アレフ教学システム 問題D
第9章 1話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
一体何をわたしは言いたいのかと。ここに(1)があると。そして(1)と三グナがあると、ね。ま、三グナによって、(2)は構成されてるわけだから、当然三グナがあると、ね。そして、五蘊があると、ね。
例えば、(3)は見ることができると。これはOKだな、どうだ。しかし、例えばね、だれかが死んだとして、その魂が抜け出してだよ、そのあと、(3)をわたしたちは見ることができるかと言ったら、どうだ? 当然できるよね。そうでしょ。よって、(3)はわたしたちの物ではないと言えると、ね。
しかし、もしだよ、それにだれかが(2)を使ってね、(2)を使ってだよ、その死んだ(3)を動かそうとするならば、(3)は動くわけだよね。よって、もし完全に(2)を(4)できる人間がいるとするならば、(3)は我が物であると言えないかな、どうだ。
ということは、(3)は我が物でないとも言えるし、我が物であるとも言えると。
つまりどういうことかというと、その(3)を動かしている(2)がね、(3)を動かしてる(2)をね、わたしたちが(4)できるかどうかで決まるんだということ。そしてその(2)こそ、わたしたちの、ね、その心――あるいは(1)と言った方がいいかもしれないね――にダイレクトに影響を与えるものであると。
そして、この我というものの、ね、我というものを、まず(5)し――ね、(5)というのは何かというと、その五蘊とプラーナを(5)しだよ――そして、そのプラーナの(6)を理解すること、ね、これが修行なんだよ。いいかな。
そして、そのプラーナの質がね、高くなること、これを功徳を増したというんだ。そしてプラーナの質を低下すること、これを(7)を増したというんだ。
君たちが、今日聞いた説法というのはね、これは、ヨーガの理論と(8)の理論が同一であるという、一つの証明の話なんだ。今まで、この話については、だれも説き明かしていない。つまり、修行者にとっては、最も価値のある話のはずだ。
こういう話の時に(9)が出るということは、未来際において、決して最終の(10)がないだろうと考えてよろしい。なぜならば、真我がそれを(11)していないからだ。
そしてこれに気付くと、人間の本体、これは大した意味があるんではなくて、(12)の、単なる(12)の産物なんであってね、今生でわたしたちが磨き上げていかなきゃならないもの、それはプラーナであるということがわかる。そして一般にいわれている(13)というものは、そのプラーナのけがれた部分であると。理解できるか?
そして、人に対して(14)をするとき、何をもって(14)をしたらいいか。君たちがもし、プラーナを感じられるようになると、どうなる? その人が徳の高い人であるか、徳の低い人であるか、わかるよね、どうだ。
それからもう一つ、神通について、少し語ろうか。例えば、(15)、例えば、天眼、ね。
もし、(16)の働きによって、プラーナが動くとするならば、どうだ? (15)通というのは、案外簡単だと思わないか。そのプラーナの動きを、自分が読み取るようになれば、当然、(15)通は生じるわけだよね、どうだ。
つまり、大切なことは、プラーナの動きを理解する、まず(17)をしていくと。そして、高いプラーナを使う(17)をしていくと。どうだ? そして最後は、プラーナから(18)されると。どうだ。
はい。では、最後にだ。ということは、言い方を換えるならば、ここにプラーナがあって、そのプラーナは、媒体であると言うことができるよね。それは、わたしたちの心を(19)ものであると言うことができるよね、どうだ?
逆に、わたしたちが、そのプラーナを(20)するならば、プラーナを(19)ことによって、すべてを(19)ことができると言うことができるよね、どうだ。
君たちがもしだよ、「わたしは、たくさん(21)が聴きたい」と、「わたしは、法を学びたいんだ」という気持ちを持って、日々のワークに勤しんでるとするならば、わたしは、君たちにもっともっといろいろな話をするだろう。
しかし、そうではなくて、「ああ、寝るのは(22)」と、「食べることは(22)」と、「供養を受けることは(22)」と、「愛着することは(22)」と、「現世のことを考えることは(22楽しい)」と、ね、このような修行者にあって、ね、(23)のないような状態を、そのような心を君たちが持っているとするならばだ、わたしは君たちに対して、(21)をすることができなくなる。
そして、それどころか、わたしの(24)そのものの意味がなくなる。ということは、どういうことだと思うか。わたしの(24)理由がなくなるということはどういうことだと思うか、君たちは。――救済ができなくなる。んー、S。
――わたしが涅槃するということだ。君たちが(25)だと考えるならば、ここにいるだろうし、君たちが(25)でないと考えるならば、いてもしょうがない。