タターガタ・アビダンマ 第一誦品
2−1 問題D

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

◎絶対(1)
 真我の特性の絶対(1)とは何かというと、これは、非形状界、形状界、そして愛欲界の三つの世界に対して、自在に(2)をつくり、現われることもでき、あるいは、そこから自在にまた元の世界へ帰ることができたという意味において(1)だったのである。
 当然、この(1)は、死の(1)を意味し、また生の(1)を意味した。これはどういうことかというと、例えば愛欲界に(2)を創造し、その(2)が必要がなくなると、自分の意志によってその(2)を捨て、そしてまた元の完全煩悩破壊界へ帰ることができるという意味において(1)だったのである。


◎絶対(3)
 そして、第二番目の絶対(3)だが、これは、いっさいの(4)の制約を受けないということにおいて(3)だったのである。
 この愛欲の世界、あるいは形状の世界は(4)の法則から脱却することはできない。この(4)は、わたしたちをがんじがらめに縛り、その(4)の力によってわたしたちは(3)を奪われているのである。例えば、わたしたちが好もうと好むまいと、病の制約を受けることは事実だし、老いの制約を受けることは事実だし、あるいは過去の(5)から来る苦しみ、悲しみ、哀愁、愁い等の(5)をさせられることも事実である。…(中略)…
 つまりこのように、(6)からわたしたちは自由ではないのである。そしてこれは不幸なのである。
 ところが、(7)の特性は、いっさいの(6)の影響を受けないのである。確かに、瞬間瞬間(5)はしているのだが、この(5)が根づかない。根づかないことによって、一つ一つの行為や言葉や心の働きだけが存在し、過去の(5)からいろいろな(8)が動くということはないのである。つまり、(7)の特性の(3)とは不幸でないという意味において(3)なのである。


◎絶対(9)
 では、絶対(9)とは何であろうか。(9)とは何かというと、もともとわたしたちの真我は、(10)のエネルギーというものを内在しているのである。そして、この(10)のエネルギーを漏らすことによって(11)をかなえていく。つまり、(11)がかなうということは(10)のエネルギーが減っていくということである。そして、(10)のエネルギーが減る代わりに、苦しみのエネルギーが増大してくる。これが、わたしたち人間なのである。


◎(12)→経験の構成
 つまり、まず第一に、(12)ありて経験の構成がある。この(12)ありて経験の構成があるとは何かというと、内側の神秘的なもの、つまり絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜ではないものに対して向かうがゆえに、(13)と干渉する。そして、それは真我が独存位になる以前の経験の構成というものを生起させるわけである。


◎(14)
 そして、この経験の構成の生起が動きをかもし出し、そして(14)作用が生じてくる。この(14)作用とは、五つのとらわれの集積の項でも述べたとおり、例えば美しいと醜い、あるいは強い弱い、良い悪い等の(15)である。これは、すべて経験によって裏づけされているのである。


◎(16)-形状-容姿
 この識別作用が生じるがゆえに、よりいっそう具体的な経験、具体的な欲求を充足する方向に真我は動き出す。それによって、(16)-形状-容姿をつくり出すのである。しかし、このときの形状-容姿は、あくまでも(17)の形状-容姿であり、粗雑な肉体を有しているわけではない。しかしこの形状-容姿には、(18)、この肉体で感じる(18)よりずっと強い(18)が内在している。それと意識が同時に存在しているわけだから、わたしたちがこの粗雑な世界で経験している経験と同じレベル、あるいはそれ以上の経験をしているといってもよい。


◎(19)→感覚
 この六つの感覚の要素が対象と(19)するようになる。つまり、このとき他の真我も同じように落下のプロセスをたどっているわけである。それによって、感覚が生起する。


◎(20)
 感覚が生起することによって、(20)が生じる。つまり、その対象を求めたいという心が生じるのである。
 なぜ初めから求めたいという心が生じるのか。これはもうすでに、十二の条件生起の段階の説明を理解すればわかるとおり、その前の段階で経験の構成、それから識別という作用をわたしたちは内在しているわけだから、その識別の中でよいと思うもの、美しいと思うもの、あるいは感覚的に素晴らしいと思うものに対して(20)が生じるのである。


◎(21)
 そして、いよいよ(22)へと落ちていくことになる。つまり、より(23)なものを求める状態が形成されてくる。そして、このとき対象に対してとらわれているから、もうすでにわたしたちは自由ではなくなっているのである。これが(21)なのである。


◎(24)
 では、この生存、出産、そして現実の生活での生活、これに対して(25)の教えではどのように考えているのだろうか。この生存は、そして出生は、わたしたちにとって(24)であると考えるのである。
 では、なぜ(24)なのか。それは、例えば形状-容姿と心の要素、つまり上位形状界で生活していたころに比べて自由が存在しないと。例えば歓喜が存在しないと、幸福が存在しないと。そういうことをしっかりと知っている魂は、この世が(24)であると認識するのである。