アレフ教学システム 問題D
第9章 5話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
わたしたちの意識というものは(1)の形成をなしている。例えば、その人の表面意識が綺麗だったとして、それより少し深い意識、それよりもっと深い意識、そして潜在意識に入り、超潜在意識に入っていく、その各段階において、何が(2)してるかわからないと。
そして、修行は、その各意識の深い部分に、まず潜れるように、つまりそこへ(2)できるようにすることであると。次には、その意識を理解し、その意識を止滅することである。
次はブルーであると。これはブルーも濃紺から、綺麗に光り輝くブルー、いろいろある。このブルー、このブルーという色が、チベット仏教のよくいわれる(3)界へ転生しなさいと、それは修行ができるからであるというゆえんである。このブルーは(3)界を表わし、(4)、そして(4)の極まりである(5)というものが表わされる。
これはまず、(6)の今の経験、あるいはステージ、こういうものを一切(7)べきである。
(7)ということはどういうことかというと、慚愧の念を持って接するべきであると。
では、慚愧とは何かと。これは絶えず、自分の経験していること、自分の修行、あるいは自分のいろんな性格的、実務的、他に対する優秀性というものを(8)に受け止め、そして、それをまだまだ足りないんだと考えること。そして、自分の言葉や、心や、あるいは行為に対して、絶えず懺悔し、外に対しても絶えず柔らかく、それを懺悔し(9)できるという心・言葉・行為と。
これが修行のスタートであり、(10)である。
そして、これを慚愧の念と言っている。
修行者に二つのタイプがあり、(6)を(9)するタイプと、(6)を(9)しないタイプがあるが、最終地点に到達するためには、(6)を(9)してはならない。それは、例えば仏陀釈迦牟尼が三年半(11)の行をなさった例でもそうだし、あるいはチベットの聖者、インドの聖者が同じように(11)の行に徹し、そして、カルマ落としを受けていることはよく知られていることである。
この如来蔵を磨き上げることができるのは、この社会に生き、そして(12)を落としていただき、いかなる状況であろうとも謙虚に自己を意識し、そして周りの環境に関わりなく、自己の言葉・行為・心の働きという、この三つに対しては絶えず意識し、そして、丁寧に、優しく、法にのっとり、(13)にのっとり生きてこそ、初めて真の仏陀というものが完成するわけである。
つまり、最終地点に到達するためには、(14)した教学・(14)した言葉の統御・(14)した心の統御、そして、(14)した行為の統御というものが必要となってくる。そしてそれは、先程述べた慚愧というものが根本である。
まず第一に、(15)は多重であるということ。そしてその(15)というものは、決して深くなればなるほど光り輝くのではなく、その(15)のどの部分にどういう(16)があるかということを、まず知るということが大切であると。
そして知ったならば、次の段階では、それを(17)するということが大切であると。
よって、修行途上で無気力になったり、怒りが出てきたり、あるいは涙が出てきたり、いろんな現象がある。あるいはいろんな色を見たり、いろんな(18)を見たりすると。
しかし、こういうものは一切(19)がないと。こういうものは、すべて修行の途上の自己の(20)を知るための経験にすぎないんだということを、まず理解しなければならない。
そして、最終地点の絶対的(18)の空間、この絶対的(18)の空間、広大な(18)の空間、深遠な(18)の空間というものを培い、完成することが、わたしたちの修行の目標であると。そしてわたしたちの心が、すべての魂の苦しみを包含する(21)の空間と合一すること、これこそが修行の最終地点であると。
そして、その最終地点に到達するためには、慚愧の念を持つということ。絶えず自己の貪・瞋・癡の(16)、身・口・意における貪・瞋・癡の(16)を(15)し、それを(17)することに努めるということが大切であると。
そして、そのためには(22)・瞑想・教学といった三つの(20)が必要である。
「わたし(23)で、(23)ができなくなったからワークに戻してほしい」と。あるいは「(23)ができなかったから還俗したい」と。「在家のときの方が(23)ができた」と。あるいは「以前の瞑想体験の方が素晴らしかった」と。
どうだ、君たち。これは正しいと思うか。
それはすべて、自分の表層からどんどん深い意識に入っていって、ね、そして、その途上にある停車駅にすぎない。
君たちが(24)されるのは、東京から博多駅に着いたときなんだね。
そして大切なのは、博多駅も大切ではないんだよ。その博多駅を降り立ったとき、電車から(24)されたとき、君たちは本当の意味で自由・(25)・歓喜を得ることになるわけです。