マイトレーヤ元正大師の特別寄稿

サマナの皆さんへ

 最近のサマナについて問題だと思うことを率直に書き出してみました。ちょっと辛口ですが、皆さんの参考になれば幸いです。

1.全体として、行法・教学の量が足りない。ワークに偏っている。しかも、ワークも真のバクティ・ヨーガとは言えない。具体的には以下のことが少なからぬサマナについて当てはまる。

2.行法に関して正しいやり方を知らなかったり、土台・基礎を固める前に高度な修行をさせられたりして、修行嫌いになっている。正しい指導と、土台固めの修行プログラムが必要だ。プラーナーヤーマと瞑想という従来のプログラムで、眠ってばかりいる人は、立位礼拝・経行・アーサナ・教学といった集中しやすい修行で土台を固めるのもいいのでは。

 アーサナもバカにできない効果がある。人の姿勢は煩悩と関係しているから、アーサナで体のゆがみをなくすと、卑屈・プライドが和らぎ、心が楽になる。座法も組みやすくなり、高度な修行の準備になる。経行はエネルギーを昇華させ、性欲等の捨断にもなる。修行は本来我々の味方。煩悩が敵だ。

3.心のけがれが多く、精神集中が弱いので、真の意味のバクティ・ヨーガ、すなわち、エゴを滅し、三宝への奉仕に集中継続することができていない。バクティ・ヨーガが、形を変えた行(現実世界での瞑想)なのだということがわかっていない。代わりに、自分のためのワーク、プライドを満たすためのワーク、ワークの好き嫌いなどが横行している。このように、ワークの目的を取り違えると、煩悩が増え、苦しみは増える。

4.無智がはびこっている。修行しなければサマナでさえ三悪趣に落ちる。教学不足で、その認識が甘い。必死になれば、人間は皆誰でも、遅かれ早かれ、何でもできるようになる。ところが無智によって、怠惰になっており、それに加えて、上記の正しくない行法・無理な修行のために、「わたしは修行ができない」、「わたしはカルマが悪い」という、否定的思考、卑屈に陥っているサマナがいる。より正確には、「できない」ということを口実に、修行しない怠惰な自分を正当化している。これは動物以下への転生の恐れさえある。自分自身を励まして、方向転換すべきだ。

5.場合によっては、尊師がいらっしゃらないということも口実に使われている。95年以降も、修行をコツコツやってきた者は結果が出ている。いらっしゃる、いらっしゃらないが原因ではなく、教えを実践するか、しないかが問題なのである。いらっしゃらないときも修行できるようにならないのに、輪廻からの脱却ができるだろうか。皆で励まし合って、修行に向かうべきだ。

6.「女性サマナはカルマが悪い」というのも口実になっている。しかし、「女性も男性的捨断ができる、つまり本当の意味での男っぽい女性になることができたならば、それは真の修行者と言うことができる」と尊師はおっしゃっている。昔の女性正悟師・正大師は、行法に熱心に取り組み、パワーと神秘力があった。クンダリニーに関係する、シャクティ女神は、力(パワー)を象徴している(一方、男性は、シヴァ大神(智慧))。女性はカルマが悪いのではなく、女性の特長を生かすべきだ。行法をガンガンやるパワフルな女性修行者が出てくることを期待する。

7.教学については、量だけでなく、自分の日々の心の苦しみ=煩悩に適用されていない。例えば、カルマの法則は知っていても、他人が自己になすことが、自己が過去、他人になしたことだという記憶修習がないため、邪悪心を生起させている。上長・法友との人間関係を自己のカルマのつくる現象(幻影)としてではなく、真に受けて苦しんでいる。教学を自分の煩悩に当てはめ、考える実践が必要だ。ただ、頭でわかっても、心がついていかない人も多い。それは教学とともに行法をやって、ナーディーを浄化しなくてはならない。ナーディーが心の働きをつくるから、それをコントロールする行法をやるといい。

8.内的体験(心の成熟と霊的進化)が遅れているため、意識が内側でなく、外側に向かっている。そのため、本質的でないことにとらわれている。権力、ステージ(タイトル)の違い、称賛(他人による自己の評価)、自己の教団における存在価値、他人の言動への不満etc. これは皆、内側に幸福がないことが一因となっている。新たなステージ昇格制度を導入しようと思ったが、サマナが内側の本質に向かい始めた後にそうしたいと思う。さもなくば、嫉妬・疑念・怠惰などで、その本来の目的が果たせないかもしれないから。
◎サマナ間の和合

