マイトレーヤ元正大師の特別寄稿
第2回 とらわれたら得られない
与えれば与えられる
いろいろなサマナと面談する機会を得たが、プライドや卑屈といった自己の教団における存在意義に対するとらわれによって苦しんでいる人が多かった。人は皆自分が価値ある存在でいたいと思う。しかし、それにとらわれるがゆえに、逆に自分の価値を低め、幸福になれない人が少なくない。
まず、ワークにおける能力、例えば技能・知識といったものにとらわれている人がいる。それによって、他に自分の技能・知識といったものを分け与えることができない。「これは自分のワークだ」と考え、それを手放さず、ワークを替えようとすると怒るといったケースまで見られる。
才能・学問というのは、マニプーラ・チァクラの引っ掛かりである。尊師の説法によると、それに没入している人は、周りから見ると自分の世界に没入しており、少し変人に見える。このマニプーラ・チァクラを超えていかないと、個の才能から、利他の大乗のステージには入っていけない。
つまり、ちっぽけな才能にとらわれるがゆえに、よくてスペシャリスト止まりなのである。スペシャリストをまとめて、大きな救済をするリーダーにはなることができない。小さな才能にとらわれると、大きな才能=救済者としての資質が開かないのだ。
わたし自身、オウムに入ったときは、英語のスペシャリストであると自分で思っており、ニューヨーク支部を開いて、そこで布教するために出家したと考えていた(事実、尊師がそのようにしてわたしを出家に導いた)。
しかしその後、2年もたたないうちに、ニューヨーク支部は当初の予定が変更され、力を入れないことになり、自分は英語関係のワークを手放さざるを得なくなった。尊師が会議でそう決定したのである。その直前までに、自分は、ニューヨーク支部での布教のため、何冊もの本を英訳し、当地の宗教法人の申請まで行なっていたので、尊師の決定は衝撃的であった。
しかし、わたしはこのころまでには、尊師との会話や教義によって、自分の技能や得意とすることにとらわれないことが成就のために必要だということも理解していた。そのため、その決定がなされる前に、その方向性を尊師がほのめかされ始めた段階で、自分の方からとらわれを捨断し始めた。今まで長らく執着していたものを捨断するのだから、大げさに言うと、あたかも自分が崩壊していくようなショックもあった。しかし、後から見ると、この時期、英語・国際関係から離れた結果、自分のワークは、極めて多分野に広がることになった。マハームドラーの成就も早まったし、ワークもマスコミ対応(外報)・出版・メディア・CSI・ロシアをはじめとして、多岐にわたることになった。
集中のあり方も、一つのことにしか集中できなかったのが、多数のワークを同時に管理することができるようになった(というように尊師から言われた)。何かを失うことは、他のものが入ってくることでもある。捨てる(放棄する)者は与えられるというのは布施やカルマの法則と同じだ。逆にとらわれるものは、得られない。
称賛・名誉にとらわれているサマナも多い。これはアナハタ・チァクラに関係する。人に認められたいという欲求はだれにでもある。ただ称賛にあまりにとらわれると、これもまた、称賛を得られない結果となる。
それにはいろいろなパターンがあるが、一つ目は、称賛を得、プライドを形成し、それにとらわれる場合である。この場合、プライドによって、批判されるとものすごく怒る。だから、当然尊敬されない。本人は自分の尊厳を守るために、批判に必死に反論するが、周りから見ていると、それがかえって尊敬できない理由になってしまう。逆に批判を受け入れる度量のある人はあまり多くないから、そうできる人の方が尊敬されるのではないかと思う。
また、称賛にとらわれているがゆえに、風見鶏になる人も尊敬されない。よく見られたいがために、会う人に合わせて、意見をくるくる変えれば、当然称賛されない人となる。批判を受け入れる柔軟さを持つ必要はあるが、よく見られたいがために、言うことがくるくる変わり信念が感じられない風見鶏が尊敬されないのは当然だ。
また、称賛にとらわれ、他人に自分が否定されることを恐れるあまり、縮こまって自分の意見を言わない人も、同様に尊敬されることは難しい。否定されたくないがゆえに、意見を言わず、かえって否定的な評価を得てしまう。
