マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第16回 カルマの法則と自他の区別の滅尽


カルマの法則
 現象世界の一切はカルマの法則で動いています。これは最も基本的な真理の法則ですが、それを深く理解する、ないし体得することは、高度な修行であり、大変重要なことだと思います。
 カルマの法則を一言で言えば、自己の経験するすべての現象は、自己の過去の身・口・意のカルマ(特に重要なのが心)の現われであるということです。
 そして、我々の最も気にする人間関係の問題に関して言えば、自己のなしたことが、他から返ってくるということにあります。自分の経験している他人の行為は、自分の過去の行為を投影しているということです。

三つの根本煩悩の意味合い
 カルマの法則に基づいて考えられず、自分と他人を区別し、切り離して考えることを、無智、ないし、根本無智ということもできます。
 実際、私が麻原尊師から、ジュニアーナ・ヨーガを教えていただいたときは、無智とは、自と他を区別する無智と教えられました(ちなみに、その他の二つの根本煩悩については、怒りは、自己を守るための怒り、執着(愛著)はエゴから来る執着と教えられました)。
 これは、カール・リンポチェのイニシエーションを尊師と受けたときにも同じで、彼は根本無智と呼んでいました(『マハーヤーナ』に師の説法が掲載されています)。この根本無智こそ、すべての煩悩の根元で、自と他を区別する無智があるゆえに、他について、好き嫌いの二つの煩悩、すなわち、愛著(貪り)と嫌悪(怒り)が生じるわけです。
 この無智が消滅すると、すべては自分の心の現われであることが認識されるわけですから、外的現象に対して、好き嫌いを含め、心の働きが停止することは、よくおわかりになるでしょうか。

他人の攻撃も自己のカルマ
 例えば、どんなに他人から嫌なことをされたとしても、それが、自分が他人に以前なしたことだと気づけば、腹も立たなくなります。怒りや嫌悪というのは、背景に自他の区別があり、「自分は正しい、他人は悪い」という、自己に対する偏愛が、その感情の根っこにあります。それがなければ、「自分も同じことしていたのだから、(他人の悪業を悲しみこそすれ)、その人のことを嫌悪はできない」という心の働きが生じます。こうして、カルマの法則を修習すると、この自他の区別を弱めることになります。

嫌悪の対象も自己のカルマ
 さて、カルマの法則の中で体得しにくいのが、自分が最も嫌悪している存在が、自分の心の現われだと認識することではないかと思います。
 しかし、自分が、他人に見る何かを嫌悪するということは、過去において、自分が他人に似たような要素を見せたからこそ、生じる現象です。そう思って、よくよく自分の過去の行為を観察すると、何も過去世にさかのぼることなく、自分にも、自分が批判している他人と同じ要素が何らかの形で見つかるはずです。
 これが見つからないと思う人は、ほとんどの場合、無智が強く、自他の区別が激しく、プライド、エゴ、嫌悪、甘えなどが強いと言うことができます。自分で、自分自身を突き放して、客観的に、冷徹に見ることができない、ないし、しようとしません。そういう人は、この煩悩多き、日本社会に生まれた我々が、知らず知らずのうちに、相当の悪業を積んできたという認識もないし、他人の自分に対する評価に不満を持っていることも多くあります。

カルマ・ヨーガの実践
 我々は、自分が嫌だと思う人について、それが実は、自分と似ている、ないし、自分も持っている欠点であることに気付かなくてはなりません。これは、カルマ・ヨーガの実践です。他人の悪業を見ては、自分に同じ要素が生起しないように、自分を戒めるのがカルマ・ヨーガの実践の一部です。
 自分がある他人の悪業を見るということは、他人に同じ悪業を見せたカルマが自分にあると考えるのが、カルマの法則にかなっていると思います。よって、他人に今見ている悪業は自分に将来生起する恐れがあると考えるのが、カルマの法則にかなっていると思います。よって、他の悪業を見ては自戒を強めるのは、当然であるということになります。
 しかし、通常我々は、自己を偏愛して、プライドに侵されていますから、しっかりと慚愧の心をもち、懺悔の実践、カルマ・ヨーガの実践をしないと、他人に見る欠点が自分にもあるとか、過去にあったとか、将来生じ得るということがわからなくなります。それによって、他人に対する、軽蔑、高慢、怒り、嫌悪が生じるわけです。それらはすべて自他の区別から生じるものです。 

修行者の陥るプライドの罠
 例えば、下手に修行などをしていて、自分が高いステージであるというプライドを持つと、それによって、自分の周りに対する軽蔑が生じてしまい、自分と他人の共通性に気付くことができなくなり、結局、本質的な修行が進まなくなります。
 常に他人に嫌悪し、軽蔑や、恨みを持ち、心の安定しない状態になるようです。そういうタイプの人には、多少の法則の知識や霊的体験は、自分のプライドを増大させる毒にさえなるので、十分な注意が必要です。法則の知識、体験によって、法則の目的を妨げるという事態に陥ります。これは非常に危険な罠だと思います。

