マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第12回 愛著VS救済


 よく、男性サマナ(ステージの高い師以上の者を含む)、と女性サマナの間に愛著が生じ、問題になることがある。自分も、これについては、様々な体験(失敗も含めて)があるから、このような関係の転末がある程度わかっているように思うので、皆さんと共存したいと思い、筆を取ることにしました。

 そのような関係が生じる原因は様々だと思う。もちろんベースには性欲というものがあるが、単純にそれだけでは愛著は生じない。男性の場合は、特に一定のステージ以上の場合、プライドや支配欲求ではないかと思う。よく、女性を引き上げるためにと考え、愛著の関係に入ってしまうケースがある。

しかし、「自分」に近付き、「自分」を称賛し、「自分」を頼りにしているように見える対象によって、自分のプライド、自己の重要感を満たされるが故に、特定の対象を引き上げようとするわけで、そのような条件がなければそうは思わない。女性の場合も、自分のプライドを満足させている面があるのだろうと思う。もともと、愛情欲求自体が、自分を愛してほしい、大切にしてほしいという心の働きである。また、対象によっては、プライド・権力欲といった自己の重要感を、その対象との関係を通じて満足させることができた場合も多いだろう。

 しかし、このような関係は、その成立した原因自体によって100%確実に崩壊してしまう。それは絶対100%崩壊する。

1.自己のプライド・支配欲求が原因である場合、その人の中心的欲求は、異性と末長く一対一の関係を維持していくことでは全くない。にもかかわらず、特定の異性に愛著すれば、周りの人は嫉妬・嫌悪・軽蔑によって白い目で見るようになり、自分は評価されなくなり、自分のプライド・支配欲は逆に満たされなくなる。こうして、一人との関係で、プライド・支配欲を満足させた結果、他のすべての人々の尊敬・信頼を損なうという結末に至る。すると対象から距離を置こうと考える。しかし相手は同じ心の働きを有しているわけではない。周りからどう見られようと、自分にとって、その愛著の関係が好ましいかどうかのみが関心事である場合もある。女性サマナ担当であった師は、男性と愛著の関係に入った女性サマナが、男性が急に距離を置き始める(いわゆる捨断を始める)と、「それなら、なぜ初めから近付いたりするのか」と憤慨するケースをよく見たという。こうして、両者の心のすれ違いが始まる。しかし、女性の方も自分を大切にしてくれる、もっと好ましい対象が現われるならば、その方にシフトすることになる。愛著は無常である。

2.男性も女性も、決して相手を愛しているのではなく、自分を愛しているのである。愛著が成立するのは、愛している「自分」のために、相手が都合のよいときのみ生じるのである。それは条件の変化によって必ず崩れる。愛著する2人の動機が同じではなく、全く違うことに気付くべきだ。愛著の原因が違うのだから、時とともに、2人が同じように、愛著を薄めたり強めたりすることはない。一方が望む相手との距離と、一方が望む距離が食い違ってくる。

 ところで、男女間でささやかれる、「あなただけ」という甘い言葉(ないし、それを暗示する態度一切)は、少し長い目で見れば全くの嘘だとしか言いようがない。それは全くの嘘である。「あなただけ」と言っている動機が2人の間で大きく違い、もともと、それぞれが「あなた」ではなく自分(自己の煩悩)を愛しているにすぎないからだ。

 実際、私はいろいろなサマナの懺悔を受けたが、複数の相手と破戒しているサマナが、破戒のたびに、「あなただけ」と言っていることがよくある(当人は当然それを隠している)。こうしてだまされると、異性の心がいかにエゴイステックで、移ろいやすいものであるかわかりにくくなるかもしれない。しかし、自分だっていろいろな対象に心が移る以上、自分が愛著した対象が、自分だけを愛してくれるわけがない。これはカルマの法則上あるわけがない。カルマの法則に反した幻想を捨て去るべきだ。愛著は不誠実なものである。




23.魅力的な性欲の対象に会ったときには
 夏の虹のように美しく見えても無常の心を持つ不誠実な人であると考え
 愛著と欲望を捨てるのが到達真智運命魂の修行である


『到達真智運命魂としての決意』より

3.チァクラの理論からいっても、アナハタ(愛著)で引っ掛かれば、ヴィシュッダ、アージュニアーにはエネルギーが上がらない。すると、それらのチァクラに関係する、権力の行使・統治というのはできなくなってしまう。よって、教団の救済活動において、各部署のリーダーが愛著に陥れば、チァクラの理論からしても必ず失敗する。愛著は救済の敵である。

 四無量心から見ると、平等心がなく愛著が生じれば、一人の女性(男性)のケアはできても、他の周りの人々へのケアがどうしても薄くなってしまうし、嫉妬・軽蔑等も相まって、ケアどころではなくなり、挙げ句には、愛著の対象とも行き違いが表面化して、嫌悪し合う関係にも至りかねず、気が付くと、四面楚歌になっている。尊師は、愛著について、そんなことでは「救済ができなくなってしまう」と考えて、「捨断せよ」とおっしゃったことがある。やはり、愛著による救済など成立しないだろう。愛著は救済の敵である。





◆愛多き者は則ち法立たず

 今日の故事成語は「愛多き者は則【すなわ】ち法立たず」です。

 この故事成語は、中国史を見る限り多くの実例を有しています。特に典型的な例としては、漢・楚の対決、つまり劉邦と項羽の対決。これにまず第一に目をやることができるでしょう。

 項羽は虞美人【ぐびじん】を愛しました。そして、愛するがあまり判断を見誤り、自分の最も大切な参謀である范増【はんぞう】を自分の陣営から外してしまいました。そして、その結果として、項羽は劉邦に破れたのです。

 また、もう一つ有名な例は、唐の玄宗皇帝の話を思い浮かべることができます。唐の玄宗皇帝は、「開元の治」といわれる大変な善政を敷きましたが、楊貴妃の登場以来政治が乱れ、そして自分の愛する楊貴妃を殺し、そして自分自身も力なき皇帝となり、そしてそれによって唐帝国は衰退へと向かったのです。もちろん皆さんもこのことはよくご存じのはずです。

 また同じ例として、唐の高宗【こうそう】、彼も皆さんのよく知っている則天武后【そくてんぶこう】に対する寵愛ゆえに政治を乱しました。つまり、愛情の多い者は、法律によって国を統治することができないということは言えるでしょう。

 ところで、これはヨーガ理論にのっとって考えると、大変わかりやすい教えであると言えます。権力は喉のチァクラ、ヴィシュッダ・チァクラに存在します。そして、愛情はその下のアナハタ・チァクラに存在するのです。従って、権力を有している者が、その下のチァクラ、アナハタ・チァクラに意識が移った瞬間、周りの人と同じ人間の意識状態となり、それによって統治形態は崩れてしまうのです。

 従って、為政者たる者、自己を空っぽにし、そして黙々とすべての魂のために働くべきではないでしょうか。


『もりもり智慧のわく書2【韓非子編(2)】』より



 今回の寄稿は、自分が男性であるためか、自然と男性サイドに立ったものになってしまった点があることは、申し訳なく思います。しかし、いろいろ考えると、自分も含めた男性がしっかりすれば、愛著の問題が大きく減少することは疑いないと思います。では、最後に、もう一度、愛著は無常で、不誠実で、救済の敵である。