アレフ教学システム 問題D
第10章 12話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 まず、ボーディサットヴァの修行の第一には、(1)の実践があります。この(1)の実践とは、自分が到達する(2)地点である神々や、あるいは真理勝者や、あるいはグルの状態へ至るため、それらの魂の本質、つまり真我に対する(3)を行なうことです。
 この(1)の実践は、事実(1)だけ、つまり(1)だけの実践を完成させたとしても、それは(2)地点へと到達することができます。しかし、この「(1)」という言葉の深遠さを一般の魂が悟ることができるかというと、それは不可能に近いのです。


 そしてボーディサットヴァの第二段階は、今なお(4)をなし、それゆえに心の成熟や、あるいは高い世界へ至ることのできない魂に対する哀れみです。
 例えばあなたのお父さんやお母さん、あるいはおじいちゃんやおばあちゃん、あるいは兄弟・友人・知人が、今までなした(4)によって(5)に目覚めることができない。このとき、あなた方は「ああ、わたしの周りの魂は、法則に照らし合わせると、今のままでは地獄・動物あるいは低級霊域へと転生してしまう」、そう考えるはずです。
 あなた方の周りの知人・友人・親族がこれらの法則によって三つの悪趣へと転生する、それを思ったとき、あなた方には大きな大きな(6)が生じるはずです。


 真理を実践する上において、よく、この(7)の誤差について考えないで、苦しむ人たちが存在します。
 従って到達真智運命魂、つまりボーディサットヴァは「(8)」に一切(9)しない、つまりこだわらないのです。なぜならば先程述べた、(10)の投影が現在だからなのです。
 そして、(8)の状況にこだわらず、淡々と三つの実践、聖慈愛・聖哀れみ・聖称賛の実践を行ない続けること、つまり(9)をしないでこの三つの実践を行ない続ける段階が、最終段階である聖無(9)の段階なのです。


 従って、仏典ではよく、身体を(11)する話が出てきます。これらも全く同じ原理です。つまり、(12)なのだからそれを(13)し、その(13)を経験しようじゃないか、ということがこの原理の背景になっています。
 例えば、財産をすべて(11)する話が経典にはよく出てきます。これも全く同じです。つまりわたしたちは、(14)に逝くときに、財産を一切持っていくことができません。
 従って、それを前もって経験し、(15)の訓練、つまり、そういうものがない状態で生きていける状態を形成しようとするのです。


 (16)とは傾向の決定、あるいは、(16)とは(17)の決定ということができます。わたしたちは、この人生を生きる上において、自由に、自分自身の意志によって選択して生きているように考えています。…(中略)…
 そして、(16)の遵守とは、「一体、神々とはどのような状態であるのか。その心の働きはどのような状態であるのか。その(18)はどのような(18)を話すのか。その行動はどのような行動をなすのか」、これらをまずアナライズし、そしてその道を一つ一つ(19)させる作業、これが(16)なのです。


 わたしたちは、善行を積むことにより、(20)の修行を行なうことにより、(21)の粒子をどんどんわたしたちの内側に蓄えます。
 しかし、今までわたしたちが積み続けてきた悪業による闇の粒子は、どのようにして減っていくのでしょうか。これは、わたしたちが実際この世に生きながらにして、闇の粒子が(22)として現われ消えていくのです。
 従って、この闇の粒子の消える過程においては、精神的にじっと耐える訓練が必要となります。これが忍辱の実践なのです。
 このようにして、わたしたちの内側には(21)の粒子、(20)や善の現われの粒子だけになっていくのです。


 これらの実践を行ないながら、第五番目の実践、つまり瞑想の段階へと入っていきます。瞑想の実践は、大きく二つに分けることができます。
 一つは、(23)の瞑想を実践することにより、心を完全な寂静の状態へ持っていくことです。そしてもう一つの実践は、感情の移入なしに対象を正確に見つめる、つまり(24)の実践です。
 わたしたちがこれらの実践を積み重ねていくうちに、わたしたちは偉大なる六つの神通力と、そして大いなる(25)へと到達します。