マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第5回 心の苦しみを取り除く詞章の活用法

 懺悔の詞章、苦の詞章、大乗の発願etc. わたしたちは、日々の修行でこれらの詞章をよく唱えている。しかし、その意味をよく理解して、自分の日々の心の苦しみを取り除くために、活用している人はあまり多くないのではないだろうか。そこで、その活用法をいくらか紹介した。

1.懺悔の詞章

 我々は、人に傷付けられると、その人を憎しみ、その憎しみ(邪悪心)によって自分が苦しむ。しかし、実際は、我々自身も、同じことを他人に対してなしたことがあり、そのカルマが返ってきて、自分が傷付けられているのだ。そこで、懺悔によって自分の過去の悪業をよく思い出し、このことを認識するならば、憎しみから解放される。カルマの法則を信じられなくても、憎んでいる人と同じようなことを自分も他人になした、ということを認識するだけでも憎しみは和らぐ。

 逆に「自分は悪いことはしていない。悪いのは、自分を傷付けたあいつだ」という邪見解に基づいた考え方を持っていたり、もしくは、自分の悪業に気付きつつも、プライドによって、そう思わないようにしている場合は、憎しみが続く。そして、その憎しみの対象を非難し、そのカルマによって再び傷付けられるという、悪循環に落ちていく。

 そこで、懺悔の詞章を唱えながら、自分の心の傷となっている出来事について、自分も同じように他を傷付けたことに思いを巡らすといい。すると、邪悪心やプライド(自己保全)がなくなり、心が浄化されていくだろう。

2.大乗の発願

 我々は日々いろいろなことで悩んでいる。しかし、それは心が身の周りの狭い世界に縛り付けられているからに過ぎない。もし、心を広げて、輪廻の大海を浮沈する生き物すべてに思いをはせ、地獄、餓鬼、動物の苦しみ、食や水にも不自由な人々を思いやれば、我々の抱えている悩みなどは、バカらしいほど、小さいものだと感じるようになる。人の苦しみは、自分に近い人と比較して、優越感を持ったり、嫉妬や卑屈に苦しんでいるにすぎないのだ。狭い世界における自他の比較ではなく、大乗の発願の詞章を唱える大きな心を持てば、それは和らいで消えていく。

3.苦の詞章  自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする。

 自己の苦しみを喜びとすることは、前回、前々回にも繰り返し書いた。自分の失敗・欠点も、その活用の仕方によっては、喜びとできる逆転の発想を思い出してほしい。その発想を自分のケースに当てはめながら、この詞章を唱えるのも一つの方法だ。また、先に書いたように、人に傷付けられたときも、自分が他人を同じように傷付けたことを思い出し、そのカルマが落ちたと考えて、それを喜びとしながら、この詞章を唱えることもできる。

 この詞章は苦しみに対する嫌悪からわたしたちを解放してくれる。何かを嫌がる心の働きが、実は苦しみをつくり、増大させている。つまり、苦しみそのものには実体がないというのが真理の法則である。苦しみから逃げるのではなく、苦しみを喜びと考え、他の苦しみを自己の苦しみとしたときこそ、逆に真に苦しみから解放されやすくなる。これはわたしの体験上もそうである。肉体の痛みも心の痛みも同じである。痛みは嫌悪が原因なのだ。

 詞章を漠然と修習するのではなく、日常の苦しみの滅尽に役立てよう