アレフ教学システム 問題D
第9章 6話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
この(1)というのはどういうことかというと、「(2)をくっつける」という意味である。(2)をくっつけるとは何かというと、例えば、ここに真っ白い、ねえ、つまり何の経験もない人がいたとしよう。この何も経験のない人が、例えば踊りを練習したと。そして(3)したと。すると、この人はあらゆる踊りについて、ね、曲さえあればその曲に合わせて、踊ることができ、可能であると。これを(1)というと。…(中略)…
つまり(1)とは何かというと、魂本来は、何もそこに(4)もしないし、あるいは(4)しないこともないと、ね。それに、いろいろな経験によって、(5)によって、いろんな形のものがくっつくと。これを(1)というんだと。
ではこの真理の(6)を入れ、修習し、実践するためには、どのような(7)が必要なのだろうかと。それは“(8)”であると言えると。つまり、わたしはこれこれの、ね、智慧を得たいと。わたしはこれこれの心の平安を得たいと。我々はこれこれのエクスタシーを得たいと。我々はこれこれの自由を得たいと。
ここで、具足という言葉、もう一度考えてみなきゃならない。この具足という言葉は、わたしたちを動物界へ導くこともあるし、あるいは、(9)へと導く場合もある。そしてこの具足というのは、わたしたちの(10)、本質でないんだということを理解しなければならない。よって具足なのである。よって、それは具わり、ね、付け足しなのであると。
では、わたしたちの(10)とは何かと。
わたしたちの(10)とは、(11)であり、そして無であり、そして(12)がないと。「(11)であり、無であり、(12)がない」とは一体何を意味してるんだと。つまりわたしたちの(10)というものは、もともとは「(13)」なのであると。いや実際は、(13)を(14)ところにその本質が存在しているんだと。
そしてそれに対して、いろんなね、多くのものを具足し、ある者は地獄へ生まれ、ある者は(9)へ生まれ変わってるんだ、ということを認識してほしいと思います。
この四つの(15)とはどういうことかというと、(15)、つまり意のままにすべてを(16)のものにすると。ね、これが(15)の意味である。意のままに、ね、すべて(16)のものに(17)と。(16)のものにして(17)と。これが(15)の意味であると。…(中略)…
そして例えば極厳修行に入ったら、「わたしはクンダリニー・ヨーガの成就をする。わたしはクンダリニー・ヨーガの成就ができる」と、(18)すると、ね。これは「成就するぞ」じゃなくて、「成就する」なんだね、これは。これが(18)(15)です。
そして、四番目の観慧(15)は、(16)のプログラム上の問題をね、(16)に当てはめ検討し、例えばこの時間に(16)は眠たくなるから、プログラムを変えて、ね、その時間は例えば、竹刀で叩くとかね。あるいは、(16)はこの時間に空腹になるから、食事の時間を、ね、その時間に当てて、一食にし、少なくするとか。そういう(19)をすること、これが観慧の(15)です。
そして、この一番から四番までをしっかりと修習をするならば、必ずやどんな人で
も、(20)の解脱へと至ります。なんか簡単だね、この四つやればいいというのは、どうだ。
ということは、この(21)の実践というのは、別の言い方をすれば七覚支であると、どうだ。あるいは、今度は別の言い方をすれば八正道であると、どうだ?
ということは、(22)というのは、その(23)のコンパクト版であると、どうだ。あるいは八正道というのは、(23)のコンパクト版であると、どうだこれは。あるいは七覚支というのは、(23)のコンパクト版であるという、どうだこれは。あるいは五根や五力というのは、(23)のコンパクト版であると、どうだこれは。
あるいは(24)というのは、(23)のワンパートであると、どうだこれは。しかもそれはあらゆる、その、ねえ、道に通じていると、どうだこれは。四如意足というのは、これは、まあ(23)、あるいは(22)を含めた、ね、ものすべてに共通する、要するにプロセスであると、どうだこれは。
ということはこの(23)というのは、この一つ一つを区切って考えるのではなく、すべてを一つの(25)としてとらえ、そしてそのすべてを理解し切らなければ、使いものにならないと、どうだこれは。ということなんだよ。