アレフ教学システム 問題D
第10章 10話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 (1)の極限の実践、これは到達真智運命魂にとっての(2)的な修行の一つである。ここで掲げる経典は、「シヴィ輪廻転生談」、そして「ウサギ輪廻転生談」の二つである。
 もともと(1)の徹底の(3)は肉体を(4)するということである。では、なぜ肉体を(4)するのであろうか。それはこの肉体そのものが自己の本質、つまり(5)ではない、ニルヴァーナではないということを体現するために、肉体を(4)するわけである。
 そして、その前段階として、財施や、あるいは(6)や、あるいは安心施といったような、肉体を(4)するよりは劣るが、(2)的な(1)の実践・(1)の徹底が行なわれるのである。


 この肉体は(7)世の経験の集積、(8)の集積によって形成されている小さな粒子の集合体である。従ってこのようなものに(9)のではなく、瞬間瞬間を(10)で生き、その結果として、瞬間瞬間を(10)で生きることこそ、真理の(11)なのである。そして、そのすべてを捨て去ったのち、本当の真我の(12)、マハー・ボーディ・ニルヴァーナが存在するのである。


 わたしは(13)たちに、「今はじっと耐えなさい」という言葉を発し続けていた。しかし彼らの暴力はやまない。わたしは、住民側に立っている右翼に一通の手紙を出した。
「あなた方が傷つけたいのは、教祖であるわたしであるはずである」と。
「従って、日時を設定しなさい。あなた方にわたしの(14)を布施しましょう」と。
 彼らの行動から見て、わたしは、そのような事態になる可能性は十分高く、またわたしが彼らに(14)を布施することにより、彼らの、わたしの(13)たちに対する暴力行為がやめられると確信したからである。
 このときわたしの心は(15)であった。しかし結局、右翼の人たちは、わたしを殺しはしなかったのである。
 ところでわたしは、このときどのような心の働きでいたかというと、ある意味で大変落ちついた、大変(16)心持ちで彼らに手紙を書いたものである。なぜならば、(13)たちのためにグルが死ぬことができるとするならば、それが、(14)の布施ができるとするならば、(17)だと考えてたからである。


 実はわたしは、約今から十年前ぐらいから、一つのことを自問自答し続けていた。それは、救済のために死ねるか、そして、(18)を済度するために死ねるか、この命をそのとき投げ出せるかという自問自答であった。
 そしてそれは、わたしが完全な(19)へと到達したのちに、はっきりとした形で確立した意識として、いつどこでも(20)して死ぬことができる心の状態が完成している、という自覚を達成することができたのである。そしてそれらは、先程も述べた波野村の騒動や、あるいは今年の、つまり九二年の六月の説法会において証明されたといえる。


 この肉体は(21)なのである。つまり生命は(21)なのである。そしてこの生命の(21)性を、もし最高のものである救済や、あるいは最高のものである(22)の法則、解脱・悟りに対して布施することができるとするならば、それは最高である。


 布施は、その行為を行なうだけではなく、その行為を行なうこと、つまり布施を行なうことに関して、徹底した(23)の(24)をする、つまり、捨て、そしてその捨てるだけではなく、それが例えば今回の場合、祭司、つまり出家修行者に対しての布施として自分の(25)を供養できることに対する(23)、これを(24)することの素晴らしさを説いた経典なのである。