マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第17回 苦楽表裏
     - 苦しみの裏に喜び、喜びの裏に苦しみ -


苦の裏に喜び、楽の裏に苦しみ
 自己の苦しみを喜びとするという詞章があります。
 苦しみを経験することは、カルマ落としであり、自己のカルマが浄化されているという意味では、喜ばしいことだと言うことができるからです。
 一方、喜びは徳の現われですが、それは徳を消耗していることでもあって、徳を消耗し切れば、苦しみしか現われなくなるから、その意味では、喜ばしいことではありません。
 このように、苦の裏に楽があり、楽の裏に苦があります。
 これを苦楽表裏の法則といいます。

苦楽無常の法則
 また、苦しみも、喜びも、それぞれ、悪業、善業の現われでしかなく、それは無常であり、どちらも永久には続かない。つまり、苦楽は無常です。
 このようにして、苦楽は表裏であり、無常であるということを記憶修習すれば、いろいろなことに頓着しなくなります。

絶対幸福の仕組み
 我々には、苦と楽がありますが、苦を喜びと考えることを修習すれば、苦しみの範囲が減少します。さらに、他の苦しみを自己の苦しみと考えて、他の苦しみを取り除く実践によって功徳を増大させれば、喜びの原因である、功徳は増大します。
 人の幸福感は、その人が有している欲求のうち、どのくらいがかなうかによって決まってきます。苦しみを喜びとし、欲求が少なくなり、他の苦しみを自己の苦しみとして、欲求を満たす力である功徳が増大すると、当然、幸福感は拡大します。そして、欲求が極小になり、功徳が膨大になると、幸福感は無限大に向かって大きくなるわけです。
 ただし、ここでいう、絶対幸福というのは、マハー・ニルヴァーナでいわれる絶対幸福、すなわち、苦しみがないという意味での絶対幸福ではなく、現象世界での幸福感を意味しています。

逆転の発想
 これは、以前の寄稿にも多少書いたことですが、自己の苦しみを喜びにするという教えは、心の安定に大変重要です。我々には苦と楽しかないので、苦を楽にしてしまえば、心の安定を得ることができます。
 苦しみを喜びにするとき、カルマが浄化されているから考えるだけでなく、もう少し具体的に喜びを考えるのが、いわゆる逆転の発想です。
 そして、禍(わざわい)を転じて福となす、ピンチの裏にチャンスあり、人間万事塞翁が馬、死中に活を求めるといった言葉は皆、この法則を示している格言です。
 尊師は、目が不自由であることは、人生の無常を感じやすくなり、解脱の原動力となると、説法されたことがあります。
 松下幸之助も、貧乏のため、丁稚(でっち)奉公に行き、商人の心得を学べ、学校に行けなかったので、他人から素直に学べ、体が悪かったので、他人に任せることを学べ、無理をせず、94歳まで長生きできたといいます。
 一流のビジネスコンサルタントによると、経営が危機のときに、そのピンチをチャンスだと考えられるかが、事業成功のポイントだといいます。すべての人には、浮き沈みがあるからです。

短所と長所
 自分の短所というのも、それを乗り越えられれば、同じような欠点を持つ人を救うことができるようになり、救済する力が大きくなるわけですから、絶対的な悪ではありません。短所は自分の未来の長所になり得るものです。
 このように考えると、プライドや卑屈は意味を持ちません。
 プライドは、自分の長所が、過去に積んだ徳の現われにすぎず、継続して徳を積まなければ、そのうち落下してしまう。にもかかわらず、自分が固定的に偉大であるかのように錯覚すれば、努力を怠るようになり、慢と怠惰により落下につながっていきます。こうして、現在の長所が思わず、将来の落下をもたら可能性があります。
 自分の短所によって、卑屈になる必要もありません。それは、絶対的なものではなく、努力によって徐々に解消できます。それが、前にも述べたように、自分の将来の長所の源にもなります。しかし、怠惰で努力し続けず、卑屈によって意味なく苦しんでいることはよくありません。
 プライドも卑屈も捨断して、コツコツなすべき努力をしましょう。

喜びの裏の苦しみ
 さて、先程、苦しみはカルマの浄化であり、将来の喜びにつながり、喜びは徳の消耗であり、苦しみにつながると言いました。  しかし、この、喜びが徳の消耗であるという点があまりよく理解できない人がいるのではないかと思います。しかし、これはカルマの法則からしても、明らかなことではないかと思われます。
 この世の幸福、すなわち、煩悩的な喜びを満足させるということは、どのような影響を他に与えるでしょうか。他になしたことは自己に返ってくるという原則を考えると、煩悩の充足は他にどのような影響を与えているでしょうか。

