アレフ教学システム 問題D
第9章 4話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
前もって述べるならば、この世の(1)というものはすべて、本質的なものの見方をするならば、無(1)であると。そして、この世に、類い稀な徳によって出家し、解脱のチャンスを得ることのできる者たちの(2)というものは、現世の(2)の何億倍にも等しい。
その理由というのは、なぜかというと、現世で得られるものすべては、この生でお別れしなければならないものだからである。ところが、(3)によって培ったものは、そうではないということだね。
では、その一体(4)とは何かといったら、(5)心であると。一緒にいて楽しい、一緒にいて安らぐと。こういうものが(4)であると。あるいは、家庭の中はゴタゴタしてても、なぜか知らないが一緒にいたいと考える心。これが(4)であると。
では、次の段階で、この(4)というものが、(6)のものであるか、それとも永続しないものであるかの検討に入らなきゃならない。すると、当然永続性のないものに気付く。
そして、どちらか一方が離れるとき、それは生離、つまり生まれて離れる、あるいは死別、死んで別れる場合を問わず、そこで当然、愛着していればしているほど、(7)が生じる。
ここで、はっきり考えておかなければならないことがある。それは何かというと、出家し、そして解脱をし、救済に回った者の魂を一個生んだということは、その両親がいたから生まれたわけである。よってその恩恵、つまり(8)の子を生んだという恩恵は、当然両親に返り、また両親の両親に返り、またその両親の両親に返り、またその両親の両親に返るという形で、(9)の先祖を浄化するといわれている。
まず、君たちに一つ言っておきたいことは、性(10)というものは、(11)と関係がある。これは、性(10)が充実すれば(10)が強くなり、端から見ると、ちょっと怒りっぽくなる。これは怒りっぽくなるんではなくて、実際には(10)が充実し、今まで(11)だと思ってたものが(11)でなくなり、堂々と(12)を表現できるようになる現われである。
ではもし、食の煩悩を切り、そこには単に純粋に性欲しかない者が転生する場合、どこへ生まれ変わるかと、これは(13)の世界へ生まれ変わると。よって、性欲に翻弄されてる者は、動物・餓鬼・(13)、この三つが一つの前提条件となろう。
もちろん、他の要素が組み合わされて、例えば、性欲というものは、自己の異性に対しての執着、自己の異性に対しての(14)欲、これによって、他の同性を排斥したいと思う、何だこれは。(15)だね。(15)の念が生じる。
(15)の念が生じることによって、もう一つの道、(16)へ至る道につながるということになる。もし、性欲がそこに存在しなければ、異性に対する――申し訳ない、同性に対するだね――同性に対する(15)が生じなくなる。
結論から言うならば、(17)を食べたいという方が、いろんなものを食べたいというよりも、ステージが高いということになる。それは、そこに単純に(18)のカルマしか存在しないからである。
「いろんな物を多く食べたい」という場合、心が(19)に散っている、つまり五妙欲に支配されている状態であると言えよう。…(中略)…
ところが、もし五妙欲に支配されていれば、意識は(19)に向かい、そして集中が欠け、要らぬ(20)をするようになる。そして、この五妙欲に支配された食というものは、食べ物だけではなく、他のいろんな(21)的なものにも執着するようになっていく。つまり、物に対する(18)、味覚に対する(18)、この(18)がどんどん増大される。
では、(22)とこの修行というものは、天秤に掛けられるだろうか、どうだ。(23)であれば掛けられる。そうだな。(23)じゃなければ掛けることはできない。そうだな。
では、例えばここで、「三年間、一生懸命(24)を積んだ」あるいは「五年間、一生懸命(24)を積んだ」と言う、(23)なる者がいたとしよう。その人の発言は(23)であろうか、それとも(23)ではなかろうか。たったの三年、たったの五年。そうだな。
釈迦牟尼如来、天才釈迦牟尼如来でも、五つの神通力、天眼・天耳・他心・宿命、そして神足と。五つの神通を付けられたのち、四アサンキャ十万カルパ、十億回生まれ変わられたそうだ。つまり、十億回、(24)だけのために生を費やされたと。
わたしは同じ道を歩いている。君たちが同じ道を歩く、歩かないは別にしろ、もちろん、もっと早道があるわけだから、(25)で、智慧の眼を持って修行していただきたいと思います。