おそらく、過去の失敗(恥をかく、嘲笑されたなど)が原因して、自己表現ができなかったり、緊張してしまったりしているのだろう。しかし、失敗は成功のもと。失敗しても死ぬわけではない。失敗せねば成功・成長もない。どれだけ積極的にトライし、経験を増やせるかが、その人の成長を決める。経験の中には失敗も含まれる。成功を求め、失敗を恐れ、事なかれ主義・安全主義・消極的になっていたら、ついぞ、偉大な魂にはなれない。尊師の説法にもこのような一節がある。
この肯定的思考というものは、この現代教育を受けた者にとってあまりなじみがないかもしれないが、これはまさにボーディサットヴァの智慧の経験の構成なのである。
つまり、もしわたしたちが過去世において経験の失敗を繰り返しているとするならば、それは否定的になり、そして結果を出さない方が自分自身の名誉を傷つけないという判断に基づき、それによって否定的な返答をするようになる。しかし、ホーディサットヴァとは、もともと智慧の増大、四つの偉大なる覚醒を土台とする智慧の土台を根本としているから、決して否定はしないのである。
(94/8/10 第十サティアン FS3−P212)
加えて、称賛にとらわれると、他人を称賛できなくなる。それに併せ、嫉妬が強くなる。つまり称賛の貪り、独占である。そうすると当然、称賛されず、嫉妬されることにしかならない。与えないものは与えられないからだ。このように、正しい批判についてはそれを受け入れ、他に称賛を与える者が、実は称賛されることになると思う。逆に称賛・名誉にとらわれる者は、逆に偉大にはなれないのである。
名声・プライドなどは、アナハタ・チァクラに関係するが、ヴィシュッダ・チァクラの地位・権力についてもとらわれれば、失うことになる。
権力欲にとらわれている人は、往々にして自分にいろいろな決定権を集中させ、他に分け与えない。自分の処理できる以上の事案について権限を持とうとして、結局、仕事が滞る。下の人は、その人の決定を待っていなければならない。場合によっては、人を待たせることでプライドを満たす人もいる。そのような組織は効率が落ち、結局大きくならない。理想的な救済組織とは、互いが権限を主張するのではなく、互いが奉仕し、助け合う組織である。互いが互いの救済活動のために全力で奉仕する。
また、権限は分散しないと部下が育たない。一人のリーダーだけが有能な組織と、権限が分散されて、多くのサブリーダーが育っていく組織とでは強さがまるで違う。一人の力は所詮【しょせん】限られており、衆の力には勝てない。
尊師は独裁的権力を握っていたとマスコミの評はあるが、実際は、多くの高弟に権限を与えられていた。小さな組織なら独裁でも動くが、大きくなると一人では見きれない。そして、独裁することで、部下が腐ってしまうと、自分が見ることのできないパートの情報が入らなくなり、そこが腐ってしまう。こう尊師から聞いたことがある。
権力欲が強く、強権的になり、何でも自分の考え方で押し切ろうとするワンマン型の場合は、そのリーダーに取り入ろうとするイエスマンのみが集まり、有能ではあるが自分の考えを持っている人は離れていく(排除されることもある)。イエスマンは、正しい情報は上げず、リーダーの気に入る話ばかりするので、リーダーは正しい判断ができず、現実に合わない意思決定をすることになる。当然組織は弱く小さくなり、ついには崩壊する。
こうして、権力にとらわれる者は権力を失っていく。やはりとらわれると得られないということになる。
権力を集中させるより、権力を分け与え、リーダーを育てる力を持つ者こそ、真の王となるのだろう(ヴィシュッダを超えて、統治のアージュニァー・チァクラへ)。
とらわれると得られないということは万事に当てはまる。物質にもとらわれて貪ると、そのうち貧しくなる(餓鬼のカルマ)。異性に愛着しすぎると、相手を自分に縛り付け過ぎて、相手はそれが嫌になって離れてしまうことがよくある。一方、布施すれば豊かになり、異性の自由を認めてやると、関係は長続きする。
自分のための何かにとらわれず、利他の実践をする人こそ、実は最も多く与えられる人なのだと思う。
「人間は自己を愛するがために苦しむのである」という尊師の言葉がある。「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」も同じだ。
プライド・卑屈・嫉妬etc. といった煩悩は、結局すべて自分のことで悩んでいる状態にすぎない。本人は幸福になりたくて、そうし続けている。しかし、本当に幸福になれるのは、自分のことで悩まず、自分のことは忘れて、利他の実践をする人なのだろう。