アレフ教学システム 問題D
第10章 6話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 一体(1)、まあ日本では「菩薩」と訳されているわけだけども、(1)とは何であろうかと。
 一言で言うならば「(2)の実践をすること」であると、(2)の実践をしている者であるということができると。
 では、(2)の実践をしている者とは何であろうかと。それは、四つの(3)を実践している者であるということができると。


 では、どのようにしたら、この四つの実践をすることができるのであろうかと。それは、最も大切な者と、最も(4)べき相手とが(5)に見つめられるようになったとき、そのとき菩薩の(6)というものは(7)したということになると。
 では、最も(8)する者とは何であろうかと。まあ、これは仏典などには、例えば父親であるとか、母親であるとか、あるいは妻であるとか、子供であるとかいろいろ言ってるけども、(9)的に最も大切な者、それは(10)であると。
 そして、(10)と同程度に最も(4)べき相手を見ることができるようになったとき、菩薩の(6)というものは、本当に(7)したということができると、ね。


 ここで君たちはこう考えるだろう。
 あ、そうかと。だから、(11)を捨てる修行そのものが菩薩の修行なんだと。
 つまり(11)を捨てるということは、最も大切な自分自身を(12)するための修行なんだと。そして、自分自身を(12)することこそ平等心のスタートなんだということができると。
 そして、この平等心の裏側には、愛、(13)、そしてすべての善行を(14)心も、もう既に含まれているんだなと。つまり、この四つの修行は、四つの無量心の修行は、一個一個が(15)に存在するものではなく、同時に並行して行なわれるものだなということができるだろう。


 では、この四つの無量心の実践が何ゆえに(16)を超越する、ね、まあ、仏典では「(17)」といっていると。(17)というのは出て離れると、ね。何から出て離れるかといったら、それは業、(16)から出て離れるわけだけども、何ゆえにその(16)から出て離れるといえるのだろうかと。
 それは、人間の(16)そのものすべてが、自己の(18)、自己(19)という(20)の働きがあり、その(20)の働きによって(16)を形成しているわけだから、その(16)を超越するためには、自己の(19)をするという気持ちを超越することによって、その(16)から(17)できるんだと。これが、(21)仏教のものの考え方の根本にあるものであると。


 よって、わたしがよく言っているとおり、例えば一パーセントでも、あるいは〇・一パーセントでも、その心の働きの中に(22)の利益というものを考え行動するならば、それは真の意味の(23)道ではないんだということに気付かなければならない。
 ということは、言い方を換えれば、苦しければ苦しいほど、それは、その人の出離という点から考えると(24)的な修行だということがいえる。
 (22)の(25)、その(25)を超越すること、それが(23)の修行であると。