タターガタ・アビダンマ 第一誦品
1−3 問題D

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

◎聖(1)
 この聖(1)は、キリスト教でいう愛と全く同じ意味合いである。つまり、すべての魂の(2)を願う心。例えば、あなた方の隣人、あなた方の知人、あなた方の友人、あなた方の親族等が、一人一人が本当に(3)を知り、そして(3)を実践することにより、心が浄化され、言葉が浄化され、行為が浄化され、高い世界へ至ってほしいと願う心、これが聖(1)なのである。
 ここで、(4)との区別をしなければならない。(4)とは(5)である。つまり、相手を好きになりたい。あるいは、その相手が物質的に豊かになってほしい。あるいは、好きな相手が出世してほしい等である。しかし、これらはすべて(6)を求める心が対象となっている。よって、(1)と(4)とは違うのである。これは、詳しく『キリスト宣言』という出版物にて説きたいと考えている。


◎聖(7)
 第二番目の偉大な心の実践、これは聖(7)である。聖(7)というのは、(8)、(8)しみという言葉で表現される。この(8)しみという言葉でなぜ表現されるのかというと、(7)の心と、そして(8)しみの心とは大変似ているからである。しかし、大きな違いが存在している。聖(7)は、(9)の不幸、あるいは(9)の苦しみについて(8)しむのではない。これは、すべての魂の苦しみに対して(8)しむ偉大な心なのである。


◎聖(10)
 第三番目は、聖(10)の偉大な心である。この偉大な心は、その心を実践する魂を偉大な人物へと変えてくれる。もちろん、この上位形状界に入るような魂に成長していくわけだから、当然偉大な心を有しているといってよいのである。この偉大な心とは、わたしたちがわたしたちの(11)を否定せず、そしてその(11)を心から(10)する心であり、それにより、(11)の持っている要素をわたしたちも(12)できるようになってくるわけである。…(中略)…
 このような形で、(10)というものは、わたしたちの心を、知能を、そして(13)を増大させるのである。
 逆に、(14)というのは、相手のいい要素をねたみ、そねむがゆえに、自分自身もその(15)ができなくなってくる。そうなると、このそねみ、ねたみは、対象に対する(16)の心を生起させるだけではなく、自分自身の知能や(13)の阻害にもつながるわけである。よって、この聖(10)の心の実践は大変(17)ということになる。


◎(18)
 そして第四番目、これは(18)の実践である。(18)とは、いかなる(19)の解放に対しても、それに対して頓着しない実践ということになる。
 (19)の解放に対して頓着しないとはどういうことであろうか。
 わたしたちの構成要素は五つである。これを「(20)」といっている。この(20)は、まず外側から順に、形状-容姿、感覚、(21)、経験の構成、識別である。そして、これらはすべて、過去および過去世の(19)の蓄積なのである。…(中略)…
 この(19)に対して全く頓着しないということは、どういう(22)をもたらすのだろうか。
 例えば、わたしたちは(23)からそこから逃れたいと思い、逃れたいがために新しい(24)を積む。これを繰り返しているわけである。
 しかしもし、ここに真理の実践者がいて、その真理の実践者が、(24)の(22)として(23)ことが今生じていたとしても、それに対してとらわれず、ひたすら行為において(25)をなし、言葉において(25)をなし、心において(25)をなしていたならばどうだろうか。(24)は必ずその終焉を迎え、そして善のみの集積になるわけである。そして、この善のみの集積の完成の段階が、上位形状界最後の六つの天界なのである。