アレフ教学システム 問題D
第10章 5話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
そして、君たちは、ね、まず、(1)の力によってラージャ・ヨーガの成就に向かう。次に、(2)の状態によってクンダリニー・ヨーガの道に向かう。そして、(3)以外必要ないんだという心の状態によって、マハームドラーの成就へと向かう。
そして、完成された平安を、ね、すべての人に(4)と。そして、すべての人に絶対的な自由・幸福を(4)というために、ね、それが原因となって(5)のヨーガに向かう。そして、より多くの魂を、この人間界だけではなくて、例えばアストラルの世界に住んでいる住人たちのね、をも一緒に済度しようという、そのために(6)のヨーガへと向かうと。そして、最後は、(7)の低位に住んでいる無智なる小乗の魂のために、ね、(7)・ヨーガの修行に入っていく。
つまり、すべては(8)を利するための修行である。
真の王の道とは何か、真の仏陀の道とは何か、それを考えた場合、上の者は下の者を慈しみ、ね、そして本当にすべての者が(9)になることを考える。そして、下の者はその道を歩いている者を(10)し、これぞ真の道であると、ね、そして、わたしも(11)けどもこの道を歩こうと考える。これこそが真の大乗の仏陀に至る道である。
そして、今Kはその入り口に入った。なぜならば、いいか、わたしですらまだ「大乗のヨーガ」を完成はしていない。それはなぜかというと、すべての魂がマハー・ニルヴァーナに入るまで、エネルギー、心、そして身体、これを(12)し続ける、これが大乗の仏陀の修行だからである。
そして、大乗のヨーガの(13)、(13)が真実であるならば、当然すべての魂が(14)に入るまで、「大乗のヨーガ」の(15)はあり得ない。その修行を続けるためには、日々(16)な心、そして日々他を利する心、日々すべての魂の苦悩に対して思いやる心、そしてその苦悩の(17)と結果とは何かを絶えず見つめる心、これが大乗だ。
よって、ね、大乗の修行者とは真の(18)を指すと。なぜ、真の(18)か。それは(19)というものを考えてごらん。自己を犠牲にし、ね、果敢に他を済度すると。そのためには、自己の中に(20)の心が必要である。
わたしは大師も含めて、近ごろ(21)でものを見ていると、あるいは、他との関係で(22)を見ている、そういう風潮が強いと思う。しかし、そんなことは一切関係がない。大切なことは、その人の(23)が果たして仏陀に向かってるのか、仏陀に向かってないのか。果たして大乗に向かってるのか、大乗に向かっていないのか。
Kをはじめ、君たちのこれからの(24)は長い。もし、成就して、わたしはもうそのあと(25)だと考える人間がいるんだったら、それはさっさと(25)へ帰れ。そんな者は必要ない。ここに必要な者は、本当に他を利する(23)を持ち、そして(22)の心身をなげうって、すべての魂のために、(22)をね、捧げると。そういう人の集う場である。