1.敵は煩悩のみ

 基本的認識として、我々の唯一の敵は、煩悩=マーラである。サマナは、和合・団結し、教団からマーラを追い出すべきである。マーラは、法友と法友を仲たがいさせ、真理の教団を危うくする。敵は、法友では当然ないし、同様に凡夫でもなく、マーラのみである


2.称賛と批判について

 尊師の説法にあるとおり、グルでさえ、弟子を称賛した後、マハームドラーをかけていく。我々弟子が法友の良いところを正しく称賛することなく、批判のみすれば、人間関係がうまくいくわけはない。

 自分が正しいと思い批判して、他人の正しいところを称賛できない人の場合は、結局、プライド・闘争心の満足になっている。ステージの上の者が、下の者をしかるときも、下の者が上に提言する時も、このことは当てはまる。なお、批判がすべて悪いかどうかは注意を要する。悪口・非難は悪い。忠告は悪くない。しかし、称賛せず、忠告ばかりしていれば、忠告を受け入れてくれるかはわからない。

3.バクティ・ヨーガの精神

 グルの具体的指示がない今、皆がグルの意思=救済のために奉仕する心構えを持つべし。各サマナ・部署は、他のサマナ・部署の救済活動のためにも奉仕すべきで、自分や自分の部署の目的の達成のみにとらわれてはならない。各部署はもっと協力し合うべきだ。

4.メールの危険性

 事務的報告・やり取りや、相手を称賛・感謝する内容の場合は問題ないが、交渉・議論・心情交流の必要なやり取りは、直接会ったり、電話で話した方が、誤解もなく、迅速に処理でき、かつ他人に配慮したやり取りができる。メールを使うと、誤解・遅れが生じ、相手を非難する内容の場合は、人間関係を悪くする危険がある。

5.教団内の和合と教団を取り巻く社会の関係

 教団で個々が邪悪心・悪口のカルマを積めば、社会が教団に対し、邪悪心・悪口のカルマを積む(落とす)のは避けられない。また、サマナ内で、教団への愛が冷え、「教団がつぶれてしまえばいい」との思いが強まれば、そうなってしまう。逆に教団に聖無頓着があれば、社会も教団に寛容となる。


◎プライド・卑屈の症候群

1.多くのサマナが自と他の比較をし過ぎて、卑屈・闘争心・嫉妬心・慢に苦しんでいる。自と他の区別は根本煩悩で、これを乗り越えると、大変楽になる。

 まず、他人の成功は、それを称賛し、見習えば、必ず未来、自分の成功につながる。つまり他人の成功=自分の成功である。善き手本があることを喜び、嫉妬を捨断すべきである。

2.他人の悪業は、自分も過去になした悪業ないし、未来になす恐れのある悪業だ。よって反面教師として、自戒に用い、決して軽蔑すべきではない。

 今、自分が他人の悪業を見ているということは、自分も過去に同じ悪業を他人に見せたことがあるというのがカルマの法則であるから、他人の悪業=自分の悪業(過去や将来発生する恐れのある悪業)と考えるべきだ。これはカルマ・ヨーガの考え方だ。四無量心では、他人の悪業を哀れみ、真理の法則で取り除こうとするが、それは、それが過去に自分もなした悪業であるとの認識が前提にあると強くなる。

3.自分の長所・成功も自分だけのもの、自分だけの力によるものではない。グルヨーガ・マイトレーヤ・イニシエーションの「賛嘆」においては、自分の功徳に感謝しつつ、それがシヴァ大神・グル・すべての大師方のおかげであることを感謝する。すべての徳・長所・成功は、多くのグル方・法友に「与えられたもの」である。

 また、生きていなければ修行できないが、生きることさえ、無数の人々の協力(食として殺される生き物までも含む)が必要だ。我々は生きているのではなく、「生かされている」のであり、成功するのではなく、「成功が与えられた」のにすぎない。よって成功した人は、他人に感謝し、また、成功を他人に分け与えることが、恩返しとして当然のこととなる。こうしない人は嫉妬される。

 また、こうすれば、「救済してやっているんだ」という慈悲を装った高慢な心は生じない。自分の成功も、多くの他人の力によるもの、すなわち、自分の成功=他人の成功である。ここでもまた、自他の区別はない。我々は、相互に依存し合って存在しており、自分と他人はつながっている。

