アレフ教学システム 問題D
第10章 9話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
では、(1)型の宗教とは何だろうかと。
それは、その人を(2)的な幸福の境地、自由の境地、歓喜の境地へと導く教えであり、そしてその(1)型は、例えば、いろいろな専門家が統合された形で一台の車を作るように、その教えというものは体系立って存在し、そして、(3)の法が例えば理解できたとしても、そこから(4)地点に至るまでには、相当に多くの教えを学び、理解し実践しなければならないということが言えよう。
そして、その内なる裏付けとして、瞑想修行、その他のイニシエーションや、あるいはコースに出し、しっかりと(5)における裏付けをなさせるべきである。
そして、その人たちが(6)することを喜び、決して(7)とは見ないと。
この訓練をなす者は、導いた人たちの(6)とともに、その人の修行(8)も増大するのである。これは、前回の説法において説いた内容の称賛の部分を見ていただければ、よく理解できるはずである。
(9)においても、財の(9)から、導きの(9)と段階は多様である。この一つ一つは、それぞれ一つ一つに対応し、そしてその対応した一つ一つがいろいろな形に連動し、そして一つの人生を形成する。
よって、例えば、(9)だけの実践をしてる人は、確かに物質的には(10)である。しかし、その人が(11)的(12)を得られるかどうかは別問題である。
例えば、人に(12)を与え続けた人、この人は確かに心は(10)である。しかし、その人が物質的な(10)さを得られるかどうかは別問題である。
(13)の流れを説き明かした人、あるいは(13)の流れに導いた人、この人は、心の(10)さ、および(13)との(14)が強くなる。この人が財を求めるならば財も得られるだろうし、この人が(12)を求めるならば(12)も得られるだろうし、この人がステージを高くしようと思えばそれも当然得られるだろう。
つまり、この(13)施というのは、(9)の中の(15)の段階なのである。
では、皆さん自身は、どのような(16)をしたらいいんだと。
これは、やはり導いた人に対して、いろいろ(17)を受けるだろうから、しっかりと(18)を確定させると。というのは、オウム真理教の教えは、先程も述べた本格的な宗教だから、その教えは、皆さんが学んだとしても、(19)で学びおおせるものであるかどうかは疑問である。
その、(19)で学びおおせせるかどうかであるそれだけの体系を、皆さんがもし十分の一でも記憶するとするならば、それは皆さんの(20)を増大させ、そして皆さんの導いた人たちからの(17)に対して、楽々と、師のように、正悟師のように、正大師のように、説法士のように答えることができるはずである。これによって、より多くの法、より多くの真理を皆さんは得ることができる(21)をつくるわけである。
しかしね、まだ、こういう教学、つまり(22)見解の弟子、(22)見解の帰依信徒だとしてもだよ、(23)の経験があるかないかっていうのは、また大きな違いを生じさせる。もし、(23)の体験があるならば、「その(24)はこう書かれていて、で、わたしはこういう体験をしたのよ」と、より一層、その君たちが導いた人、あなた方が導いた人をね、より強く、高く済度することができるはずである。
よって、(22)の弟子となりなさい。そして、しっかりと瞑想体験を増大させなさい。
そしてね、その他により一層、この六つの(25)のそれぞれの段階において実践を深めていくならば、皆さんの修行というものは、飛躍的に進むこととなるでしょう。