オウム・アレフと日本社会 
 さて、自分たちとは、全く違うと考えている者が、実は自分によく似ているという、カルマの法則の実例としては、日本社会と、オウム・アレフの関係があると言うことができます。  これは、ある雑誌で、人権関係の専門家である大学教授が言っていたことなのですが、例えば、日本社会がオウム(アレフ)について言っていることは、日本が世界に言われてきたことだというのです。
 例えば、教団は、日本社会において、
「閉鎖的」、「謝罪、補償が足りない」、「まだ昔の信仰対象を捨てない」、「まだ危険だ」などと批判されますが、これは、戦後の日本が、世界に言われてきたことと非常によく似ています(天皇制を維持していることを含めて)。
 さらに、戦争中の鬼畜米英(アメリカの敵視)、大本営発表(外部情報の遮断)、神の国という思想(真理の戦士)、戦後の改名、GHQの統治(一時的に監察下に置かれる)、象徴天皇制、国連からの排除・敵国待遇(住民票不受理、地域社会からの排除)、優秀な経済活動・技術力など。
 もしこれが正しければ、オウム・アレフは、戦後の日本のごとく、カルマ落としの後に、奇跡的な大発展をすることになるかもしれません。





 日本の謝罪表明を評価する報道と修好四百年の記念行事が相次ぐなか、第二次大戦中に旧蘭領東インドで旧日本軍によって強制収容され、日本政府に損害賠償を求める民事訴訟を起こしている団体「対日道義的債務基金」は反発している。

 同団体のベン・バウマン会長は産経新聞の取材に対し、日本政府の謝罪や天皇陛下の記者会見について、「しょく罪や後悔の表明は受け入れることができるが、言葉だけで(個人補償という)行動を伴わないことは偽善だ」と述べ、あくまで日本政府に損害賠償を求めていくことを強調。日本政府がこれまで行ってきた賠償金支払いに対しても「少額だ」と切り捨てた。

 同団体は両陛下の訪問中にもオランダ各地で抗議行動を予定。ただ一九七一年にオランダを訪問した昭和天皇にものが投げつけられた経緯があることから、バウマン会長は抗議行動を「威厳ある態度」で行うよう求めているという。同会長は両陛下を迎えてのオランダ政府主催の昼食会への出席も断ったという。

産経新聞 2000年5月14日付


 


 これに対して、「あれだけの事件を起こしながら、反省や被害者に対する謝罪も弁償もせずに、蓄財に励んでいるオウム教団は市民社会に住む資格もないし、彼らの言うことに耳を貸す必要もない」、といった社会的・倫理的責任を問う声も耳にする。しかし、上記の「市民社会に住む」という表現を「国際社会に住む」という表現に代えるならば、それは、そのまま私たち日本人あるいは日本国家そのものにもあてはまる。日本国は、戦前のあのカルト集団大日本帝国がアジア諸国に対して行った蛮行に対して、国家としての正式な反省と謝罪は一度も行っていないし、戦後蓄財に励んで世界一二を争う富国になったにもかかわらず、被害者に対する弁償を拒否している。このことを棚上げにして、どうして性急にオウム教団だけを非難できるのだろうか。もし、それを醜いと思うなら、それは自分の姿である。

福田 雅章(一橋大学法学部教授)




東京の天皇一家の住む皇居の近くにある神道の靖国神社には、アジア太平洋で二千万人の無辜の市民を死に至らしめた侵略戦争のA級戦犯、東条英機元首相らが「神」として祭祀されている。天皇を神として、アジア諸国の人民に「あなたたちは天皇の子供だ」と教え込み、「大東亜圏」建設に狩り出したカルト宗教である。天皇は戦争責任を免責され、帝国史観を支えた神道も、解体を免れ、戦後、宗教法人として存続した。最近では東条元首相を美化する映画や、第二次世界大戦はアジア諸国を欧米列強の植民地主義から解放するための聖戦だったとする漫画がベストセラーになっている。
 天皇を赦し、神道を復活させた日本社会は、半世紀後に、オウム真理教という宗教団体が、弁護士一家を殺害し、二つのサリン事件を起こすなどのテロを行ったとして、オウム真理教に宗教法人としての解体を命令し、今も信仰を続ける信者に「住む権利」も認めない情況をつくりだしている。検察の主張によると、オウム信者によって殺されたのは二十人である。
あのいまわしい侵略戦を遂行するための中心的なイデオロギーだった国家神道はほぼ同じ形で存続したのに、オウムの人たちは、一部の幹部や信者たちが起訴され、一部で有罪判決が出るなかで、徹底的にいじめられている。
昭和天皇の戦争責任がタブーになった日本では、小さなカルトとされる麻原彰晃氏が率いるオウム真理教に裁判の決着を前に、「吊るしてしまえ」という世論ができあがり、オウム信者にも人権があるという人はほとんどいないのである。

浅野健一 (同志社大学文学部社会学科教授)


サマナ間のカルマの認識 
 この例については、サマナの皆さんは当惑するかもしれませんが、自分を、外から冷静に見ようと努めることは必要ではないでしょうか。プライドに侵されていては、自分の現実に基づき真剣な努力をすることなく、自己に関する妄想の中で生きることになりかねません。
 ともかく、教団と日本社会の間にさえ、同じ国に生まれた日本人としてのカルマによって、多くの共通点があるのなら、同じ小さな教団に集うサマナの間で、個々の間にどれほどの違いがあるのでしょうか。その中で、自他を区別し、軽蔑や高慢、怒り、憎しみを抱くことは、神々から見れば滑稽なことでしょう。
 このように、カルマの法則を具体的な例に当てはめて検証し、その法則に関する確信を深めていくとよいと思います。その際に最も大切なのは、自分を謙虚に見つめることを助ける慚愧の念ではないかと思います。