4.自分の欠点・失敗も、自分だけのものではない。多くの他人が同じ間違いをなしている。皆が似た失敗をするような世界の中、社会の中、人の集まりの中にいるのだ。よって、自分がそれを乗り越えれば、同じ問題を持つ、多くの他人を救うことができる。もともと何の問題もない人は問題のある人を救えない。こうして、欠点・失敗の多いことは、将来の救済者としての力につながる。

5.尊師がおっしゃっているように、そもそも現象に善悪はなく、心の現象についても同様だ。それを自分の心の成熟につなげられるように、前向きにとらえるか、逆にとらえて否定的になるかで、善悪が決まってくる。よって、今現在の自分の欠点や低いステージも、絶対的な悪ではない。自分がそれを乗り越えれば、欠点の多い、ステージの低い人を救済できる大きな善になる。

 自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする詞章の意味も、一つはここにあるのではないかと思う。

 言い換えれば、人に絶対的短所や長所があるのではなく、短所の裏に長所があると言うことができる。つまり人には個性があるだけだ。今、サマナ・サマナ長・師補・師・正悟師・正大師であるのも、一つの個性である。前向きになれば、低いステージでも将来の救済の力になり、後ろ向きになれば(例えば、慢によって努力しないと)、高いステージでも落下に至る罠にしかならない。

 尊師は、目が見えないという欠点を、人生・肉体の無常を知る力、解脱欲求につなげた。「禍【わざわい】を転じて福となす」、「ピンチの裏にチャンスあり」、「苦楽表裏」、「自己の苦しみを喜びとし」……、これらは全く同じ教えである。いわゆる逆転の発想である。それこそ不動の心への道だ。

 日本の戦後最大の実業家松下幸之助は、体が悪いゆえに、ワンマンにならず、部下に頼むことを学び、無理をせず長生きをし、学校に行けなかったので、プライドを持たず、誰からも素直に学べ、丁稚奉公に行って商人のあり方を学べたと語っている。これも、自己の苦しみを喜びとした好例である。


6.自分の過去の失敗をいつまでも後悔し、卑屈になるのは間違いである。失敗は反省すれば成功につながる。失敗は成功のもと、短所は長所のもとと考えて、前向きに生きるべきである。それが他人を救う力にもなる。「失敗の多い人ほど他人に優しくなれる」と尊師はおっしゃったことがある。失敗は貴重な財産だ。意図的に失敗するのは意味がなく無智であるが、失敗を恐れて、消極的になったり、過去の失敗に卑屈になってはいけない。常に前向きに、肯定的に生きるべきだ。

7.さて、プライドと卑屈にとらわれている人は、修行するにも、それによって行なうから波が激しい。調子良く修行できるときはプライドを満足できるが、調子の悪いときは、プライドが満足されないため、少しでも修行しようとはしない。全く放り出してしまう。コツコツ修行することが大切なのに。

 また、カルマというのは無常であるから、「わたしはできない」「わたしのカルマは悪い」と考えるのは間違いである。“わたし”はカルマの産物であるから、永久にできないわたし、悪いカルマのままのわたしなど存在しない。カルマが無常な以上、わたしは無常であり、努力すればわたしは変わるのである。真理の法則に基づき、「わたしはできる」、「努力でカルマは変わる」、「修行するぞ」、と決意すべきである。

8.「修行できない」、「わたしはカルマが悪い」と、否定的・卑屈になっている人については、往々にして、その裏に怠惰さがある。つまり、意志の力が弱っている。それに対しては、今確実にできる、無理のない修行を今日から始めるべきである。まず、比較的楽にできること、確実にできることを行ない、それを毎日コツコツ続けていき、少しずつ増やしていくべきである。カルマは無常だが、不連続的なものではなく、少しずつ変わるものだと思う。コツコツ修行していく意味がここにある。(ただし、ポテンシャルがアビリティになった段階で、外に現われる現象としては、例えばクンバカの長さ、蓮華座の時間などが、ある時、飛躍的に伸びるケースがある。)

9.怠惰さの裏には、無智がある。そういう人は、修行しなければ、輪廻に縛り付けられ、三悪趣に落ちかねないので、今生の修行のチャンスがいかに貴重なものであるかを、教学によって再認識するのがいいかもしれない。怠惰でいれば、いつまでも自己の苦しみ、空しさは消えず、悪業を長引かせるため、苦しみは増大する。修行にコツコツ前向きに取り組んでいくほかに道はない。不退転の決意で、真理の道を歩もう。