この世の幸福は他の苦しみの上に
 チベット密教のニンマ派の教えでは、この世の幸福は、すべて他人の不幸の上に成り立っていることが多いと説いています。もし、煩悩を満たすことによって、他人を苦しめているのなら、それによって、カルマの法則、苦しみを味わわなくてはなりません。



 三つ目の条件の苦である。私たちのおこないすべてが、苦しみの種子をまいていくことをさしている。どんな幸福にひたっていても、その中でのおこないの一つ一つが苦しみの因になっていくことからまぬかれず、機が熟して幸福は崩壊していく。もっとよく考えれば、個人的な幸福というものは、他人の不幸の上に築かれていることが多い。たとえば、おいしい肉料理に舌つづみをうつのはいいけれど、その前には別の人が動物を殺す仕事に手を染めなければならなかったはずだ。チベット人は茶を飲み、ツァン(麦こがし)を食べる。お茶は中国で採られるが、そのときにはたくさんの虫を殺さなければならない。この茶を運搬するのに、中国のタルツェドゥ地方では、人力に頼っている。人が重い荷を背に負って苦しんで運搬してこなければならないのだ。チベットへ入ると、今度はヤクやロバがその苦しみを肩がわりする。いずれにしても、茶を飲むという楽しみが、ほかの生き物には苦しみの条件をつくりだしているのである。

 ツァンバだってそうだ。小麦の種をまくために、人々は大地をすきかえす。そのとき地中の虫 たちは地面に投げだされ、それをカラスたちがついばみにくる。畑をつくるために、沼を干上げれば、水中にいた動物たちはみんな死んでしまう。こういう連鎖のことを想うと、ツァンバを口に運ぶときには、それが虫のだんごのように、思えてくるはずだ。どんな幸福も、苦しみの条件となることをまぬかれない。

(虹の階梯『輪廻』P150〜P151より引用)


   こうして、自分の楽の裏側で、他人に苦しみをつくり出しているなら、当然そのカルマは返ってくるわけですから、今感じている楽の裏には苦があると言うことができます。すなわち、苦しみは悪業の浄化として喜びであり、煩悩的な喜びは裏で悪業を生じさせているということになり、まさに苦楽表裏が理解できるでしょう。それでは一つひとつの煩悩について考えてみましょう。




嫌悪と物質欲
 まず、ムーラダーラに関係する嫌悪についてですが、それを満たせば、他を傷つけることになるのは明らかです。例えば、恨みを晴らしたときは、暗い喜びを感じるかもしれませんが、同時に傷つけられた他人の苦しみを、悪業として自己が吸収していることになります。

 また、このチァクラに関係する物資欲についても、世の中の物質的幸福、例えば、お金や資源の総量が有限である以上、物質的幸福を追求すれば、必ず他人と奪い合わなくてはなりません。ビジネスというのは、よく経済競争といわれるように、結局は、社会の中で、他人の物質的幸福を奪って、自分が幸福になろうとする行為ですから、自分が成功すればするほど、他人が失敗すると言うことが言えます。徳がある人が、他人にうち勝ち、自分が幸福になるわけですが、その人がその利益を他人に還元することなく、利益を独占し続けるならば、それは餓鬼のカルマを積むことになり、未来において、徳が消し尽くされた際、今度は逆の立場に立ち、物質的欠乏に苦しまねばなりません。

 日本社会の現状は、多くの生き物や、途上国の人々からの物質の搾取(さくしゅ)によって成立していることは、指摘されることが少ないのですが、紛れもない真実であることは、環境破壊、生態系破壊、飢餓問題などを見れば明らかです。

