マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

第3回 自と他の比較が苦しみの因

 人間は、自分と近い人々との相対的比較によって、幸福・不幸を感じる習慣のようなものがある。周りの人より優れていれば幸福を、劣っていれば不幸を感じる。この悪しき心の習慣を和らげることが心の安定につながる。

 まず、自分と他人の比較をする際、極めて狭い世界の中における比較をしていることに気付かねばならない。この宇宙には、下は無数の地獄の住人、上は諸々の真理勝者がいらっしゃり、自分と他者を比較するのは全く意味がない。地獄の住人と比較すれば、自分の方が恵まれているのは明らかで、真理勝者と比べれば劣っているのは明らかだ。

 よく、自分が不幸なときでも、より大きな不幸に苦しむ他者のことを思いやれば、苦しみが消えていくという体験や話を聞くだろう。それは、日ごろ近い人との相対的比較に終始している我々の心が広がるからだと思う。常に大乗の発願で、輪廻の大海で浮沈する生き物たちへの慈悲の心を培っている者は、小さな世界での自他の比較にはまりにくいだろう。ケツン・サンポ・リンポチェは、人間に生まれ変わり、修行できることの貴重さと、三悪趣の苦しみを理解すれば、我々修行者は自分が不幸なんだなどとは思わなくなると説いている。日ごろ、卑屈で悩んでいるサマナの方々、それをほんの少しの間止めて欲六界全体を思いやろう。自分のちっぽけな悩みは消えていくに違いない。

 第二に言うことができるのは、自分と他人を比較して、自分が他人に優れている、ないし劣っていると言うことのできるような、絶対的基準など存在しないのである。

 尊師は、現象に善悪はないとおっしゃっている。ある人が、今現在の時点で、修行上、その人の周りの法友より優れていたとしても、それは絶対的な優位を意味してはいない。それに慢を持つなら、その優位性は落下の因となる。

 一方、逆にあなた方が周りの法友より、劣っていたとしても、それは、絶対的な劣位を意味しない。いろいろ、欠点の多い修行者としても、他にも多くの人が、似た欠点を持っていることを考えるならば、あなたは、あなたの欠点を乗り越えることで、将来多くの似た人々を助けることができる。

 わたし自身の体験として、出家して間もないころ、自分は他の高弟に比べて、法則に対する信が弱いと感じた。なぜカルマの法則、輪廻転生があり、修行せねばならないのだろうか? わたしの周りの高弟の方々は、その点については、何も考えずに、直観的に受け入れることができた人が多く、わたし自身はそれができなかったのである。

 この直観的な法則への信の欠如は、それを補うために、教学と思索を行なわざるを得なかった。しかしそれは、そのために、多くの同じような疑念を持つ法友を助けるために、大変役立つことになった。サマナ生活の初期の揺れ・疑念がかえって、その後の自分の進歩に役立ったのである。他の高弟の方々に対するコンプレックスに悩みつつ、この苦しみを乗り越えれば、同じような悩みを持つ人々を助けることができると思い、自分を励ましていた。尊師も「失敗の多い者ほど、他人に優しくなれる」とおっしゃっている。自分も、疑念を持っている人には、優しい面があると思う。

 このように、物事に絶対的な善悪はない。それは、それを受け止める人が、心が成熟する方向に活用するか否かで善悪が決まるのだ。修行上のことでさえ、そうであるから、煩悩的な喜び、財産・異性・才能・名声・地位といったものにおける優劣など言うまでもない。それらにとらわれれば、悪業の因にさえなる。

 こうして、第一に、狭い世界の相対的比較をやめて、広い心を持ち、第二に、現象に善悪はないんだということを理解し、プライドと卑屈の双方を排して、今の努力を積み重ねるべきだ。

 また、日ごろの実践としては、他への称賛の実践が有効である。尊師によると、プライド・嫉妬・闘争心・卑屈といった、自と他の比較に関する煩悩は、自分と他人を区別し、自分だけを大切にする心の働き(自我執着、自己偏愛)から来ている。よって、常に、他の幸福・長所を称賛し、喜ぶ修習を繰り返していれば、その心を和らげることができる。これは、なかなか難しいと思う人がいるかもしれないが、最初は心がついていかなくてもいいから、まず言葉で称賛する訓練を始めるといい。そのうち、心がついてくることになる。
 優れた他人とは、自分の見本となり、刺激となる助力者であって、自分にとって大いにプラスなのである。嫉妬や卑屈によって、嫌悪の対象とするのは、倒錯したものの見方である。一人で修行するより出家教団の中の方が修行しやすいのも、修行者がすべていろいろな形で助け合っている事実を示している。

 さて、このような考え方に変えていこうとする際、気を付けなければならないのは、すぐに結果を求めないことである。今までの間違った記憶修習を直すためには、やはりそれなりの時間が必要だ。尊師が説かれているように、重要な課題については、1日10回でも20回でも、思い出して修習できるように工夫するといいと思う。尊師は、十戒の実践のため、自分の手にペンで十戒を書き込み、常に意識しようと努めたという。同じように我々も、重要な課題については、常日ごろ、忘れないように、いろいろな工夫をしてみるべきだろう。怠けていても、煩悩の苦しみは増大するばかりである。コツコツ努力して、取り除いていくほかにない。だから、何かを今日から始めよう。