うことができるでしょう。



 このように、帰依の一つには、グルのヴァイブレーションを吸収することがあると説かれています。とするならば、皆さんが音、火のイニシエーションなどを受けるということは、それは、まさにグルのヴァイブレーションなわけですから、帰依の実践であるということになります。そして、ヴァイブレーションを与えるイニシエーションのために、教団に布施することは、真理への布施と考えることもできるでしょう。
 
 まとめてみると、現在も、教団には、グルの教えとグルのイニシエーションやヴァイブレーションが残っています。現教団は、事件関連の教えは教学システムの中から排除しましたが、その他の膨大な教えと、様々なイニシエーションが、徐々に広められています。

 イニシエーションの一部は、以前より改善されているものがあります。グルがその改善を意思されていたが、95年までには果たされなかったものも、今少しずつ進んでいます。これらの法則とイニシエーションは、皆さんが、修習し、守り、そのために布施するに値する、極めて重要な対象であると、わたしは確信します。
 
 さて、これまで、法則やイニシエーションを広める教団への布施の価値をお話ししてきました。次に、三宝の中の、もう一つの要素である、向煩悩滅尽多学男女への布施の価値です。

 教団は多くの向煩悩滅尽多学男女を抱えています。教団へのお布施は、法友である向煩悩滅尽多学男女の修行と生活のために使われています、彼らが皆、グル方と縁の深い、未来のブッダであると認識するならば、それも真理への布施であると認識することができるしょう。

 そして、それを完全に固めるためにも、皆が真の向煩悩滅尽多学男女になるように、互いに励まし合うべきだと思います。この努力を怠っては決してならないと思います。
 
 最後に、少し別の角度から、布施の実践に関連するお話をしたいと思います。

 それは、今後、財施をしているサマナについては、しっかりとした崇高な布施の儀式を行ないたいということです。
 儀式ヨーガというのは、密教の4段階のタントラにおいて、まず初めに来る、土台の修行です。土台が固まらないと、その上の修行は成り立ちません。

 布施の儀式が、旧教団ではよく行なわれていました。正確には儀式というより、グルに、マハーポーシャや支部の師や、在家信徒が、お布施を直接手渡していました。95年以降は、財施部などで、布施の儀式を行なったり、一部ではお布施を修法室に供えるということも行なわれていました。

 しかし、最近は、いろいろな事情から、そのような儀式や具体的な布施の行為がなくなり、自分の稼いだ自分のお金を使ってという感覚が強くなりました。これは、現在のサマナのステージを考えると、布施の修習、貪りの捨断のためにはあまり良くないと思います(わたし個人としては、すべては心ですから、儀式がなくても、得た収入を自分のためではなく、すべてグルのものと見なし、グルの救済活動のために使っておれば、それは三宝への布施になるとも思いますが、そのような変容をなすことは、最初からは難しいと思います)。

 そこで、その際、上九一色の修法室にあった宝物がありますので、それを財施をしているサマナが多い住居に移設し、その祭壇に設置し、その前で、帰依の心を持って、お布施をすることができるようにしたいと思います。


 修法室においては、神々に対して、長らくいろいろな供物が供えられてきました。これからは、その修法室がのれん分けされたような形で、皆さんの祭壇に移り、それとともに、神々のエネルギーを発し、神々につながった祭壇の空間の前で、皆さんが、布施の実践をすることができます。時間としては、特別な理由で慣例となっている、夜9時から12時がよいと思います。この時間は、瞑想にも入りやすい時間帯ですね。

 また、こうしていったん祭壇に捧げられたお金については、後で、その一部を自分が使うことになったとしても、それは、布施した対象から、与えられた清らかなものと考え、真理のためにのみ使うのだ、としっかりと認識することが大切です。

 未来のブッダになるすべてのサマナの皆さんに、正しい帰依、布施の法則の認識が生じますように。


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 注釈(広報部より)
1 この寄稿でのグルの定義とは、96年破防法弁明手続きでの前代表の弁明、及び、宗教団体アレフの規定のとおり、経典を解釈した者(経典の解釈者)を意味する。
2 文中の布施の儀式での布施とは、宗教的な意味、特に気持ちの持ち方に関することであり、実際の所有権の移転など、法的概念や経理上の扱いを意味しない。