性欲、男女間の愛著
 次に性欲についてはどうでしょうか。人間界ではこれは、男女双方にとって喜びであるとされ、いろいろと称賛されていますが、客観的には、これを満足させて、他を苦しめることは多々あります。
 例えば、同じ異性を二人が奪い合う場合などは典型的な例です。私は多くの人の愛著の経験を聞きましたが、自分の愛著の対象が、他の異性に目を向けたので苦しんだという話はよく聞きます。と言うより、少し長い期間を取ってみるとほとんどのケースでそうなります。実際の行動で奪い合わなくても、心の中で、他の異性に対して嫉妬していたり、苦しんでいたりすることはさらに多いでしょう。
 また、性欲をベースとして、愛著が強まれば、それも他人を苦しめるようになります。まず、愛著の対象を独占しよう、自分の思い通りにしようとすれば、対象に圧迫感を与え、これによって、対象が自分から他の対象に離れていくケースがあります。このときの失望感などは、対象への憎しみにさえ代わり、さらに対象に苦しみを与える原因にさえなりかねません。よく言われる、かわいさ余って憎さ百倍ということになります。
 そもそも、人の本当の幸福は、解脱・悟りであり、それは、その人が、あらゆる外界からの執着から解放され、自立独立し、自由である状態です。すなわち、真我独存位の状態です。愛著によって他人を縛り付ければ、それは相手が真我独存位の状態に近づくのを阻むことになります。実際愛着し合っている男女は、互いが聖者になり、ブッダになり、自分から独立していくことを望みません。つまり、互いに相手の本当の幸福は考えていないのです。
 また、一人の人を愛着する限り、その対象に敵対する者には、自分も敵対し、そのため、その人を傷つけることもあります。愛著の世界である人間界が、仲間が傷つけられたことに対する、復讐のための紛争が絶えないのも、これが原因であることが明らかです。
 このように、愛著を生じさせれば、その裏側に、他に対する憎しみを生じさせることになるわけです。

食の貪り
 さて、食欲についてはどうでしょうか。そもそも、この食欲とは、他の生き物を殺すことによって獲られた食べ物を喜ぶわけですから、他の苦しみに立脚していないわけがありません。オウムでは自分では殺生しない不殺生食を用い、直接殺生するカルマは避けていますが、人が食べる限り、誰かが殺生をせねばならず、何ものかが苦しまなければならないことは間違いありません。
 そして、食における貪りを犯すならば、当然、他の人から食べ物を奪うことになります。現代社会はその典型で、日本は飽食ですが、途上国は飢餓状態です。それが悪いという価値観が今の日本社会一般にありませんが、最近は、少しずつ問題視されてきたようです。
 日本が金の力で、海外の食物を購買すれば、それによって食料の市場価格は引き上がり、貧しい国は食料が輸入できなくなりますし、国内の食料が足りない国からさえ、先進国への輸出がなされています。地球全体では十分な食料があり、配分が偏っているがゆえに、飢餓が生じているわけです。自分の煩悩の充足によって苦しんでいる人が地球の裏側に存在するわけですが、目の前にいないゆえに、私たちが知らず知らずのうちに積みかねない、悪業であると言うことができます。

上位のチァクラの煩悩
 では、上位のチァクラの煩悩はどうでしょうか。プライド、名声、嫉妬、権力、地位、支配といった煩悩は、明らかに、万人が得られるものではなく、他より優位になることによって限られた人のみが得ることのできるものです。そういった意味では、これは明らかに同じ欲求を持つ他人を、うち負かし苦しめない限り得ることはできないと言うこともできるでしょう。
 もちろん、その人が積んだ功徳によって、多くの人に支持されて、称賛、名声、地位、権力というものが与えられることはあるでしょうが、それにとらわれ貪るなら、必ず他と激しく争い、闘争心、嫉妬、怒りが増大し、必然的に他を苦しめることになります。
 また、徳によって自然と与えられる場合でも、嫉妬しない人がいるかというと、私はそうは思いません。グルによる他人の成就の認定にさえ、嫉妬する人が少なからずいることを私はよく知っています。それは仕方がないことですが、いかなる場合でも、自分が名声、称賛、地位を得る際には、それを喜んでくれる人ばかりではなく、それに苦しんでいる人(例えば嫉妬したり、卑屈を感じている人)がいることは注意しておくべきことでしょう。
 こうして、嫌悪や怒りといった相手を直接的に傷つける種類の煩悩だけでなく、いろいろな対象への愛著、執着、貪りなども、必然的に他を苦しめる側面があります。そうである限り、それがカルマの法則によって、未来に自分に苦しみとして返ってくることはカルマの法則からして、合理的だと思います。
 また、自分の煩悩の充足が他人を苦しめているのだという発想は、煩悩を弱める一つの助けにもなると思います。

自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする 
 最後に、自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする、という詞章をもう一度考えてみましょう。  まず、自己の苦しみはカルマの浄化であり、さらに、逆転の発想により肯定的にとらえられるものです。よって、喜びと考えることができます。
 そして、他の苦しみについては、それをつくり出している悪業は、その人に限られたものではなく、自分においても過去に生じ、それゆえ、油断すれば未来にも生じ得るものです。よって、他の苦しみは、自己の苦しみと考えて、自分の苦しみと同じように悲しみ、取り除くように努めるという、聖哀れみの実践が、自然と出てくることになります。
 自他の区別をなくしていく、カルマ・ヨーガの実践は、こうして、四無量心の実践へと結び付きます。