アレフ教学システム 問題D
第10章 13話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 到達真智運命魂と(1)の人の心の働きは、全く別物である。それは、到達真智運命魂の心の実践が、そして心の働きが、四つの偉大なる心の(2)、つまり(3)としての実践にすべてが注がれているからである。従って、同じ(4)世界に存在していても、到達真智運命魂の(5)理由と、そして(1)の人の(5)理由とは、全く別ということになる。


 第一番目の聖慈愛は、その対象を慈しむこと。つまり、その対象が(6)の実践を行ない、そして(7)を脱し、高い世界へ至ろうとするとき、心においてその行為を(8)、そして言葉において、あるいは行動において励まし、そして高い世界へいざなおうとする心の働きを指すのである。


 聖(9)とは何か。これは逆に、この人間世界において、普通の人が(10)にまみれ悪業を積み、そして間違いなく三悪趣の世界へ(11)する、あるいは低い世界を流転し続けなければならないとき、その魂に対して、心において(9)、そして言葉や行動において叱咤し、実際に力ずくで救い上げようとする行動を指す。これが聖(9)なのである。


 では、三番目の聖(12)は何か。これは、自分よりも精神的、あるいは霊的に(13)の高い魂が偉大なる救済活動を行ない、あるいは実際に真理の(14)を行ない、そして、自分より智慧において、徳において優れた点を見せ、有する。
 このようなとき、その対象に対して心から(12)し、そして「自分自身もそのようになりたい」「そのような(14)をしたい」と考える心の働き、これが聖(12)なのである。そして実際に、言葉として行動としてその人の(15)を受け、そのような方向に自分自身を持っていくこと、これが聖(12)の(14)ということになる。


 では、聖無頓着は何か。ボーディサットヴァとはいえども、最終の(16)ではない。つまり、まだ(17)の蓄積が(18)に生じている、あるいは心に若干生じている状態を指す。
 このようなとき、その魂が(19)落としを受ける、つまり(17)を落とされると。このとき、その(19)落としに対して(20)とそれを受け止め乗り越えること、これが聖無頓着なのである。
 そして、逆に(21)的に救済のために(18)をさらし、そして周りから罵倒され、あるいは実際に暴力を受け、それでも(20)と(18)を処す修行、これこそがまさに聖無頓着ということになる。


 そして、これら四つの(22)の働きの実践を行なうとするならば、当然わたしたちの愛著、真理を(23)する、そして(24)という三つは止滅されるがゆえに、決して低い世界へ生まれ変わることは、ボーディサットヴァにはないのである。
 従って、この聖慈愛・聖哀れみ・聖称賛・聖無頓着をしっかりと(25)し、(25)修習し、実践してほしいものである。